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レスと不倫と私の死体

私が死んだのは、1月上旬であった。

残っていたのは、幾ばくかの信用だったのだろうか。
1月某日深夜1:38、自然に目が覚めた。目を開け上を見ると、夫がいじっているスマホが見えた。夫は隣でスマホを掲げていじっているが、内容がラインだかDMだか、とりあえず誰かとやり取りをしている様子であった。これまでにも疑問に思うことはった。仕事仕事と言われ、こんな時間に?深夜日付が回るまで帰宅せず、かと思えば夕飯は突然食べてきたと言われる日々。携帯に手をのばすと、「それは俺のだよ」と強く何度も言われた。
夫が鼾をかきはじめた後、ごそごそと布団からはいでて携帯電話を手にとった。携帯電話のロックを解除すると、アプリのポップアップが出た。“今シャワーあがったよ”と。
深夜2時前、仕事でそんな連絡が必要か?

動悸がした。
手が震えた。
頭はたくさんの可能性を浮上させ、それを打ち消す脆弱な根拠を提示することを繰り返した。

過呼吸になりかけながら、部屋を出て冷たい廊下にしゃがみこむ。体の冷えなのか、怯えなのか、震えが止まらない。
一見ゲームのように見えるアイコン、これがゲームではなくチャットや通話の機能であることを、その時の私は知っていた。
そのアイコンをタップする。
願うようにタップする。
アプリが開かれる。
夫と女性が二人きりのサーバーがある。

それは、恋人同士の会話であった。
好きと何度も言い合い、性行為の内容と良さについて言及し、行った場所や行きたい場所について様々なことが書いてあった。
一緒に猫を育てていた。猫のパパとママだと書いてあった。
家族計画について書いてあった。体の相性が良いから子宮が勝手に双子を作りそうだの、家族風呂でおっぱじめちゃっただの、子どもたちはどちらの顔に似ていてほしいだの、早く苗字をお揃いにしたいだの。
結婚記念日に、東京出張と嘘をつき、不倫相手の家に泊まっていたことも分かった。
ゴールデンウィークは休みにならないと言いながら、不倫相手と旅行していた。別日も、休日出勤と言っていた日、大阪に泊まりで旅行していた。

震える手は、証拠写真を撮ることに何度も失敗した。
始めは2021年の6月、“ここで復活させるね”からだった。
写真フォルダでは、3月に娘が1歳の誕生日記念行事の写真と、不倫相手と不倫相手の猫の写真が混ざっていたいたので、言質が取れていない範囲ではもっと前からだったのだろう。

性行為に通じる文言は絶対に収めねばと、呼吸を落ち着け写真を撮った。
飛行機チケットの写真もあげてあったから撮った。
ご飯に行っている様子の写真、言葉、たくさんのものを写真におさめた。
そんなことをしながら、長年のレスとモラハラでヒビの入っていた心は、空っぽになっていた。

午前4時、寝ている夫に、「○○ちゃんって誰?」と言って起こす。録画の了承を得て、いつからか、何をしたのか、どこの人か、聞き出した。
叫んで怒ったことのない私が、「どうして私じゃダメだったの」と叫んで、大声で泣いて、動画は終わっている。

午前6時、夫の証言をメモりながら、アプリとの整合性をチェックした。「本当は別れたかった。バレて良かった。もう何も嘘はつかない」と言ってくれた夫の証言は、嘘だらけだった。

午前8時、夫の両親に電話で話し合いをしたいと連絡する。夫が不倫したことを伝えると、「やってんなぁ」と軽い言葉が返ってきた。

午前10時、夫婦、不倫相手、夫両親を揃えて、不倫について話を出す。
不倫相手は第一声、「気まずくなると嫌なのでー、飲み物を買ってきていいですかぁ」だった。笑顔で了承した。
不倫相手は「ラインとか消しちゃったからよく覚えていない」と言ったため、該当アプリにあるからそれを見ていいですよと言うと誤魔化していたが、話し始めた。私への批判もあった。「デートとセックスは切り離して考えられないので、それだと○月ですね」という証言を得た。回数、不倫開始の月日、結婚していることを知っていたこと、全てを了承の上録音した。

