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『文化・芸能業界のこころの相談窓口 MeBuKi』開設に寄せて

 皆さん、こんにちは。この度『文化・芸能業界のこころの相談窓口 MeBuKi』を開設しました、臨床心理士・公認心理師・俳優の史穂理(しおり)と申します。

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 今回は、この取り組みを始めた主旨と経緯について綴ってまいります。どうか最後までお目通し頂ければ幸いです。

 なお、私は俳優活動を経て臨床心理士(以下、心理士)となりましたが、心理士として勤務している病院や学校で出会うクライエントに対しては、(治療の枠組みを守るために)自身が「俳優である」ということについては、一切言及しておりません。

 しかし、この業界の問題を考える上では「心理士」と「俳優」という自身のアイデンティティーを分離することはどうあがいても困難であると自覚しております。そのため、以下の文章はあくまでも「心理士でもある俳優」もしくは「俳優でもある心理士」という連続性のある立場からの見解として捉えていただければ幸いです。

1.はじめに

 私は10代後半から20代前半まで東京で芸能活動をしていましたが、健康状態の悪化を契機に業界を離れ、自分を見つめ直す機会を得ることができました。そこから長い年月をかけて臨床心理士となり、昨年から俳優としての活動を再開しています。そのような歩みの中で、この業界でSOSの声をあげることがいかに大変なことか、本当の気持ちを語ることがいかに怖いか、影となっている部分に光を当てることがいかに難しいかを痛感してきました。また、過酷な労働環境の中で心身ともに酷使を強いられる現状や経済的な不安定さ、競争を強いられることで生じる緊張や不安については、我が身をとおして実感しています。
 3月10日の某映画監督の性暴力報道を皮切りに業界内でのハラスメントや性被害の告発が相次ぎ、これを受けて映画監督・俳優・映画の原作者らが次々と声明を発表されました。約2カ月が経過した現在、各方面でこの問題についての対話がなされアクションに変容している状態を、私はポジティブに捉えています。また同時に、活躍されている俳優やタレントの方々が自身の健康を優先して休養をとるという当然の選択が業界の中で浸透してきたことにも、大きな意義を感じています。
 業界は、変わる。間違いなく変革の時を迎えているのだと、傷付いても歯を食いしばり続けることしかできなかった過去の自分に思いを馳せながら、追い風を感じています。
 今回の取り組みでは、ハラスメントや性暴力はもちろん、この業界に携わる方々の抱えるあらゆる心理的負担が軽減され、心身ともに安心して創作に集中することができるよう、臨床心理士であり俳優である自分にできることは何かを熟考した上でのアクションです。
 ぜひ、多くの方にご活用いただければ幸いです。
 

2.業界改革の社会的意義

 私は、この業界の前向きな変革は業界「外」の人々にも良い影響を与えると確信しています。しかし、その点について語る上では、悲しい現実を避けてとおることはできません。

2020年の男性俳優の自死の報道前後において2週間の自殺者数は報道前の715人から925人へ29.4%増加し、その後の女性俳優の自死の報道前後においては報道前の813人から1079人へと32.7%に増加した。
厚生労働省,令和3年版自殺対策白書(第3節75頁~)

 多くの方がご承知のとおり、これ以降にも悲しい報道は続きましたし、今も続いています。自ら命を絶つことを考えるほどの苦しみを抱えた方と日々お会いしている私は、この現実や報道の在り方に、大変な危機感を持っています。
 その上で、どうしても考えてしまうことがあります。それは「彼らの職場は、この業界だった」という事実です。(念のため申し上げますが、事実の話をしているのであって、原因の話をしているのではありません。)
 私たち人間は、直接的であれ間接的であれ、必ず「他者」や「集団」や「社会」の影響を受けています。そしてまた、あらゆる創作も「他者」や「集団」や「社会」の文脈の中で創られていますし、直接的であれ間接的であれ、そこから受ける影響が作品に含まれるからこそ、私たちは自分の中に起こる“何か”と作品の間で共鳴し、感動するのではないのでしょうか。人間は意識的であれ無意識的であれ「他者」や「集団」や「社会」からの影響を受けて生きている…つまり、自分自身や彼ら彼女らが所属する社会集団(業界)も、当然ここに含まれている。そのことを思えば、「この業界の改革」と真摯に向き合うことは、広義では個人の救済につながっていくと、私は固く信じているのです。

