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ブラームス 交響曲第4番 ホ短調 op.98

なんという感情の爆発

 ブラームスの四つの交響曲の中で、第4番は最も個性的な始まり方をする。いきなり第1主題がヴァイオリンによってオクターブで歌われるのだ。フルート、クラリネット、ファゴットのなぞるようなアクセントに支えられて、切々と奏でられていく。なおここでアクセントを刻む木管のうち、音色の明るいオーボエだけが注意深く省かれているのは注目に値する。
 作為を削ぎ落した、自然発生的な始まりのように聞こえるが、これこそブラームスの狙いだろう。
 これまでの三つの交響曲は、どのような開始だったか。第1番はティンパニの打音に導かれるような重厚な序奏で始まる。2番と3番は第1主題を導くごく短い序奏がある。もっとも2曲ともその序奏の動機がその後の展開で重要な役割を果たすから、動機が提示されるという意味合いが強く、その意味では序奏的な性格は感じにくいけれども、とにかくも、第1主題に先んじているのは確かだ。
 十九世紀後半ともなると、作曲家が「偉大な音楽の創造者」として演奏家よりも上位のステータスを得ていたから、そういう時代の作曲家であれば当然、みずからの紡ぐ音楽にたいして意識的にならざるを得ない。いきおい自意識の大家になる。この自意識の病に悩まされることなく五線紙に筆を走らせることができれば、どれだけおのれの宿命的なテーマに集中できるだろう。そんなことを成し得るのは、ブルックナーのような天才にして初めて可能かもしれない。
 ともあれ、ブラームスはその時代の作曲家として、極めてまっとうな意識家だった。作曲家の主義信条、「我ここにあり」を刻印する形式である交響曲をどう始めるかについて、たいして意識しなかったなどというのは、まず絶対にあり得ない。霊感の賜物かもしれないが、その賜物を採用したのは自意識である。エステルハージ家を離れたハイドンがロンドンの市民階級の聴衆に向けて書いた交響曲には、当たり前のように序奏が付されているけれども、そしてそれは一曲一曲それなりに工夫を凝らしたものであるのは確かだけれども、ブラームスにおける冒頭創出の困難は、それとは比較にならないはずだ。必然的にそこには強いメッセージが込められることになる。
 端的に現れる第1主題、その三度の音程を主体とする哀愁味に富んだ主題は、この交響曲全体の性格を決定づけるものだ。つまり、第4交響曲は、非常に論理的に構成された、堅固なる音の構築物であるけれども、それはブラームス一流の韜晦であって、内実は極めて感傷的な音楽といってよい。
 感傷的な音楽、イコール安っぽいと思ってしまうのは、クラシック音楽を愛好する者がしばしば抱く偏見である。感傷はまた感情表現のひとつであって、それを聴き手に強く訴えるには、感情に流されない部分での処理も必須となる。一口にスイーツといっても、砂糖と着色料の塊りのような物もあれば、贅を尽くした一品もある。どちらも同じスイーツであって、それだけで安っぽいかどうかは、当然ながら判断できない。
 構成の大家、ブラームスは、心憎いばかりの情緒の噴出を作品中にしばしば仕掛ける。それが今日でもこの作曲家の作品が演奏会で盛んに取り上げられたり、録音されたりする理由のひとつなのかもしれないけれど、すべては計算ずくであって、滅多にそこに溺れたりはしない。情緒はコントロールされているのだ。これだけでもブラームスというスイーツが最高級品であることを証するに足りるのだが、この第4交響曲にもそういう瞬間は少なくない。いや、むしろほかの作品にも増して多い。
 第4交響曲を完成させたとき、ブラームスは52歳だった。1885年当時の52歳は、現在の75歳ぐらいかもしれない。第4交響曲をいろいろな演奏で聴いているうちに、ふとそんなことを思った。なるほど、加齢に伴って感情のコントロールは難しくなるものかもしれない。

