本気でパートナーを探さなきゃと思った理由と、結果学んだこと

母子家庭のひとりっ子として育った。

父母は私が3歳の頃に離婚し(正確に言えば、別居。離婚には時間がかかったようだ)、父や父の身内と交流することはなかった。

母は、日々、私には全く興味が無い様子だった。
育児を放棄されていたわけではないけれど、テレビを観ている以外の時間は、いつも上の空だった。
おしゃべりだった私は、学校であったことなどを母に話そうとするのだけれど、食事の支度をしている台所に行くと「邪魔」と言われ、テレビを観ながら食事をしているときに話そうとすると「今テレビ観てるんだから」と言われた。
たまに聞いてもらえても、話の内容を咎められて喧嘩になったりする。
喧嘩をすると、1週間程は口を聞いてもらえなくなる。
2人家族なのに。
成長するにつれて、母とはほとんど話をしなくなった。

サザエさんには憧れたことはないけれど、三世帯家族のドラマなどを観ると、とても羨ましいと思った。
あんな家族を私も作りたいと、小学生の頃からずっと夢見て、結婚した。

《結婚》や《家族》に対して理想が大きく、家族に男がいなかったため『男とはいかなるものか』を知らなかった私は、すぐに夫とはうまくいかなくなり、離婚した。
(もちろん離婚の原因は多々ある。ここでは省略する。)

離婚するときの条件として、長女は夫側が親権を持ち、次女は私が親権を持つことになった。

長女は私に似ていて気が強く、育てている最中には腹が立つことが多かった。自分の子供として、もちろんかわいいし大切だけれど、自分の嫌なところをいつも見るようで、私だけが育てると、虐待してしまうような気がした。私にとっての母のようになってしまうのではないかと思った。
それに、夫は長女を溺愛していたし、長女は他人から見ても父親っこだった。
2人を離すことは、姉妹を離すことより可哀想だと思った。

次女の方は、赤ちゃんの頃からいつもニコニコしていて、常に機嫌の良い子供だった。
あまのじゃくな夫と私の元に、よく生まれてきたものだと思った。
何かに対して腹を立てることもなく、たまに元気が無かったり真顔をしている日は、病気だった。
わかりやすくて、とても育てやすかった。

次女と2人の生活は快適だった。
腹の立つこともストレスも、何も無い毎日だった。
私も次女が大好きだったけれど、次女も私が大好きだったと思う。
仕事が休みの日に朝目覚めると、私より先に起きた小学2年生の次女が、私のためにサンドイッチを作ってくれていたりした。
家事も好きで、学校が休みの日には、布団を干したり洗濯したり、家の掃除もよくやってくれた。
私を喜ばせようと無理をしているところもあるかもしれない……とは思いつつ、鼻歌を歌いながら家事をする次女に甘えていた。
《この子は前世は私の母だったのでは?》とも思った。
その頃の次女にとっては多分、私を喜ばせることが何よりの喜びだったのだと思う。

そんな次女は小学1年生のときに、6年生の男の子に恋をした。
次女は小さな頃から身体が大きく、3つ上の長女といると双子と思われたり、小学1年生の頃には3年生くらいとよく間違われた。
一方、6年生の彼は背が小さく、同じように3年生くらいとよく間違われていた。
2人が並ぶと、背の高さは同じくらいで、とてもお似合いだった。
同じ習い事をしていて、家も近所だった。
彼は次女をとても可愛がってくれた。
サッカー少年で、周りをいつも男友達が囲んでいた。
リーダー的な存在の少年だった。
どんなに背が小さくても中身は6年生だから、本当にとても次女に優しくしてくれた。というか、誰にも優しそうだった。
私も彼が大好きだったし、そんな彼を好きになった次女を《見る目があるな》と誇らしくさえ思った。

小学1年生でそんな恋をしてしまった次女は、その後なかなか他の男の子を好きになることが出来なかった。
同い年や、1つ2つ年上の男の子は、次女にとっては全く子供でしかなかった。