3.提案 ~予防モデルの観点から~

 では、具体的にどのようにしていけばよいのでしょう。曖昧な雇用契約や、睡眠や休息がままならない過酷なスケジュール、子育てなどのライフサイクルに合わせた働き方を実現することの難しさなど課題は山積みですが、その点については働きかけてくださっている方々がいらっしゃるので、私はメンタルヘルスの観点からCaplan,Gが提唱した予防モデルに沿って見解を述べたいと思います。 
 Caplan,Gが提唱した予防モデルは3つの段階となっており、一次的予防は「発生予防」を、二次予防は「早期発見・早期治療」を、三次予防は「再発防止・社会復帰」をそれぞれ指してます。この考え方は、医療のほか教育や産業の領域で広く取り入れられている考え方なので、すでにご存じの方もいらっしゃるかと思います。
 一例として上記の予防モデルに映画製作の現場を当てはめてみると、以下のようになると考えます。(すでに様々な方が発信して下さっている内容と重複する箇所もあるのですが、その点についてはご容赦ください。)
 

一次予防:発生予防

 一次予防は、(Netflix以外の現場でも)ハラスメント講習が義務化されることや、(センシティブ・シーンのある作品における)インティマシー・コーディネーター導入の義務化などがここに当たると考えます。また、専門家によるメンタルヘルスの心理教育やハラスメントや性暴力に関する講習を定期的に開催することも有効と考えます。

二次予防:早期発見・早期治療

 二次予防の観点からは、第三者によるストレス・チェックやハラスメント・チェックの導入、相談窓口の設置、カウンセラー(心理士)による現場の巡回相談などが早期発見につながると考えます。また、専門家による精神医学的なケアやカウンセリング(心理療法)が早期治療につながる考えると同時に、ケースによっては司法へと繋ぐことが選択肢として挙がってくる状態が望ましいと思っています。

三次予防:再発防止・社会復帰

 三次予防でも医療やカウンセリング(心理療法)は欠かせない選択肢となるでしょうし、性被害や虐待によるトラウマを抱えた方には専門性と繊細さを兼ね備えた適切な治療が必要であると考えます。また、私は加害者の方々の心理的支援も大切であると考えています。加害者(と呼ばれた)の方々も、誰にも言えず胸の内に抱えているものを専門家と共に丁寧に扱いながら、ご自身と向き合っていく時間を重ねることが必要なのではないでしょうか。私はよく再発予防の観点から「定期健診みたいな気持ちでいらしてくださいね」とクライエントにお声がけすることがありますが、ハラスメントや性暴力のケースに限らず、専門家と過ごす時間をそのようなセルフケアの一環として活用してもいいはずです。

 以上は、私が映画の現場と仮定して推論したことですが、この予防モデルを指標に体系的に業界の構造を捉え直していくことは巡りの良い循環を生み出すために有効であり、それは映画以外のあらゆる創作現場も例外ではないと考えています。

4.『文化・芸能業界のこころの相談窓口 MeBuKi』開設までの歩み

 1年ほど前から、アクティング・コーチのもとで俳優としての演技トレーニングを再開すると同時に、業界をより良くしようと真摯に動く方々と対話を重ねてきました。その中で改めて課題だと感じたのは「第三者である専門家に相談できる場や、心理的なケアを受ける場がない」ということでした。それは、私自身が20代前半の頃に芸能活動をする中で感じた“どこに相談したら安全なのか?誰に話せば、この気持ちを分かってもらえるのか?”という「困り感」から臨床心理学を学ぶというプロセスを経ることによって「問題意識」へと変容し、最終的に「危機感」となった強い気持ちと完全に合致するものでした。それを踏まえて、文化・芸能業界で働く方々と専門家をつなぐ役割を担えると良いな…ということを、数年前から考えていました。今回、その思いに対して様々な方から心強い賛同をいただけたことで勇気が湧き、アクションとなった次第です。

 今回、この相談窓口に名付けた「MeBuKi(芽吹き)」という言葉は、私が東京から地元に引きあげ体調の回復経過を辿る中で“どうしてもお芝居との縁を切りたくない”と始めた演技ワークショップの開催時に使った名前です。やっと上を向いて歩ける気持ちになった時に見上げた桜の蕾が今にも開きそうで、長く苦しい時期を過ごした自分自身と重なったのか、自然と頭に浮かんだ言葉が「芽吹き」でした。
 「芽吹き」さえすれば、あとは自然に任せて大丈夫だと思います。ただ、芽吹くまでには水や太陽の光などの養分を取り込みながら慌てずに土壌を整えていくことが必要です。芽吹くまでの「養分」として、精神科医や臨床心理士といった専門家が担える役割は確実にあると思います。この取り組みが、文化・芸能業界で働く方々と専門家をつなぐ懸け橋となり、業界内に良い循環が生まれる一助となれば幸いです。

 初めての試みゆえに至らない点もあるかと思いますが、小さな歩幅であっても丁寧に行動(アクション)し、皆さまから多くを学ばせていただきながら成長していけたらと思っています。

 最後となりますが、心理士や俳優である以前に、エンターテイメントに救われて生きているひとりの人間として、この業界が安心・安全な世界となるように願いながら、この文章を終えたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。


 2022年5月15日
臨床心理士・公認心理師・俳優
史穂理


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