 75歳独身男性の感傷は、コントロールを失い、爆発する。
 そう、第1楽章のコーダ、ホルン、チェロとコントラバスがフォルテッシモで第1主題を鳴らし、それ以外の楽器がカノン風に追いかけるところだ。まさに息詰まる迫力。これまでのブラームスだったら、興奮状態は主題を提示したところでひとまず終息する。ふっと息を吐くような間を置いてから、仕切り直す。ところが、この曲では違う。「そんなに簡単に感情を抑えられるか、ばかやろう」とばかり、ヴァイオリンが悲憤、未練たっぷりの嘆き節をねちねちと引っ張り、唸り続け、いっこうに熱を失わずに、いや、さらに激しさを増して、ぐいぐいとクライマックスを形成していく。そして、その頂点において第1ヴァイオリンが非常に高いCの音をワンワンと響かせ、終結のカデンツに至るのだ。
 ブラームスにしてはまったく珍しい感情爆発の長丁場ではないか。もちろんぼくはブラームスの全作品を知るわけではないから、聴きこぼしもあるかもしれない。それでもたとえばこの曲の6年後に作曲されたクラリネット五重奏曲と比べるなら、あの印象的な、あまりにも印象的な第2楽章において、すすり泣くがごとき、あるいは号泣するがごとき箇所はどうだろう。咆哮するクラリネット。しかしそれでも、こんなに長くは引っ張らない。ほどなく力を落とす。まあ、それゆえにいっそう深く心に刻まれるということもあるかもしれないが。

 第2楽章では冒頭のC菅のホルンが奏でる主題は、教会音楽の旋法のひとつ、フリギア調である。これをもってブラームスの古典性を云々するのは、どうかと思う。むしろ革新性をこそ見るべきだろう。実際、断然新しい。
 ホ長調なのに嬰ヘではなくヘ、嬰トではなくトの音が出てくる。新しさを装った音楽では、調の構成音以外の音が出てきたら違和感を感じるものだけど、そしてそれが作曲者の意図だったりするのだけど、ここでは和声付けされていないこともあって、じつにすんなりと自然に響く。これこそ本当に新しい音楽。この後に第1ヴァイオリンがピッツィカートで主題を奏するが、今度はきっちりホ長調の枠に収まっている。
 なんといっても時代は19世紀後半であって、ヨハン・セバスチャン・バッハにこそ自分たちの源流を発見していたものの、それ以前の音楽については、それを歴史学的にはともかく、創造の連続性において捉える本格的な試みはなされていなかった。それには二十世紀を俟たなければならない。この第2楽章冒頭のひと節は、その先取りと言ってよい。
 いきなりバッハ以前の教会旋法を用いて、ここが重要なところだけど、歌謡楽章にふさわしいテーマに仕立てた。古人をこよなき友とするブラームス。ただの古典主義者であれば、古典派風の、1770年代くらいの様式で書いたところだろう。間違っても教会旋法なぞは使わない。そもそも自分たちとは関係のない時代の音楽だと思っていたかもしれない。ブラームスはそこに連続性を見出す。そして主題の糸口とする。
 それにしてもこの楽章の、チェロに出てくる第2主題は、うっとりするほど美しい。それを支える伴奏部分も室内楽のように綿密で、その込み入った書法は第3交響曲の第3楽章、あの有名なPoco allegrettoの主題を思わせる。単純なメロディラインなだけに、思いっきり酔い痴れたくなるのだ。周りの伴奏がきめ細やかに守ってくれているので、それも許されそうな気がしてくる。「いいよ、今日はとことん飲め」、おお、なんとありがたい。なんと大らかな音楽。

 第3楽章Allegro giocosoには、一転して楽しげな音楽になる。トライアングルまで鳴り響いて、大学祝典序曲かと聴きまがうほどだ。しかしけっして表面的な音楽ではない。この楽章では、最初の主題の出し方においてブラームスの対位法のわざが光っている。複音楽風のスケルツォ楽章で、ソナタ形式まがいの展開部をもち、おまけに2拍子ときている。どうにも食えない楽章だ。
 いささか粗野で陽気なこの楽章を重く、あまり楽しそうではない調子で演奏すると、不思議なことに次の楽章の説得力が減じるように感じる。ここは深く考えないで、とびきり陽気に、派手に演奏してほしいなと思う。そうすることで、次の終楽章がずっしりと、重たく響いてくる。ブラームスはそこまで計算していたのではないか。