中学生になり、ちょっと良い感じの男子が次女を好きになってくれ、次女も良く思っていたけれど、心から好きだとは思えなかったようだし、付き合うというところまではいかなかった。
彼は、県内にあるJ2チームのジュニアユースで、学校の部活はやっていなかった。
学校のサッカー部の男子達は、みんな彼が学年で1番足が速く、サッカーが上手だと思っていたようだ。
彼はもちろん、プロの選手を目指していた。
このときは、メールのやりとりの内容まで教えてくれ、
「面倒だから代わりにメール打って」
などと頼まれ、私が彼にメールを打ったことさえあった。

高校生になると、同級生より、既婚の先生が好きになってしまった。
先生は30代前半で、運動部の顧問だった。
顔は、一部に特徴のある芸人に似ていて、決して格好良くは無かったけれど、顧問としての指導がとても熱心で、元々弱くはなかったその部を、あっという間に県大会でベスト4に入るまでに強くした。
強くなると部員が増え、AチームからCチームまでのランクが出来たりしたけれど、どのチームにも手を抜かずに指導する姿は、たしかに魅力的だった。
なので、男子には人気があり、顔のせいであまり女子には人気が無かった。
授業でも部活でも関わることは無かったのに、次女はすごく好きになってしまったのだ。
このときも、顔ではなくて中身で男を選ぶ次女が、また誇らしく思えた。

そして、高校時代もだれと付き合うことも無く、彼氏が出来た事がないままに、大学生になった。

私は、離婚してから、パートナーが出来たことはなかった。
毎日仕事ばかりしていたし、仕事先にも、なかなか好みの独身の男性がいたことはなかった。
お酒が好きではない私は、飲みに行くこともなかったし、家にいることやテレビを観ることが好きだったから、夜に出かけることさえほぼなかった。
何より、次女の話を聞くことが夜の楽しみだった。

次女は、毎日毎日、その日あった出来事をすべて私に話して聞かせてくれた。
見たもの、聞いたこと、感じたこと、人との会話…
話も上手だったから、私は次女と同じようにその場にいて見聞きしたかのような気分になった。
もう一度、違う人生を体験しているような感じだった。


私の母には男がいて、妻帯者だった。
いつも上の空だったのは、そのせいだったのだと思う。
空(くう)を見つめてぼんやりしている母は、母ではなく《女》で、子供の私にはそれが気持ち悪かった。
私と同じ気持ちは、次女には味わわせたくなかったから、余計に積極的にはパートナーを探そうとはしなかったし、自然に出逢えるものだと思っていた。


次女の為にすることの全ては、何も苦にならなかった。
どんなに忙しくても学校の役員をやり、仕事の合間に時間を作って、出来るだけ近所のイベント事には参加した。
入る人が少なくなった子供会に入り、子供会の役員を引き受け、
とにかくいろんな体験をさせようと、いろいろな習い事をさせ、
月謝を払うことも、送迎も、楽しく感じるくらいだった。
受験料がかかる検定も、合格出来る出来ないに関わらず受験させたし、受験料も問題集代も、惜しいと思ったことはなかった。

次女は色が白く、人目を引く子供だった。
友達にも優しかったから、男女共に人気もあり、近所のおじさんやおばさん達にも人気があった。
おしゃれにあまり興味が無い私も、次女にはおしゃれをさせたかった。
高い物は買えなかったけれど、次女に似合いそうだと思うと、服や小物を購入した。

生活が楽なことはなかった。
カードでショッピングをしたり、生活費が足りずにキャッシングを利用することもよくあった。
自分の物はなかなか買えなかったし、遠くに出掛けたりはできなかったけれど、次女と一緒に過ごすだけで幸せだった。


次女は真面目で何事にも一生懸命取り組む子供だったけれど、記憶力が悪く、成績はあまり良くなかった。
高校は、進学校である県立高校に入ったけれど、そこでも成績は3年間下から数えた方が早い順位だった。
勉強をしなかったわけではない。
一生懸命していたし、部活を引退した後は、毎日職員室に通い、面倒見の良い先生に個人的に勉強を教わったりしていた。

