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「誰一人取り残さない」社会を実現するには、「見捨てる人」を決めるべきだ。


陰謀論者には関わるだけ損。

新型コロナ渦やロシアのウクライナ侵攻、台湾有事や高齢化の話題で「世の中は所詮、弱肉強食」とドヤ顔で言う、自分の事を強者と勘違いした陰謀論者が増えすぎている。恐らく彼ら彼女らは『未来への想像力がない。』か『無意識に自滅を望んでいる。』のだと思われる。

例えるなら「全員が勝ちを目指している」前提で成立するゲームで、勝ちを目指さないゆえにゲーム全体を破壊する、人狼ゲームでいうところのリアル狂人だ。

文句は言うが調べない人達。

新型コロナ渦の際に「国はマスクを強要するな」と言う反マスクや「いかなる場合でもマスク着用」というマスク警察とTwitterのDMで話した事があるが、彼ら彼女らは厚労省のホームページにあるマスク着用推奨基準を調べてない事が分かった。

近年、「国はそんな事言ってないって…。」と思う流言が多すぎる。ウクライナ支援の内容も、岸田総理の増税政策も、ワクチンやマスクについて、国の防衛政策までも、スマホで検索すれば1分もかからず情報が得られるのに、調べない人達

知識不足・能力不足で「調べられない」、怠惰なので「調べない」だけならまだ可愛げがあるが、知識不足・能力不足や怠惰な上でSNSに自分勝手に文句を書き込み社会を悪くさせる人達は本当に醜く思えてしまう。

無責任にインフラを食い尽くす人達。

多くの人が利用する今のネットは、もはや”公共の場所”である。公共の場所で痰を吐く行為や落書きが今の時代に許されないのと同様、デマや妄言を呟く行為も許されない。今のネットはインフラ=人々の生活を支える基盤なのだ。

つまり、事実無根の言説を何度も唱える陰謀論者・カルト宗教・政治団体、スマホで1分もあれば調べられるのに調べずに間違った事を書き込む怠惰 or 馬鹿な人達は、ネットというインフラの破壊者であり、自由民主主義の、社会の敵である。

俺を最もガッカリさせたのは人々の無責任さだった。自分では何も生み出すこともなく、何も理解していないのに、自分にとって都合のいい情報を見つけるといち早くそれを取り込み踊らされてしまう集団。ネットというインフラを食い潰す動機なき行為が、どんな無責任な結果をもたらそうと何の責任も感じない者達。俺の革命とは、そういった人間への復讐でもある。

アニメ「攻殻機動隊 S.A.C.2nd GIG」のセリフより

彼ら彼女らは、ネットに書き込む時だけでなく、他人と会話する時も自分の発言が正しい事を疑わない。一体どこからその自信がくるのだろうか。専門家が発言を確認し、やさしく説明をしても、彼ら彼女らは、説明を読まず誹謗中傷ばかりする。

彼ら彼女らと、専門家は論理と感情で考え方の基準が違う。専門家は感情ベースに寄り添い根気強く説得すべきだ…と思うが、限度がある。新型コロナ渦での誹謗中傷で”いわゆる慈愛の心”なんて消え失せた。社会が助けないといけない人程、周囲の人間が助けたいと思うような風体・言動をしていないし、暴力も振るってくる。

「身の程をわきまえろ痴れ者が。」や「頭が高いな…実るほどなんとやらだ…余程頭が軽いと見える。」というような某アニメキャラのセリフが出てくる程度に私はここ数年でSNSに、大衆の愚かさに幻滅し、ドス黒く煮詰まった恨みを持ってる。

重ねて言うが、専門家や国は広報として感情に寄り添う情報の広め方をすべきであり、専門用語で難しい論理を振りかざしても、それは広報にならないと思っている。新型コロナ渦で一部に見られたような、周囲の反感を買うような広報をする専門家は、広報の方法を間違ってると思っている。だがそれでも、個人レベルで寄り添うのには限度があり、見捨てる人を決めるべきだ。私はそう思うようになった。