 そしていよいよ4楽章、パッサカリアに突入する。
 ブラームスの初めての管弦楽単体の作品「ハイドンの主題による変奏曲」で掉尾を飾るのがパッサカリアだった。そこではパッサカリア主題はバスに出て、パッソ・オスティナートになって繰り返される。パッサカリアという通奏低音時代の形式では、それが通例である。
 ところが第4交響曲のパッサカリアでは、主題は上声部に出てくる。イ短調で始まり、5小節目で金管とティンパニがこの交響曲の主音であるホ音を響かせる。この主題は8小節で収まり、ホ長調で終わるが、この調の主和音-ホ-嬰ト-ロは、最初のイ短調の主和音のドミナントにも相当する。途中で放り出されるような浮遊感覚を残して、どんよりと響くホ音。それをトロンボーンと弦楽器がイ短調の主和音で支える。
 もうこの楽章については多言を費やしたくない。変奏のひとつひとつが心に沁みる。主題と30の変奏、コーダから成ると解説本にはあるが、変奏を数えるいとまなぞない。音楽があまりにも感情をゆさぶるのだ。
 97小節、第12変奏から始まるフルートのソロでは、ブラームスは感傷のかぎりを尽くしている。ただならぬ寂寥感。変奏曲の枠内で、自制心を放擲して嘆き、あまりの寂しさに消え入りそうなところで、そっと手を差し伸べるのが同じ木管仲間のクラリネットとオーボエ。寄り添って、交互に傷心のフルートを慰める。そして、音楽は少しだけ明るくなる。
 こういう表現は文学的すぎるだろうか。音楽を専門とする方には音楽における文学的表現の介入を忌避するか、もしくは低く見る傾向があって、特に昔の現代音楽推進派に多いけれども、音楽への共感の輪を広めるにあたって文学の力に与る部分は、絶対に過少に評価しないほうがよいと思う。本物の芸術はジャンルを超えて相互に助け合うものだ。
 小林秀雄の評論「モオツアルト」を笑う音楽家の評論を読んだことがある。その音楽家は演奏のみならず作曲、パフォーマーとしても天才的な才能の持ち主とのことだが、レトリックをけなすのがせいぜいの、くだらない評論だった。かれ自身の読解力の弱さ、あえて言うと文学的感性の未熟さを露呈するだけで終わっていた。言うまでもなく「モオツアルト」は最高に示唆に富んだ評論であり、考えさせられる内容の、依然として古びない至宝であり、音楽に携わる者なら、なおさらこれを母国語で読めることに感謝して然るべきものだ。
 トゥッティで主題を奏するコーダの激しさは、第1楽章のそれを思わせる。だが、第1楽章においてはかすかに見られた闘争の念がここでは消えている。つまり1楽章では行き先、音楽の方向性が感じ取れた。だが、この終楽章のコーダでは、それが見えない。行き先不明の不安だけが強く残る。
 トロンボーンによって、圧縮された主題が啓示される。それを木管が繰り返すときは、管弦楽が激しく反応する。拒絶反応のような、激しい動きだ。うねるような拒否反応を示しながら、この曲は激しく終わる。諦念は全然感じられない。怒ったように終わる。
 ブラームス最後の交響曲にして、これはなんというかなしい終わり方だろう。第1交響曲ではあんなに高らかに、晴れやかに勝利宣言をして、希望たっぷりに締めくくったというのに。
 木管による圧縮された主題の繰り返しにたいする激しい拒否反応は、まるでブラームス自身がこんな呟きを発しているようだ。
「まだ忘れられないのか、あのひとのことをだって? やめてくれ、うんざりだ、もうおれはあのひとのことなど完全に頭から払うのだ、つきまとわないでくれ、もうたくさんだ、おれは退出する、この愛憎の舞台からおれは完全に撤退する、邪魔しないでくれ」

 【参考文献】
全音スコア 『ブラームス交響曲第4番 ホ短調 作品98』 (全音楽譜出版社)
三宅幸夫 『 ブラームス カラー版作曲家の生涯』(新潮文庫)

 
 

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