次女が小学生の頃、彼女の興味や関心があることを見て、私は国家試験で資格を取る必要がある職業を、将来の目標として提案してみた。
その気になった次女は、早くから将来なりたいものとして、その職業を口にしていた。
国家試験受験の資格を得る為には、4年生の大学へ進学しなければならなかった。
私はもちろん、大学に進学して欲しかった。
次女の成績でも入れる大学が、県内にはいくつかあった。
そこを卒業すれば、国家試験を受験するための資格は手に入れることが出来る。
でも、私は、次女には県外の大学に進学して欲しかった。

私の元夫は、県外出身者だった。
生活習慣や言葉の使い方の違いが面白かった。
いわゆる転勤族だったので、いくつかの地方都市に住む経験をした。
その土地土地で友達が出来、今現在も付き合いは続いている。
住んだ土地での経験や、それによって机上の勉強ではなく学んだことは大きかった。
次女にも、県内に住み続けることより、広い世界に出て、いろんな人に出会って、いろんな経験をして欲しかった。

でも、志望校決定時期になっても、県外で次女が入れそうな大学はあまりなかった。
耳にしたことがないような名前の大学には入れそうだったけれど、そこで人生を変えるような出会いがあるとは思えなかった。
早々に浪人させることを決めた。
本人の希望でもあった。


その頃、長女は県内の大学に通っていた。
通っていたといっても、自宅から通学していたわけではなく、大学の近くで1人暮らしをしていた。自宅からは約60km離れた市だった。
長女に頼み、1ルームの部屋から2Kのアパートに引っ越しをしてもらい、次女をそこに住まわせ、都会にある厳しい予備校に1時間半かけて通わせた。そこからなら、なんとか通う事が出来たからだ。

浪人を、自宅や近所の予備校でさせることは考えられなかった。
次女が帰って来てからは、どうしても毎日、1日あったことを何時間も聞いてしまう。
食材を買いに行くのにも誘ってしまいそうだったし、食事を作るのが面倒なときには外食に誘ってしまうだろう。
勉強の時間を奪ってしまう。
厳しいことで有名なその予備校には男子寮はあったけれど、残念ながら女子寮はなかった。

予備校に入学するためのお金は、母から借りた。
アパート代は、長女が引っ越し前に住んでいたアパート代と同額を長女に払ってもらい、残りは私が持つことにした。
光熱費は、ガス代のみ長女に払わせ、水道や電気代は私が払うことにした。
自分が住んでいるマンションは、母所有のもので家賃は見逃してもらっていたけれど、マンションの管理費数万円と、仕事場の家賃。そして光熱費は3ヶ所分払うことになった。
予備校への通学定期代は1ヶ月3万円を超えていた。
3ヶ月分などまとめて買えばお得なのだろうが、そんなにまとめて買う事が出来なかった。
何せ、貯金は0での状態で決めたことだ。カードも限度額ギリギリだった。

現金の手持ちがなく、必要な物はカードで支払うことになる。
アパートの家賃も、最初に必要な敷金礼金も、カード払いにしていた。
毎月とんでもない額の請求書が届く。


私はまず、朝7時オープンの飲食店で働いた。
オープン準備のために6時出勤だ。
昼過ぎまで働き、家に帰って朝食でもある昼食を食べる。
夕方からの自分の仕事に向けた準備をし、出かけ、自分の仕事をこなす。
帰って来てから、同じマンションの方が経営する居酒屋で22時過ぎまで働いた。賄いが頂けたから、夜ご飯はそこで済ますことが出来た。
そしてまた次の日に、5時には起きて6時前には飲食店に到着。
休みの無い飲食店だったから、本当は土日祝日も出勤しなければならなかったけれど、事情を話してそのシフトを断った。
土日や祝日は、丸1日、時給が高い派遣などの仕事をしていた。
できるだけ、現金が終業時にその場で、又は給料前に貰える仕事を探した。
更に時給が良いので、夜勤をすることも多かった。
年末年始の時給は高かったから、元旦から働いた。
とにかく、仕事をしない日はなかった。

