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「言葉」の感覚

昔、こんな短い物語を書いた。600字くらいの掌編とも呼べないようなひと場面。

・・・・・

「伝えるってさ、言葉に材質と形を与えて相手に渡す行為なんだよね、きっと」

このような話をしたのはいつだっただろう。穏やかに、でもどこか悲しそうな目で笑う彼女は、きょとんとする私にこう続けた。

「例えば、さ。文春砲って聞いたことあるでしょ。スクープとかスキャンダルを抜いて有名人を攻撃しているやつ。あれって読者を煽動するものだけど、言葉遣いが固くて、重くて、トゲトゲしてるの。で、そのトゲトゲした言葉を、人を傷つけるように伝える。スクープだからスピード命でしょ。そうすると鉄砲みたいな飛び道具に頼るしかない。あれは、人を傷つけるためにしかるべき材質としかるべきメディアで届けているんじゃないかなって。名前通りだよね」

彼女の言葉に悲しげな響きが強まる。秋雨のような冷たさが加わる。あるいは、ねっとりとした重さ。材質なんて見えなかったけど、その冷たさが苦しくて、私は頷きながらこう返した。

「じゃあ、優しい言葉なら?」

ふっと空気が柔らかくなって、彼女を午後の日差しが照らしたような気がした。

「真っ白な子猫を腕の中に抱えさせてもらっているような感じ……とか」

「そっか。そういう言葉にたくさん出会えるといいな」

ふんわりと微笑む。おそらくはよく理解していない時の曖昧な笑み。紙の香り。手元には一冊の文庫本。彼女はまた読みかけの全集に目を落とした。

蜂蜜のようにとろりとした時間の、そんな一幕の記憶しか私にはないのだ。

・・・・・

改めて読み返すと不思議な気持ちになる。くすぐったいような、それでいてどこか冷たいような。夜風が吹くなか外に散歩に出た猫が帰ってきてじゃれつくような感覚、と言ったらいいだろうか。

私の物語は、文体にクセがある。回顧録のような始まりが好きらしい。この文章もそう。そして、お題がないと「言葉」の問題や会話を題材にしがちだ。

これを読み返したのは文芸部に所属する友人に寄稿を頼まれたからで、これから執筆しようと思っていたのだった。

友人は「お前らしいの頼むぜ」と軽いノリで言ってきたが、難しい。「私らしさ」ってそんな簡単に出せるわけがない。そもそもそんなに物語を紡いできたわけではないのだから。

だから、最初に昔書いた作品を読み返すことにした。あまりにも稚拙な、自分でもよくわかっていないような言葉たちを。積み重ねた結果今があるのだとしたら、「私らしさ」もどきのヒントぐらいは見つかるかもしれない。

そして見つけたのがあの作品だった。当時読んでいた小説に幾分影響を受けているような気がする。なんとなく場面全体の色彩が似ている。ツッコミどころも満載。空間が謎すぎて場面の想像がしにくい。「また」って言いながら全集初登場だし。それに、秋雨とねっとりした重さは結びつかない。

でも、一番穏やかな気持ちで読める作品だった。今の感覚に合っていたからだ。

物語を書くことは、「言葉」を操ることだ。そこには色彩や感覚的なものがある。それを拾い集めようとするのが私だ。「言葉のナイフ」なんてありきたりな言葉になってしまったけれど、それだけじゃなくてポジティブな面でもそう表現しようとする人はそう頻繁には見かけない。

窓を開ける。ちょうど雨が降っていて、夏が終わろうとする夜。空気は柔らかく音を吸い込んでいた。

ここから、物語を膨らませてみよう。うまく行かなかったら新しく作ればいい。

ぽつり、と浮かんだアイデアはじわじわと広がって、グルグルしていた私の頭を包み込んでいく。温かい。

手元の物語が小さなおもちゃ箱のように見えた。


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