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「だが明日は明日ではない」(小説)






汐美さんの舞踏の右半身が深淵の真闇に建ちつくす東京の大学病院の先端から垂れ下がっていた。






非常に恐ろしい感染症が世界中に流行の猛威をまきちらし、日本にも居座っていた。誰もが、この病気を数式的な正式名称では呼ばずに、「奇病」と呼びつづけた。奇病は、ペストの横顔を膨張させた。高熱や咳、息切れ、味覚障害といった症状、とりわけ合併症として肺炎、敗血症をもたらす恐怖が、晦渋かいじゅう雑学的に伝播でんぱした。Schwarzer Tod(黒死病)が奏でる彫りの深いヴァイオリンのねいろを聴きとる者もいた。倫理観はあっさりと中世の暗黒時代へ逆行した。様々な感染予防法が、中世の白魔術の知恵のように、インターネットや口づてに広まっていった。現代のカーテンのむこうで、暗黒時代はその出番を意地になって待ち続けていたのだ。死せる中世などという妄言を信じたのは浅はかだった。服を着替えるためだけに、ひとはわざわざ死んだりなどしないという事は、誰でもわかるのに!
日本じゅうが家のそとに疫病のウイルスが潜んでいる恐怖にかられた。
恐怖はひとびとを魔術師にした。かれらはみんな、商店の品物、毎朝配達される新聞や、貨幣や紙幣に、ウイルスの潜伏を幻視した。


汐美Shiomiさんは、奇病が人命をむさぼる勢いが日本よりもずっと野蛮なイタリアで130年以上まえに遡る19世紀末に書かれた、ガブリエーレ・ダンヌンツィオの20歳代前半の長篇小説『快楽』の一節、「街は、彼女の子宮の底から立ち昇る雲のような大円蓋に支配され、巨大で無形な疫病が蔓延るように、目に見えない火山灰によって沈鬱に埋葬されていた。ああ、海よ!穏やかな海よ!」詩歌で沸騰した海を舞うセンテンスを霊源に、舞踏Butohの新作公演を準備している最中だった。
ローマを舞台に、『快楽』に登場する象牙細工の小柄な髑髏どくろのひたいに彫られたRUIT HORA (時は流れゆくThe hour is flowing away) を舞踏の題にして、文体饗宴の世界は日本で深化する。そのはずだった。汐美さんはそれを確信していた。 



奇病のせいで、公演のスケジュールが、まったく立たなくなってしまったのだ。


汐美さんだけでなく、ステージで表現する汐美さんの友達も行き場を失ってしまった。何人かが公演を映像で配信する方向へと舵を切ったなか、汐美さんは「RUIT HORA」の、映像公演を提案された。
汐美さんは否定的に迷った。汐美さんは目の群れが凝固して、舞踏に熱狂する様子が大好きだったし、そういう会場でこそ最高の舞踏ができると信じていたので、カメラのまえでの舞踏となると、いままでの舞踏とはだいぶ違ってしまうのではないかと、ためらった。しかし映像公演に協力を申し出た映像作家も、衣裳デザイナーも、奇病の影響で仕事がすべてストップし、経済的に苦しんでいるのを知っていたので、彼等の協力を無駄にしたくない気持ちが、背中を押した。



公演の宣伝は 奢侈しゃしをきわめ壮麗にとりおこなわれた。『快楽』がワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』とユイスマンスの『さかしま』とならぶ19世紀末デカダン主義の三大奇書であることをたっぷりと煽り、『快楽』の主人公・放蕩青年アンドレア・スぺレッリ伯爵が詩人で銅版画作家であることにちなみ、原作者ダンヌンツィオをイメージした壮麗な銅版画が作製され、非常に評判になった。期待と興奮を煽り立て公演は初日を迎えた。ところが初日に、公演は中止になってしまった。


汐美さんはカメラのレンズから、いのちのにおいが、 せきを切って流れ込んでくる様子をつかみとることができずに、アンドレア・スぺレッリ伯爵の恋人の絢爛なドレスを彷彿とさせる衣裳の裾いっぱいに襞のむれを浮かべたまま、振りあげた片腕が宙をつかむ悶えを硬直させて、うごかなくなってしまった。浴びせられた照明が、汐美さんの肌から湧き上がる熱湯気を映し出した。汐美さんは画面の中で、体中が高熱につつまれ、倒れた。肺炎とおなじ症状になった。熱は粘着的に汐美さんに居座った。救急車がよばれて、汐美さんは都内の大学病院に運ばれた。


入院前に検査をおこなったら、奇病ではなかった。しかし病院からは奇病対策による肺炎入院患者の隔離にともない面会の禁止を言い渡され、肺炎による入院患者用の病棟に入れられることを告げられた。汐美さんには家族がいなかった。汐美さんの友達が代わる代わるやって来て、面会させてほしいと訴えたが、政府の方針が変わらぬ限り、面会は一切できないと言い渡された。病院に着替えを持ち込むたびに看護師から、汐美さんの病状をきき続けたが、病状は好転しなかった。