2週間に1度、仕事を午前中だけにして、1時間半車を運転して、娘達のアパートへ行った。
作り置きできるおかずを何種類か作り、タッパーに詰めて持って行き、生野菜やお米やパンや日用品などの買い物をして、夕食を3人で食べた。
往復3時間かけて予備校に通い、朝6時半から、夜は9時まで、休みなく予備校で勉強を頑張る次女の事を思うと、疲れなど感じたことはなかった。

1年間、私も娘達も頑張ったけれど、次女は希望の大学に合格することは出来なかった。
それでも、県外の、少しは名の通る大学に、なんとか合格することは出来、入学した。

大学の敷地内に、出来たばかりの女子寮があり、交通費をかけずに大学に通うことが出来た。
綺麗で、個室に電化製品も、ベッドや家具も揃えられていて、その他の設備も整っていて、生活雑貨も個人で買う必要が無かった。
朝食と夕食は寮で用意してくれることになっていた。
奨学金を2つ借りてもらい、生活費はそれで賄わせた。
とはいえ、生活費などほとんどかからなかったはずだ。
さらにバイトもしていたから、十分やりたいことは出来たと思う。
お友達に、旅行や飲み会に誘われたときに「お金が無いから行けない」などと、諦めてほしくなかった。
いろいろな人に出会い、いろいろな場所に出掛けて欲しかった。
出掛けた先の話を聞かせてくれて、写真など見せてくれたら、きっとまた私も一緒に行ったような気分になれるだろう。
そのために奨学金は使って欲しかったのだ。

だから学費は、全額私が払うことにした。
もちろん、貯金は無いし、なんなら借金だらけだった。
私立の理系の大学だったから、1年間で150万円必要だった。
社会人になって収入が良い長女の名前を借りて、さらに借金をした。
自営業の収入が少なく、浪人時代のカードの支払いが期日に引き落とせなかったことが度々あった私は、新しくお金を借りることは無理だろうと思ったからだ。

借金がどんどん膨らんでいく。
元々仲が良くない母は、可愛がっていた次女の為に、入学金は出してくれた。
予備校のお金を借りるのが精一杯だったから、それ以上貸して欲しいと頼むことはできなかった。
マンションの家賃も払っていないし。

払っても払っても、なかなか借金は減らない。
でも、自分のやっている自営業は、子育てが終われば(次女が大学を卒業すれば)うまくいくと思っていた。
それまで次女にかけていた時間をすべて仕事に使えることになるし、出ていくお金は無くなるから……

ところが、全く予定になかったコロナ禍が発生してしまった。
想像していたことが全く崩れてしまった。

確かに、個人事業主として給付金はいただき、助かりもした。
でも、それらは、『焼け石に水』だった。
世の中の価値観がすっかり変わってしまった。
なかなか浮上出来ず、支払いに追われる日々が続く。
それでも、辛いとは思わなかった。
次女の明るい未来の為だ。


次女が大学4年生になったある秋の日、
長女と3人で作っているグループLINEに、メッセージが入ってきた。
『やっと彼氏が出来ました。付き合って3ヶ月経ったので紹介します』
『居酒屋の店長をしています。年は5歳上の28歳です』
そして、彼の写真と、居酒屋のH.P.に載せられている店長の紹介部分。

顔は全く私の好みではなかった。
でも、次女が付き合っているんだから、私の好みでなくても仕方がない。
年もまぁ、きっと年上を選ぶだろうと思っていたから、やっぱりな、と思う年齢差だった。
何ならいつか、バツ1の子持ちの人などと出会ってしまうかもと思っていたくらいだ。

引っかかったのはまず
『付き合って3ヶ月』というところ。
小さな頃から何でもかんでも話す次女の全てを知ってきた。
人との出会い。そこからの発展。
なのに、何にも聞いたことのない人と、いつの間にか付き合い、3ヶ月も経ったとは、どういうこと?
そして、居酒屋の店長とは?