【余談】ググレカスからググったらカスの時代に。

一昔前と違い、現在のネット上には多種多様かつ大量のデマや個人の感想が蔓延る時代です。Google検索で物事を調べようにも、知識や教養がゼロだったり、論理的な考え方ができないと、最適な検索ワードを選定できません

つまり、上記のような人に「Googleで調べてから出直せよ」なんて言うと、間違った記事・ブログなどを見て、デマを大量に吸収したモンスターに成って帰ってくる事になる。ある意味で陰謀論者は努力家なのだ。無能な働き者とも言う。

現状のGoogle検索の正体は「知識の無い人に知識を授ける」ツールではなく、「知識の豊かな人だけが知識を引き出せて」「知識の乏しい人には質の良くない知識しか与えない」ツールと言っても過言ではありません。

「知識を手に入れるための知識」がない人にとって、Google検索はあまりにも難しい。

テレビの企画がつまらなくなったのも、彼らがウィキペディアや食べログやユーチューブを情報ソースにしてしまったからでしょう。もしくは、グーグル検索で最上位に表示される答えだけで満足しているからです。(中略)

それに対して、研究をしている人間は、ふつうに検索すると100番目に出てくる(だから実質的には誰も見ない)答えを1発で探し当てるキーワードの選び方を知っています。

落合陽一「これからの世界をつくる仲間たちへ」2016年発売

だがしかし、厚労省とか内閣府、経産省とか防衛省、気象庁などのホームページにすら辿り着けない人々を、どう処理すればいいのだろうか。難しい論文を調べろ、なんて言ってない。なぜ納税者なのに国の省庁すら検索できないのだ…。

恐らく「その発想がない」や「能力不足」以前の問題で「国への不信感」が原因の一つであろう。だが信頼感とは何だろうか。彼ら彼女らが叫ぶ「国への不信感」は実態を伴っているのだろうか。思い込みや自己暗示の割合が多いと思う。

無敵の人をどう抑えるか。犯罪をどう減らすか。

私が見切りをつけるべき、「見捨てる人」が無敵の人となり社会の破壊者になったらどうしようかと心配する人もいるだろう。私も当然心配している。

まぁ私からすれば彼ら彼女らは既に社会の破壊者であり、破壊の対象が、自由民主主義の言論空間か現実社会かの違いしかないのだが…。

これについては私は明確な回答を持ち合わせていない。故に見捨てる人は最小限とする、くらいしか対応策はないと思う。最小限であれ「誰も見捨てない」と「見捨てる人もいる」では大きく方針が違うと私は思う。

他の対応策として、「ベーシックインカムを導入して、”いわゆる境界知能”という人達が社会に参加せずに生きていける仕組みを作るべき」や「ネット言論空間に中国のような信用スコアをつけるべきだ」という案が思いつくが、社会学の素人の私にすら問題点をすぐに思いつくレベルの案なので、微妙だろうな。

一つ補足するが私は「生きるに値しない命」なんて優生学を述べたいのではなく「社会に全員が全員参加するべきではない」と言いたいだけである。私は、やる気と能力のない国民が作る腐った自由民主主義が嫌いなだけである。ネットの発達により、かつてでは社会に参加しなかった人まで発言できる今の世の中で民主主義を維持するのは限界であると言いたいだけである。

さいごに

雑にまとめるなら「インターネットやめろ」である。ハイブリッド戦争や認知戦・超限戦などの時代、ネットは選挙や戦争における大衆操作ツールである。

政府や軍が世論を作るでは不十分な説明だ。正確には、政府や軍が操れそうな一般人をそそのかし、狂人となった一般人が世論を作るのが今の時代だ。

一度、全員が全員、自分に与えられた表現の自由や選挙権の重さを考えるべきだと思う。意見は変わる事もあるだろうし首尾一貫する必要はないと思うが、自分の言葉には責任を持って欲しい。(自戒の意も含む。)


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