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コミュニティにおいて重要な、たった2つのこと

こんにちは。達川幸弘です。

今はCAMPFIREという会社でマーケティングをしたり、細々と個人でも企業のマーケティングのお手伝いをしていたりします。

マーケティングと進化心理学をつなげるブログという実験的な試みをしております。

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さて、最近家入さんに薦められ以下の本を購入いたしました。

はい、好きでした。なぜ分かったのか…。家入さん恐るべし…。

「他人に貢献するとはどういうことなのか?」
「利他とはどういうことなのか?」

について、序盤では進化生物学の観点も持ち込みながら、現代社会の複雑性を絡めて多角的に「利他」というものを読み解いていく書籍でした。

良い書籍というのは「良い問い」を与えてくれます。今回、自分の中にあった利他を機能させ「健全なコミュニティ」を形成する上で重要なことについて様々な思考が巡ったため、書き留めていきたいと思います。

まだまだ深ぼる必要のあるテーマなのですが、一旦の整理として。

人間の本能の中にある利他

自己利益の追求をわざわざ放棄してまで、他者のために尽力すること。これが利他である、と。

近内悠太 (著):利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生き直すための哲学

本書では利他に関してこのように記載されています。

人間にとって完全な他者への奉仕。何の見返りも求めずに、ただ奉仕をするということは本当にありえるのでしょうか?

血縁と利他

ハチのイメージ

最もイメージしやすいものとしては、両親からの無償の愛です。何かの利益を求めず、ただひたすらに自分の子供のために奉仕する姿は、最も利他と紐づいてイメージしやすいものです。

ここで重要なのは血縁です。血縁関係が近ければ近いほど、奉仕の精神が宿りやすくなります。

1964年にW.D. Hamiltonによって提唱された理論では、ミツバチの働きバチは、自身に子供を残さず女王蜂の世話をします。この行動は見かけ上利他的ですが、実際には同じ遺伝子を持つ女王蜂の子孫を増やすことで、結果として自身の遺伝子を残すことになるためです。

利己的な遺伝子

猿のイメージ

つまり、生物は「種全体」ではなく「如何にそれぞれの個体が自分の遺伝子を持った子孫をより多く残せるか」を重要視して生きているという主張です。

利己的な行動原理は、生物として生存するための本能的な側面を示しています。一方、利他的な行動は、集団生活を営むための適応メカニズムとして進化してきたものであり、自分の遺伝子を残すための目的の観点からは利己的なのです。

進化生物学者のリチャード・ドーキンスは、生物は「利己的な遺伝子」によって動かされていると述べています(R. DAWKINS, 1976)。

人間には、血縁者を助けることで自身の遺伝子を間接的に残す「包括的な適応度」(Hamilton, 1964)だけでなく、他者に協力することで長期的な利益を得る「互恵的利他主義」(Trivers, 1971)などの利他的行動をとる傾向があります。これらの行動が、ホモ・サピエンスを社会的にし、進化の過程で有利な戦略として発展してきたのです。

つまり、血縁の近さ影響を及ぼす利他的な行動は、自身の遺伝子を間接的に残すという観点で、とてもわかり易いものですが、それ以外にも、利他的な行動とは、自分の遺伝子を残すために有利な行動という遺伝子的に利己的な動機から発現するものもあるのです。

コミュニティにおいて無視できない承認

人間は大なり小なり、様々なコミュニティに所属することで、社会生活を営みます。そこでは、各々が各々の遺伝子にとって有利に働くための調整機能が働いています。

その人間がコミュニティという集団で生活する上で欠かせないのが、「承認」への欲求です。

利他的であるという表現の性質上、なにかの奉仕を行ったときに『見返りを求めない』という理想的なイメージを持つこともありますが、前述の通り、実際には人間は無意識・遺伝子のレベルで血縁が近いなどの特別な条件がない限り何らかのリターンを中長期的に期待している場合が多いです。

結果として、コミュニティ内での生活においては、『承認』への欲求が重要な役割を果たします。利他的な行動が進化の過程で有利であったとしても、短期的な承認が得られなければ、その行動を継続するのは困難です。

人類学者ルネ・ジラールは、コミュニティにおいて「フリーライダー(貢献せずに利益だけを得ようとする者)」を排除する機能が重要だと指摘しています(Girard, 1972)。

人間が社会的になった背景には、人間はゾウのように個体の力が強く、他者からの攻撃によって生存が脅かされる心配がないようなタイプの生存戦略ではなかった点が挙げられます。

その結果、集団の中で餌を確保し、適切に分配することが必要になります。

その際に、自身がコミュニティに貢献し、フリーライダーではないことを証明しなければ、餌の配分を得られなくなります。働かざる者食うべからずという訳です。

当然食料の配分が少なくなれば死に直結するため、人間は「コミュニティの中で貢献をしなくてはいけない」という欲求が本能的に働きます。

つまり、いくら利他的な振る舞いをしたとしても、それがコミュニティの中で「役に立っている」「あなたはフリーライダーではない」という承認を受けられなければ、遺伝子レベルでの生存戦略と矛盾してしまうため、継続的に貢献をし続けることが難しくなると考えられます。

コミュニティは誰かの貢献だけでは機能しません。

コミュニティの中で誰かの働きが、貢献であるということを「承認」する機能がセットで機能することで、はじめて貢献した側に「貢献実感」が生まれ一見利他的に見えるふるまいにも、持続可能性が生まれるのです。

