ステルラハイツ6438
星雄は、チェックインを済ませて駆け込んだトイレの中で、またたまこのことを思い浮かべる。
あいつは。
すると可笑しくてたまらなくなって、個室の中ひとりで笑い出す。
熱烈に求め合った3日目の夜、星雄は裸のまま伏せをしてハーハー息を切らすたまこを見て、昔迷い込んできた犬を思い出した。この女は裸の時だけ身動きが素早い。
「犬みたいだな。」
星雄の胸や脇に鼻を押し付けて匂いを嗅いでいたたまこにそう言うと、一瞬の間の後、
「初めては、犬だったから」
たまこは真顔のまま星雄の顔を見てそう言うと、何事もなかったようにまた再び鼻を押当てることに集中し出した。
へえ、星雄は一瞬眉を上げるも、また絡み合う心地の良さに呑み込まれていった。
それが何かの比喩なのか、それともそのままのことなのか、確かめることもなく日々は過ぎ、日々は終わった。
ただそれから、日頃冗談のひとつも言わないおかっぱ頭を思い出すたび、星雄は爆笑してしまうのだった。
「おっかしな女。」
トイレを出ると、目の前の公衆電話に、星雄は一瞬足を止める。
しかしすぐに、慣れたポーズで、やれやれ、と手を広げると、胸ポケットから取り出した航空券を確かめて、清々しい気持ちで搭乗口へと駆け出した。
その頃、たまこはステルラハイツのリビングでひとり、まだ泣き笑い続けていた。気が済むまでそうしてやろうと決めた。
自分の馬鹿さ加減がしみて鼻の奥がツンとする。誰かに笑われるくらいなら、自分で笑ってやる。バーカバーカバーカ。
初めから泥棒として現れた男を、みすみすと家に引き入れて、よりによって愛してしまうなんて。言葉にしたらなんて陳腐なんだ。
この家に現れてから姿を消すまでの間、たまこは日々、一時に、あますところなく星雄を感じて生きた。
それによって自分が思いも寄らない反応をする、そのたびにたまこは新しい自分を発見し、ひと通り落ち着くと、これでよかったのだ、という思いに着地する。
星雄といるのは、小さな大きな新しい発見の連続だった。
そんなひとりの人間の、内なる爆発を、ともにまきおこしつつ、感知もせず、星雄は小鼻を膨らませながらギターを抱き弦をかき鳴らす。どんなことがあってもそれがあればいいと言うように。
それだからこそ、飽きもせず、たまこは星雄を感じていられた。
横に寝て、身体で交わることがなくても、日々、ひと時に、星雄を感じて、その反応に踊る。
それだけで満たされていたのに。
いくら笑ったって泣いたって、昨日までの安らいだ愛しい日々は、もう戻っては来ない。去った男のまだ残る匂いや温度に、胸をぎゅうっと鷲掴みにされる。
こんな日が来るのはわかっていた、とはいえ、こんな日がどんな日か、それは来てみないとわからない。
来てみてわかったのは、ずっとこの日を待ってた、ということ。
たまこは、壁にあった絵のない場所に、目をやる。
気がつけば、いつの間にかたまこの人生に居座り、行く先を左右するほどの大きな存在が、いなくなり、それを象徴する大きなものが、目の前から、なくなった。
そのことは、たまこの存在を揺るがすほどの大事件であり、しかし起こってみるとあっけないことで、たまこは泣きながら笑いながら、同時に、大勢の人からの温かい拍手の渦の中にいた。それはただそう感じただけのことであり、たまこにとっては確かな真実であった。
よかったね、おめでとう。
その声は、確かにたまこの奥から聴こえた。
ただ今は泣かせてほしかった。笑わせてほしかった。
泣いて笑っている時間だけ、まだ星雄がそばにいる気がした。
この毒がきれるまでは、狂ったままでいい。
たとえ星雄がどんな奴だって、たまこの今は、わずかひと月ばかりの日々に集中して織り上げられた絨毯のように、星雄とともにいる記憶で埋め尽くされていた。
涙のしょっぱさによみがえるのは、ひたすらに求め合った3日目の果てに、それまでお菓子しか食べていなかった星雄が、飯でも食うかと言ってこしらえた和定食、あの味噌汁の味。
写真など撮ることはなかった、それでも脳裏にしっかりと焼き付いている、あの時のあの顔。
手をつないで田んぼのあぜ道を走った、子どものまんまの目。
夕陽を見てはいつもどこか遠くへと思いを馳せていた、横顔。
幼い子のようでいて、老人のようでもある、安らかに寝息を立てる顔。
どうして綺麗な情景に大好きな笑い顔ばかりがよみがえるんだろう。
すでにもう涙の汁は出し切って、それでもまだ喉の奥は名残惜しげにヒックヒックとしゃくり上げ、交互に低い笑いがこみ上げる。
そうしてほとんど自動的に筋肉を動かしながら、ぼんやりする頭の中で、かつて誰かがこの家の看板を読み間違えたことに思い当たる。
目をつぶった、たまこのまぶたの裏側に、去っていった人たちの顔がグルグルと、浮かんでは消え、浮かんではまた彼方へと消え去る。
あいつもこいつも、あいつもこいつもあいつもこいつも。
みんなわたしの前から去っていく。
ズッハッハッハッハッハ・・・・・・
たまこの泣き笑いは最後のピークに達した。
捨てられハイツ、わたしにぴったりだ。
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