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短編 残響

 あの涼しげな場所も、冬の暖かな雰囲気も、おしまいになっていく。
 規定されたさまざまな粒度をもつ評価の集い。生まれながらにして能力に差はあるから、それに見合った群としてそれ以外の華やかなものを求めし。

 響きあったものは学舎の破壊によって何もかもが無くなった。
 だからもう、あの廃屋から数多の無敵だった頃を思い出す事はないのだろう。
「大人になったから、もう響くこともない」


 山の中腹にある寄宿舎兼学舎、必ず誰かが屋上の鐘を鳴らして朝と夜が繰り返し始まる。ここにいる全員と繋がっているように感じる瞬間だ。
 鐘の音とわたしたちの中にあるものが震えて、誰かがいなくなったことが分かる。
 その彼は大人になって、ここを去った。いつかはそうなると指導者から聞かされていた。
 わたしはいつ去ることになるのだろう。

 労働は決まって朝に仕組まれ、そして夜花開く。今やヒトよりも多くなったキョンなどの四足獣、滅多に姿を現さないクマの代わりに野犬の群れ。
 そうした生き物を捕まえて食べるため。餌食にならないため、いまやほとんどいなくなったわたしたちを存続させるため。
 生存の仕組みは大変。はるか昔のさまざまな「快」がそれこそ星の数だけあった時代への憧憬。その記録を指導者たちは語るけれど、それが楽しいか想像はつかない。
 パンを作る作業が初めに与えられて、わたしは集められた多くの子供と生地を捏ねている。
「クマ、野犬たちと一緒になって生きていくってのはどう」
「それじゃ、大人たちと変わらない」
 子供たちはどこからかこの学舎へと連れてこられた。
 わたしは冬の終わり、芽吹く時期に連れて来られて大人になる為にここでの生活を送ることと学舎の指導者に言われた。
 一緒の部屋になった子と色々と話をするとやはり大人になることが付いて回る。それぞれが想像上の大人を語り、指導者はそれに応える。
 ……指導者らは、大人ではなかった。
「ずっと昔は、彼らのようなキカイが沢山居て、仕事を手伝ってくれていたんだって」
「そうなんだ」
 子供でも、大人でもなく、キカイだから、彼らはわたしたちの世話をしていた。
 彼ら曰く、二足歩行で、四つ足で、大型犬のように優し気な表情で、子供たちが穏やかに過ごせるよう設計されているのだそうだ。

 昼間の散策の時間、整備された道が残されていた。それを見て思う。
 ヒトは消えかけているにも関わらず、その残骸だけは変わらずにある。古びてしまったものもあるが、まだ使えるものはわたしたちの誰かが整備をしている。
 夏に向かいつつある日に、小さな湖で泳ごうという話になって綺麗な道を歩いて向かう道すがらわたしはこの体に疑問を抱いている。
「大人になるって言うけれど、どこからが大人?」
 同じ部屋の子はそれがよく分かっていないからかたどたどしく、
「一人で生きられるようになってからが大人で、でもそれで獣のような」
 と答える。
「どうなんだろうか、一人で生きられるようになったかを判断する。と指導者たちは言うけれど、彼らは生物とは違う。昔の大人たちはどこに行ってしまったのだろ」
 ここには大人はおらず、生きるためのルールとそれを守るための監視だけがある。指導者たちはいつでもどこでもわたしたちを監視していて、危険なことやルールを逸脱するような行動を咎めてくる。
 咎められると、なんだか何もする気がなくなってしまい、そんなことが何度もあると、この体に何かそうさせる仕組みがあると気付く。
「体の中から監視されて、それはまだ子供だから?」
 全てを庇護されなければ、わたしたちは生きられない。父や母といったものは初めから無く、子供であること以外の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
「体調が悪くなりそうなときにもすぐ助言してくれるから、悪くないと思うけどな」
 捉え方は人それぞれで、どうにかその何かを取り出そうとする子もいれば、上手く活用する子もいる。
 取り出そうとした子は、腕に大きな傷が残った。鐘が鳴るたびに気持ち悪くなるからと。
「腕に怪我したあの子はまだ寝込んでいるよ」
「つらい。今はその話はやめて」
 楽しむ為にやって来たのだから。
 わたしはハッとして口を噤む。
 湖が見えてくる。もう先に何人か泳いでいる。少し遅くなってしまった。