それは、餌の配分を決めるボスや、集団の中での意思決定の仕組みの中で構築されていくものです。

神父に届いた、承認の形

先に紹介した、「利他・ケア・傷の倫理学 『私』を生き直すための哲学」の中で、遠藤周作の小説「沈黙」の一説が出てきます。

キリシタンを厳しく弾圧していた頃の日本に来たキリシタンの司祭が、拷問を受けながらも信仰を捨てず、しかし何の言葉も救いも投げかけてくれないキリストの沈黙に対して、自分の行動が本当に正しいのかを自問自答するという作品です。

「利他・ケア・傷の倫理学 『私』を生き直すための哲学」の中では、見返りを求めない利他的なふるまいの一つの例として描かれていますが、ここにコミュニティとして重要な「貢献」と「承認」という2つの重要な観点を持ち込んでみたいと思います。

「貢献」と「承認」

キリシタンの司祭は、信仰という形でコミュニティ(この場合キリスト教)に貢献をしてきました。あるときはその振る舞い方や考え方を伝え、そして自身もその行動様式や考え方を実行することで、救いを与えてきていたはずでした。

しかし、眼の前の人が拷問を受ける様を見るにつけ、目に見える形の「救い」がないことへの葛藤が強くなります。これほどの苦しみの中でコミュニティに対して、自身も、そして拷問を受ける側も必死で貢献をしているはずなのに、「救いという承認」がないことで自身の中に疑念が生まれているのです。

最終的にキリシタンの司祭は「神は沈黙していたのではなく、一緒に苦しんでいた」という神の沈黙を「聴く」ことで、他者の大事にしているものを共に大事にするという「ケア」の形の一つとして描かれています。

これを「貢献」と「承認」の観点で考えてみると、キリシタンは決して承認を求める欲求を捨てたのではなく、「承認」の形が「助けること」ではなく「共に苦しむことであった」という認識のズレが解消されたことで、信仰そのものを失わなかったということが分かります。

これは、最終的に異なる形での承認を見つけることで信仰を続けることができたということであり、承認自体を完全に放棄しているわけではないのです。

コミュニティにおいて、我々は何らかの「貢献」を行います。しかし、人間は本質的に利己的な存在です。貢献に対して何らかの「リターン」を無意識に期待しており、そのリターンを求める時間軸や対象は人それぞれ異なります。

これは、「誰もが大なり小なりそういった報酬や承認を期待しているからやたらと親切な人間は疑え。」と言っているわけではないのです。

「利己的な遺伝子」で書かれている通り、本人が自覚的であるなしにかかわらず、誰もが遺伝子の中にそういったアルゴリズムを抱えており、この構造を理解せずに「利他性」を求め承認のバランスを壊すコミュニティのあり方は搾取的にならざるを得ず、持続可能性が乏しくなるということです。

クラウドファンディングにおける貢献と承認

握手のイメージ

僕も事業に取り組んでいる、クラウドファンディングという枠組みで見てみます。

クラウドファンディングでは、支援者に対して「リターン」が用意されることが基本構造です。これは、貢献に対する承認の期待値をコントロールする役割があります。

  • モノ

  • 体験

  • お礼メール

など、そのリターンの形は「プロジェクトを立ち上げた起案者」と「支援する人」の間で結ばれたコンテクストによって様々です。

例えば、「新規性の高い商品を作るために資金を集めたい」といったものであれば、

  1. その商品を自分も欲しい

  2. その商品が普及する未来を応援したい

などの動機で支援することが考えられます。

この場合、1と2では行うべき承認の形が全く違うことがわかります。

1の場合、製品そのものを滞りなく開発し、約束された期日に新商品が届くことで、自分の提供したお金が有意義に使われそのブランドを応援した実感をリターン品が届くことで実感し、製品を開発し届けるという行為が貢献したことが役に立ったという承認の役割を果たします。

しかし、2の場合は、商品そのものが届くこと以上にその後のその商品がどのように世の中を変えたか。人々が生活が変わったのかなど、その商品を通じて実現したい世界へ進んだかどうかが、支援した方の貢献実感を生み出す可能性があります。

継続的に支援者に発信し続け、きちんと描いた未来に近づいていっているという実感を与えることが、貢献実感を生み出す承認の形として適切である可能性が高いです。

利他とは無尽蔵な資源ではない

人間は利他的な振る舞いをしますが、それは無尽蔵ではありません。

コミュニティが一方的に個人の利他性に期待し、承認を与えなければ、貢献をする側の本能的危機感が高まり、やがてメンバーは離れコミュニティは崩壊し機能を失っていくでしょう。

承認という本能的欲求はそれほど強いのです。

人間は一見すると現代社会における「短期的な合理性に適応できる」存在であるように見えますが、数百万年かけて適応してきた本能の支配下にもあることも事実です。

利他的な振る舞いに対する、承認へのニーズはまさにその本能的な部分です。コミュニティを維持し、発展させるためには、この2つの側面を上手にマネジメントする必要があります。貢献を適切に承認し、フィードバックすることが重要なのです。

まとめ

利他的な行動とその背後にある利己的な本能について進化心理学の観点から考察しました。繰り返しますが、大前提として、本文は「利他的なふるまい」や「利他的な精神」を否定するものではありません。

進化心理学的な視点は、一見すると不合理に見える人間の行動を理解するための一つの説明原理です。

こういった人間の本質にせまることで、一見不合理にみえる振る舞いにどのような原理を理解し、適切なコミュニティ運営が行われることを望んだものです。

そして、あくまで本文で説明した内容は構造的な内容にとどまっていますが、では「適切な貢献って何なの?そこが難しいよね」ということを徹底的に解説してくれる本が以下の書籍です。

自分では誰かのために貢献をしているつもりなのに、感謝という貢献を得られている実感がないという方はもしかすると、貢献の仕方に問題があるのかもしれません。

そんな方におすすめの書籍です。

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最後までお付き合い、ありがとうございました!!

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