午前10時半、不倫相手が話し終わっても飲み物を飲みながら居座っていたため、夫の連絡先を消させ、私と連絡先を交換して帰らせる。
夫の両親は、「なんか、ごめんね。不倫はお互い様だから。運動すれば良いよ。もやもやした気持ちの解消になるよ」と言って帰られた。

不倫だけが原因ではなかった。
そこに至るまでの約2年のセックスレス、うち1年半は不倫されていた事実。
気持ちに向き合ってくれなかったこと。
私には魅力がない、たたないと言われていたこと。
不倫相手とは仕事中も性行為をしていたこと。
不倫したことすらも、夫は私以外に責められることもなく、加害者意識も当事者意識もなく、モラハラは続き、被害者面をしていたこと。

その全てが私を殺した。

私は世界に不要な人間だった。

死体となっても心臓だけは動いていた。

体をミイラにするように、体内の水分は目からとめどなく溢れ出ていた。

私は心臓も止めないといけないと思った。

私は精神科医の勧めもあり、一ヶ月家を出た。


心臓も止めようとした時、私は“一人にだけは助けを求めよう”とした。
何度もその時はきた。
そして何度も救われた。
毎度違うその“一人”は、過去の罪悪感だったり、連絡をしたらすぐに返してくれる人だったり、ネットの人だったり、県外から突然電車で半日かけて来てくれる人だったり、家族だったりした。

孤独感に押しつぶされそうになりながらも、目から溢れる水が枯れてきた頃、自宅に戻ろうと思った。

すると夫が弁護士を雇ったようで、帰宅前日に「帰宅拒否」「自分は家から出ていかない」と文書が届いた。
避難していたアパートは引き払う手続きが済んでいたので住むことはできない。帰宅も拒否されれば、どこに帰ればいいのか。そもそもどうして、夫が有責なのに私が追い出されないといけないのか。
相手の弁護士に電話すると、「こちらはお願いをしている訳なので、それを無視して帰宅されることを裁判がどう判断するか」と言われた。
「不貞行為に加えて有責側のそちらから悪意の遺棄をなさることは、もちろん、確実に責任をとられるということで良いですね。」と迫ると、少し慌てたように「回答は差し控える」と言われた。それが答えだろ、お前の有責を増やすだけじゃないかと冷たい体の頭に血が上る感覚があった。

週末の午後だったため、即座に弁護士を雇いたくとも相談したくとも中々当日予約はとれず、緊急性ありと判断してくれた弁護士事務所が時間外に通してくれた。

予想通り法的効力はないため帰宅して良いと言われたが、数日後正式に弁護士を雇い、念には念を入れ弁護士を通して帰宅することを宣言した。
それまでの期間、私に行く場所がないことを、夫はどう思っていたのだろうか。
どうしてここまでの仕打ちを受けなければいけないのか。
ずっと夫に情があるからと、離婚に踏み出せなかった。
この文書が決定打となった。
私は死体だが、夫も人間ではない。
人の心はないし、期待してもいけない。

帰宅後も、夫の反応は変わらない。
私への謝罪も勿論ないし、私ももう言及しない。
私がにこやかに過ごすことで、夫は日常を取り戻した。

子どもを二人見るのは大変だったろう。
家は荒れ果て、足の踏み場はなかった。
ゴミやペットボトルもたまっていた。
食事はパンやコンビニ食ばかりで、炊飯器を一度も使っていなかった。
保育園の登降園記録を見ると遅刻は当たり前、帰宅も延長保育時間を超えていた。
娘は肌荒れが強くなっていた。栄養と保湿で一週間程で改善した。
息子はビタミンゼリーを飲んでいた。野菜は食べないからゼリーを飲ませていたらしい。子ども用ではない。大人用のものをだ。
絶句した。
この人はこれで親権を取ろうとしている。
でもこれは、ネグレクトではないのか。

部屋を片付けご飯を作り、お風呂や保育園の準備、寝かしつけ、全てを私が行う間、夫は部屋で仕事をしていた。
だれが、帰宅拒否してたんですっけ?