大学生になってすぐ、の時期ならわかる。
バイトに行った先でリーダーシップをとる年上の男性がかっこよく見えてしまうこともあるだろう。
付き合ってみて「なんかお店での店長とプライベートの店長は違うな」などと感じて別れてしまう……なんて経験があっても、それはいい。
でも、大学4年まで彼氏も出来ずにきたのは、それまで好きになった何かを頑張っているすごい人達を超えるような、リスペクトできるような人との出会いが無かったからだと思っていた。
大学を卒業するまで恋愛の経験が無くても、社会人になってから、仕事を一緒にして、尊敬できるような素敵な人に出会ってくれればいい。
社会に出る為には、まず国家試験に合格しなけらばならないわけだし。

なのに何故、これから本腰入れるってときに、彼氏?
そして、何故、居酒屋の店長?

いろいろな飲食店で働いてきた。
飲食店の社員は、バイト上がりの人が多かった。
楽しかったから・就職先を探すのが面倒だったから・うちの社員になっちゃいなよ、と声をかけられて 等の理由で社員になった人ばかりだった。

H.P.の紹介文によると、
かなり遠い地方の県から都会に出て来て、最初は一般企業に就職したらしい。
すぐに辞めて料理の道に目覚めた、というような聞こえの良い事が書いてあった。
時期から考えて、高卒。
高卒で、わざわざ遠くの都会に就職したのに、合わずにすぐ辞めた。
想像でしかないけれど、生活の為に始めたバイトが楽しくなり、そのまま社員になったのだろう。

何故、私の娘を選んだの?
何故、私の娘は、そんな男に引っかかったの?

私が県外の大学にこだわった理由は、話して聞かせたはずだ。
次女が男を選ぶ目は間違っていないと信じてきたのに……

性格は、良いのかもしれない。
でも、飲食店の店長は、目指そうとしてなるものではない。
頑張ったからなれた、というものでもない。
自分でお店を開くのが目標で、まずは修業、という風でもなさそうだ。
(そういう理由でもあるならまだしも)
何かを目指して一生懸命な人が好きだったんじゃなかったっけ?
貧乏なお笑い芸人と付き合っています、と言われたら反対はしないのに。

居酒屋の店長を選ぶことになるなら、浪人させる必要もなかったし、
県内の大学に自宅から通ってもらえば、こんなに借金も作らずにすんだのに……

とても裏切られた気持ちになった。
眠れなくなった。
なんとか寝たところで、朝起きた瞬間から暗い気分になった。
働くことが馬鹿馬鹿しくなった。
何をしても疲れを感じるようになった。
1日中ため息ばかりついてしまう。
大声で叫びながら泣きたいと、毎日思うようになった。

何でも話してきた次女に、自分のその心の内を伝え、
「その男の話は二度とするな」とLINEを送った。

次女の事が嫌いになりそうだった。
世界で1番、私の事を好きでいてくれた人は、いなくなった。
もう誰も信じられないような気持ちになった。

次女はそれまで通りに私に優しくしてくれたけれど、
男の事を認めさせようという下心があるのではないかと、疑うようになってしまった。
素直に親切を受け取れなくなってしまった。


子供の頃、母に
「父親と離婚した後にプロポーズしてくれた人がいたけど、あんたのことを思って再婚しなかった」と、言われたことがあった。
その他にも、
「あんたのために」とか「あんたのせいで」などと、よく言われた。
「自分1人だけなら、パートの仕事でもいいんだけど」
自分の人生がうまくいかなかったことや、日々の辛い事が、全て私のせいのように、何度も言われてきた。
「そうかもしれないけど、私は頼んでないよね?
決めたのも、選んだのも、お母さん自身でしょ?」
喧嘩になるから口には出さなかったけれど、何度その言葉を飲み込んだだろう。