これまでなんとかやってきたのに、梯子はしごを外されるように、かつてないほど空腹で競争の激しい世界に連れていかれることを恐れる人々の不安のいきおいは、破格なまでに劇的であるにちがいない。奇病から生まれる情報を、共有財産であるべき知識として分配するのではなく雑学として拡散したがる輩が跋扈する勢いは、留まるところを知らなかった。

 

病院の奥の汐美さんは、彼女の担当看護師からの電話ごしに、汐美さんが過去の公演で撮った写真と、ダンヌンツィオの『快楽』、そして「RUIT HORA」の一環で作成された、例の豪華な銅版画を持ってきてほしいと訴えた。銅版画と、にしきで装幀した写真アルバムの数冊が、院内に運び込まれた。






「時は流れゆく、だが明日は明日ではない」




その夜の病院の、肺病患者病棟のくらやみのなかで、利道の、老いた肺の二股が、瀕死の白鳥の翼を広げた。




汐美さんと出会うまえの利道はまいにち、病院での夜を恐れた。寒々しい寝床で緊張をはしらせながら妄想のなかで、視線をまよわせる。天井からは蜘蛛が糸をのばして降りてくる。女神ウェスタの神殿の暗殺者が飼いならした毒蜘蛛が無限の知能を活動させ、くびすじにおりてくる。利道の「せん妄」は 魔術の影響のしたで奇想的に活性化していた。 




白鳥のつばさに、かつて私に愛をささやき、いっしょにホテルを渡り歩く生活を国内外でくりかえし、私を薬物中毒にして殺した利道の、いついかなるときにも感情をおもてに出さない顔・・・・faces,faces,faces......顔面のむこうに、汐美さんの舞踏の銀の髑髏どくろが透けてみえた。        




利道は、かれの愛読書で、50歳代になったダンヌンツィオが20代の兵士のような命知らずにとり憑かれ、歩兵戦をはるかに上回る危険と隣り合わせな魚雷艇や飛行機の戦闘を繰り返した第一次世界大戦で、重傷を負い、失明寸前の危機に見舞われた前後に書いた『夜想曲』『レダなき白鳥』を収めた小説集への想いをふるいたてると、魔術を纏って、病院をぬけ出た。かたわらには汐美さんが、ダンヌンツィオの献身的な長女のレナータのように付き従った。 
利道は 日没を目の当たりにした                    
利道は    逆光をうかべる白鳥の拡翼にみちびかれた
利道は 翼の左右にオーケストラの配置を読みえがいた
利道は    街がつばさに覆われるのを喜んだ
利道は 街が奏でる水都幻影の交響詩の名演に涙をながした
利道は 拍手をおくって 笑って むせた
利道は  街が弦楽器になりたがっている樹木で覆われるのを観た
利道は アマティ  ガルネリ クレモナの楽器に変容する木を観た
利道は 夜の木々がまばゆく呼吸するのを観た
利道は 舞踏が肌を蜂蜜いろのニスで輝かせるさまを観た

 
利道は感激した。快感に打ち震えて感動した。





汐美さんは瀕死の利道に、一滴ずつ媚薬を垂らすように『快楽』の台詞をそそぎこんだ。「パンドラの無防備な腹部」「まばゆい盾ーーー快楽の鏡」そして「完璧な臍、クロード・ミシェル・クロディオンのテラコッタ像にみられるような可愛らしい湾曲をえがいたへそ、純粋で優雅な刻印」フラゴナールのモチーフにもなったla gimblette から仔犬がいなくなって晒されたへそ......そして、「盲目であるが星よりも輝かしい、希臘ギリシャのエピグラムで賛美されるのにふさわしい、快楽の瞳」オスカー・ワイルドやユイスマンスの豪華な、ことばの饗宴性が、ゆっくりと余裕に富んだ朗読で、無限の残像がうかびあがるのに似て、ダンヌンツィオの『快楽』から、デカダンの夢で調合した妙薬の深いハーモニーを奏でるさまが豪奢な調和をえがき、残像をたっぷりとえがいた。利道は奇病禍のなかで、おおっぴらに魔術をつかった。夜のなかで汐美さんにくちづけすると、汐美さんは途端に肺炎から解放されてしまったのだ。


faces,faces,faces......利道の暮らす病棟の患者はみな、カレンダーも時計も無い、無機質な白い壁がつづく病室のなかで、疑心暗鬼の苦しみを募らせていた。 もし、首都直下地震が起きたら?もし?病院のそとに居る家族が非正規雇用から転落して失業したら、生活保護を受けることができるんだろうか?