「腕の調子はどう」
 暑さが去って、涼しげな風が吹いていく。紅葉が遅れてやって来る季節になると、狩りが本格的に行われる。
 それぞれが罠を仕掛け、毎日の巡回の最中に腕に傷が残った子と一緒になったので聞いてみた。
「無くなった時はどうしようかと思ったけどよ、代わりが生えるとはね」
「最近は狩りも解体も調子いいから、もうほとんど変わらないね」
 ここで負った傷や全ての不都合な事実は次の日には無くなってしまう。腕に傷を負った子はしばらくして、その腕を切り落とすことになった。
 けれどもこうして、また生えてきている。何事もなかったように、あの監視も鐘の音にも疑念を抱かないようになった。
「それでよ、オレは明日大人になるんだそうだ」
「へえ、それはよかったね。それで、準備は?」
 もう万全。彼は元気そうに腕を回してそう言った。
 大人になるかならないかはキカイたちが決める。昔に決められたルールに従って、それに見合うものになっているかどうか判断される。
 わたしよりもその子が大人になるのに適しているとは思えなかった。ただ元気で、向う見ずで、それほど疑問を抱かないでいられるように見えたから。
「外で会っても仲良くしような」
「うん」
 それでも彼は外へ出て行くことを心から楽しみにしている様子だ。


「大人になる。それで帰ろうとしなければならないと」 
〈残念ながら、そうなる。ここは一時の学舎、そして〉
 腕の彼は元気だろうか、彼もこれを経験したのだろう。
 唐突に目覚めた場所はいつもの部屋ではなくて、薄汚れたテントの中だった。埃っぽく、すぐに起き上がって咳をする。
 指導者の顔が目に入り、そして時期が来たのだと確信する。大人になる。もう戻って来ることはなく、旅が始まる。
 まだ日の上る前、わたしが気付くことなく”その時”はやってきてしまった。
〈あなた達の体は望むまま、ここから好きなように変わる。方向性をしっかりと見つけられるか、それが大人の条件だった。しかし……〉
 大半はヒトがわからずに、野犬のように、鹿のようになって、そこらをうろつくようになるという。
 徐々に朝日が差し始め、肌寒い風が入り込む。
「どうしてそうなってしまうのだろう。それに、この体は?」
〈教育の失敗が起きる理由は分からない。ここから先はずっと南へ、ヒトの集落に辿り着くことが出来れば、そこからが本当のいのち〉
 二足歩行をしようにもどうやらそこまでの体にはなっていないらしい。ひ弱な茶色の毛で包まれた前足が見える。
 テントの外へ出ればそこは背の高い草が生え揃った草原。周囲を見渡せば馴染みのある学舎や山は見えない場所にいる。
〈進化に行き着いて全てのありようを内包出来るようになったものたちのことをヒトと呼んでいた。どうか、良い旅を〉
 これは、進化する為の旅だ。知性を持つ存在に変化してきたわたしたちが辿り着く学舎。そして、子供から大人になる。
 その道の終わりは獣としての生か、ヒトとなり、この厳しく孤独な世界で生き抜くのか、わたしには分からない。
「‥‥あ、まだ鐘の音がわかる」
〈最後の応援です。学舎の経験が生きると良いのですが〉
 ヒトの姿もしていないのにあの経験は役に立つんだろうか、それにわたしは自分がどんな動物なのかもわからない。どうやら四つ足の、茶色く小さい毛玉。
「それじゃあ、またね。行ってくる」
 そう伝えたと思った。けれど指導者たちはもう踵を返して戻る所だ。
 
 わたしは草に付いた朝露を舐め、そうして草原の中を隠れて進む。動き辛いこの体で、どこかへ帰ってゆくために。


釘を打ち込み打ち込まれる。 そんなところです。