私は、自分の人生は自分で決め、責任を取ろうと思ってきた。
子供達に、同じ言葉は吐かないと、同じ思いはさせないと、考えてきた。
でも、母と同じ事を言いたくなってしまった。

「あなたのために、こんなに毎日働いているのに」
「あなたのために、やりたいことも、行きたいところも、欲しい物も我慢しているのに」

どうしても県外の大学に行かせたかったのも、本人の希望があったとはいえ浪人させることを決めたのも、私だ。
そもそも、離婚を決めたのも、家族を半分ずつにしようと元夫に提案したのも、私だ。
子供達は、私のせいで《母子家庭》や《父子家庭》になったのだ。
離婚後に元夫と連絡を取り合う事が嫌だったから、慰謝料も養育費もいらないと元夫に申し出、そのために貧乏だったのも私のせいだ。
次女の人生は、次女本人が決めることだ。
頭ではわかっていても、どうしても心がそれを認めることが出来ない。

休みなく働く日々をやめることも出来ず、
高くなくてもいいからせめてシーズンごとに1着くらいの服が欲しいと思っても買えず、
白髪も増えてきたのに美容室には半年に1度くらいしか行けず、
ランチに誘ってくれる友達がいてもお金がないから断り、
どこに旅行に行くことも出来ず、気分転換も出来ず……
そんなこと全ても、次女の為と思えば、全く苦にはならなかったのに、
あの男の登場で、出来ない事の全ては次女のせいのような気になってしまった。

何ヶ月経っても、何年経っても、2人が別れる気配は無い。
彼氏と別れて欲しいなんて、子供の不幸を願っているみたいで、嫌な母親だ。
自己嫌悪に陥る。
そしてまた、こんな気持ちになってしまうのも、あの男のせいだと思ってしまう。


私は、私の人生を楽しまなければならない。


次女の事を考えなくてすむ生活をしなければならない。


マイナスな思考を改めたい。


それで、パートナー探しを本気で始めようと、決心した。
仕事や生活全般を変えたいと、開運行動を、始めた。


行動を始めてすぐに、好きな人が出来た。
パートナーになることはなかったけれど、彼も私に好意を持ってくれた。
見た目や条件で好きな人を選別してきた私には、いつもお金が無い騒ぎをしているその人のどこが良いのかさっぱりわからない。
顔も全く好みでもない。
何度も嫌になる言葉を投げられても、どうしても嫌いになれない。
全てを許せてしまう。
頭では「変な人。好きじゃない」と思っているのに、心は会いたくて仕方がない。
こんなことは初めてだ。

テレビドラマなどを観て、よく「なんで?」と思ったことだ。
貧乏でヒモのような男とどうしても別れられない女性。
暴力を振るわれたり、問題行動ばかりを起こして困らせられたりしているのに、その男と別れようとしない女性。
別れれば済むことなのに、なぜ別れないの?
困らせられたり、お金を取られたり、働かない男性のことを好きでいつづける理由って何なの?
どこがいいの?
別れれば楽になるじゃん!

理由が分かった。
理由は、無いのだ。
何故、そんな人なのに嫌いになれないかの理由なんて、無いのだ。

次女もそうなんだろうか?
母である私を悲しませると、嫌な思いをさせてしまうと、頭では分かっていても、あの男から心が離れないのだろうか?

次女の気持ちを知ることは、出来ない。
自分の気持ちさえ理解出来ないのだから。

母もそうだったのだろうか?
妻帯者と付き合う事が辛くても、そのせいで私がいつも嫌な気持ちになっていることが何となく分かっていても、どうしても別れることが出来なかったのだろうか?


理由を言葉に表すことが出来ない気持ちがあるのだという事がわかった。
それでも、次女の彼氏に会う事など、出来そうもない。
それが何故なのかもまた、言葉に表すことは出来ない。









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