ヨーロッパの在る国で、日本が奇病の蔓延を魔術で防衛しているという噂が立ち、その国の政党党首が噂に幻惑され、中世の魔法使いの外套フードをあたまからかぶった格好で妄想じみた国会演説をおこない信頼を失った。ぶあつい虚構の被膜が日本を覆っているのは事実だった。汐美さんはフィンランドと縁が深く、ノキアのふるい携帯電話にかけてくるShiomi san のたくさんの友達も、日本のそとで困惑していた。フィンランドからだけでなく、フランスからもポーランドからも韓国からも、Shiomi! 汐美さんのButohを呼びかけた。日本は世界の孤島だった。



快楽の瞳に嫉妬し、ちた星のすがたをとった汐美さんが・・・・金糸と瑠璃が綾なすチュニック姿で、ゴシックダンスを踊っている。周囲には、東方絶対君主国の皇帝が寵愛する黄金のたてがみの一角獣ユニコーン、クッションに置かれた青銅の鹿。ダンスが生み出す、まるで生身の少女から型を取った蝋人形に嵌め込まれたエナメルの瞳。足元は市松模様をえがき、舞踏の足くびに巻かれた豪奢なアンクレットが光と音の渦をさかまいている。   


そしてダンスを守護するのは、「RUIT HORA」の一環で作成された銅版画。時間をかけずにつくった荒々しい制作のようすが熱っぽく染みこんでいる。大熊座のかがやきの反映をうつす夜の冷たい漆黒にうかびあがる、夜鳴鶯ナイチンゲール。吟遊詩人が、愛と欲望のはげしさをリュートにのせて歌う。詩人は夜鳴鶯ナイチンゲールとならんでダンヌンツィオの守護鳥である燕の刺繍着をまとっている。銅版画は、リズムと呼吸のモノクロ万華鏡の刻印だった。汐美さんはこれまで、「マントルピースから、炎のような熱気が流れ込む苦しみ」にとらわれていたのが、利道の邪恋によって、その炎が絶たれたのだ。あるいは銅版画も汐美さんの高熱を引き受けたのか。

マントルピースの左右それぞれに装飾布が掛けられ、『快楽』の放蕩者アンドレア・スぺレッリ伯爵が愛したふたりの夫人が礼拝にのぞむような宗教的荘厳さで絵物語が綴られていた。マントルピースの冷却を吸った布を、汐美さんがダンスにまきつけ、病院のそとへ走った。
汐美さんは 病院を夜にとじこめた
汐美さんは 病院の庭に夜鳴鶯ナイチンゲールを離した
汐美さんは 病院に入ってくる救急車の目の前に飛び出た
汐美さんは 病院のなかに戻ると
汐美さんは ベッドの利道を抱きかかえた
汐美さんは 利道の両の掌に銀のちいさなどくろをにぎらせた

汐美さんは 利道を抱えて病院の塀によじ登った
汐美さんは  田んぼの畦道を疾駆するように、
汐美さんは 塀のうえをつっ走った
汐美さんは 汐美さんは・・・・・・
汐美さんは 利道をじめんに大の字に放った
汐美さんは 淫蕩さが血管を駆けめぐった


塀のうえを走る汐美さんの右腕のなかに掴まれた利道は汐美さんの手で地面に放られ、汐美さんは、そのうえに覆いかぶさった。



「時は流れゆく、だが明日は明日ではない」私は汐美さんの口を借りて、銀の髑髏に呼びかけた。



利道は、俄かに全身が重くなるのを感じて冷ややかになった。土を、それぞれの手で、肺で、銀の髑髏どくろといっしょに、掴み取る。利道は地面の土をつかみ、腕を宙に掲げた。手のひらのなかに、木が生える。利道はワインを育てるようにヴァイオリンの木を育てる土の豊かさを、手のひらに露わにした。すると驚いたことには、能楽の衣裳の重さが、白拍子の正体の普賢菩薩が、能楽の救済性が、利道に降りてきたのだ。どんな汚い言葉を吐くひとの体にも、聖霊はときどき舞い降りる。地上的な匂いを全身に充満させ、利道は死んだ。能楽の天上的で幽玄な香りが、よどんだ残像を病院の庭にひろげた。汐美さんは、取り巻く看護師や警備員たちに向け、舞踏を終えて、一礼を披露した。




汐美さんは隔離病棟よりもずっと上のランクの部屋に閉じ込められた。




永久に閉ざされた部屋は汐美さんをよろこばせた。ヴィットリアーレ城と名付け、城のなかで新しい舞踏の題を練り、「冠」と名付けた。かがやく月桂樹で編んだ冠が照らす部屋ですごしていると舞踏の霊感がとめどなく湧いた。



 病院の尖塔を頂くその部屋からは絶対に出られないと、日本と、そして地球の誰もが思っていた。






※後の日に、「だが明日は明日ではない」第2ヴァージョンを投稿します

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