避難中に不倫の証拠、私・子どもへのDVや虐待の証拠をまとめていた。
全てを弁護士に見せ、「これは…ひどいですね」と言われた。
特に、セックスレスにおける夫の発言、無視、威圧は、“レス”としては慰謝料を取れないが、DVにあたるらしい。数十万にしかならないが、慰謝料請求はできるとのこと。
Twitterに書いていたものが日付と時刻が記載されているため、夫が自宅にいなかったこと、私が言われたことも記録として残せていた。

それでも私は悩んでいた。
離婚と決めた後も、家庭を壊す決定を下すことが自分であることに、抵抗があった。
本当は誰かのせいにしたかった。
本当は夫のせいにしたかった。
夫がやったことなのに、判断をくだしたのは私となるのだ。
自然に離婚になれるなら良かった。
なんなら散々話し合って離婚となるなら良かった。
私たちは話し合う機会を失った。
夫が原因で、私が結果を出す。
それがどうしても、引き金をひいたのはお前だと、自分で自分を責めてしまっていた。
子どもの環境を変えるのは私なのだと、苦しかった。


死体が死体でなくなろうと
心を取り戻せたきっかけは
周囲の人間関係だった

夫は友達がいない。
それを更に、今回の件で私と夫共通の友人たちを、夫が強制的に切った。
夫に社会的繋がりがなくなり、私は心配した。
夫が夫の家族しか繋がりがなくなることは、明らかに悪影響だと思った。
それでも夫は、手を一度だけ差し伸ばしてくれた友人すらも「距離をおく」と切った。

一方、私はどうだろう。
友人たちが支えてくれる。
ラインでも、Twitterでも、実際に会える人たちも。
全国に繋がりがある。
そしてその人々が、私を「頑張っている」と言ってくれている。
以前一緒に働いていた人たちが、元気がないのではとアロマを届けにきてくれた。マッサージをしにきてくれた。話を聞きにきてくれた。
ずっと仲の良い友人は、県外からでも私の手を握って「大事だよ」と言いに来てくれ、きついと言えばとんできてくれる友人も県内にいる。
そんな素晴らしい人たちが、頑張っていると言ってくれる私は、頑張っているのでは?
そんな素晴らしい人たちと、人間関係を築けていた過去の私は、頑張っていたのでは?

鬱で働かない頭で、弁護士とやりあったことも、証拠を集めたことも、家事育児をしていることも、全部、私頑張っているのでは?

自分を信じられなくても、周りを信じられたことで、巡り巡って自分を信じることができた。
すると、結果はなるようにしかならないと思えるようになった。
現在頑張っているのであれば、それ以上にできることはない。
頑張っていても結果は伴わないこともあるだろうが、それはその時に考えよう。
少なくとも今、これ以上にやることはない。
むしろ離婚を選択することで、今後傷つけられる期間は確実になくなるのだ。
もし親権がきちんととれれば、子どもの環境の変化は、私がフォローすれば良い。私はそれをすることができるだろう。
私が笑える選択をすることを、私を大事にしてくれる人たちがいたことで思い出せた。
何がしたいか分からなかった死体が、よっこらせと心を動力にすることができ始めた。
蘇ったとはまだ言えないが、少なくとも死体ではないと思えるに至った。

だから私は再び指輪をつけた。
離婚確定のその日まで、笑うと決めて。
不倫相手からは同意書と慰謝料をとった。そこも散々相手側の弁護士とやりあったが、同意書内容も慰謝料の額も譲らない結果をもぎとった。

あとは、夫だけ。
夫には昨日、私が弁護士を通し送った離婚調停を起こす文書が届いた。
まだまだ小さな一歩。
笑うと決めた道だから、元々心が死んでしまった私は、今心で決めて、笑う。 



余談。
「裏切る時はちゃんと殺すから、約束するから。離婚して、俺と結婚してください。」
と、とても物騒なプロポーズを受けました。
次に私が裏切られた時、私は確実に死ぬだろうと思った上で、覚悟を決めて言ってくれた。
夫だけに認めてもらわないとと、レスで散々悩んで嘆いて苦しんでいた。
受ける訳にはいかないけれど、認めてくれる人は他にもいるし、世界は夫一人だけではないと気づかせてくれた。
私を受け入れなかった世界は、受け入れてくれる世界もあった。
その天秤に揺れながら、私はまた泣いて泣いて泣いて、笑うのだろう。




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