嫌悪ルーティン

ずっとやりたいことをやるために、生活のために働くというスタンスでアルバイト等で生活基盤支えながら動いてきた。20代の頃は労働にも体力しんどいけど、さほど人間関係などで悩んだこともない。
30代になり掛け持ちでバイトで月3日しか休みがなかったが、苦ではなかった。目標や充実って精神に良いのだ。バイトといえどいざ仕事を失うと、やるべきが失速するからとそのプレッシャーは常にあったので、無職の苦しみは痛いほどわかる。実際に、無職期間も多々経験している。
そして一時期、やるべきが頓挫した期間に、友人のコネであることの修行を一応正規で始めた。3年持たなかったが、色々技術は学べた。これからはAIの代等により使えない時代に突入するが。
そして無職などを経て、今の仕事が初の12年で、日々限界と人間の崩壊を感じながら生きている。1年目に何の因果か、「やるべき」が復活し今度は正規でやるべきをやることになった。もちろん生活はやるべきを中心に。
5年前にやるべきが事実上の終焉を迎えたときの労働の記憶はないが、だんだんと労働のストレスや嫌悪、人間に対しての怒りやエゴへの拒否反応など様々露呈し始めた。強迫も最高潮に悪化している。
俺の場合、人との絡みは実際、仲間に対して以外は「上っ面」なので距離を置くはっきりと。それが気に入らないガイキチマニュアル人間や、他人のふんどしの下でエゴ汚臭を蔓延させるクズとは徹底的に合う部分がない。
社会の大半がサブリミナル的に洗脳されている世界で、こういう奴らに時間を割くのは無駄である。と、偉そうなことをはっきり意見として持っているが実際のところ、「やるべき」は肉体的に生計を立てるものではなく、精神的な解放であるので、俺は肉体的な生計を立てていく能力が他人より如実に少ない。実際、ビビっているし焦っているしつまづいているが、生活自体は安定している。苦悩の代償というのか。こそ安定の重要さか過去からたくさん学んできているので、簡単に捨てられないのだ。しかし、日々の強迫悪化を感じていると。細かい扉をどんどん開き、細かい不安に蓋をする。それを繰り返していると、不安は事実上大きくなる。それも強迫のサイクルだと思う。
書いていて何が言いたいか要点がまとまらなくなるほど、気持ちが錯乱している実際のところ。労働の日の自分自身を客観視してみて思うのは、常人ではない。この非常人の限界は経験したことがないのでまだわからないが、本能的に何かを変えていかないと何かが爆発して溢れ出しそうな気がする。俺のための人生がどこにあるのか、正直言ってわからない。生きる意味とかそんな話ではない。
野望に満ちて、多少ギラギラしていた時の記憶は今でもはっきり覚えていて、それが終焉を迎えてもその時の気持ちははっきり残っている。
これは少ない俺の経験値のなかで見つけた現実ではある。何の生活の足しにもならないが。それを見つけただけで特に後悔はないのかもしれない。

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