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作家とヤモリ

 赤い光が窓から差し込む。
 目が覚めた途端、汗が噴き出てくる。
 西日が入る部屋が、夕陽で真っ赤に染め上げられている。
 生ぬるい空気の動きを感じて横を向くと、扇風機が頼りなさそうに首を振っている。
 私は首筋の汗を手で拭いながら、身体を起こした。時計の針は、二本とも6を少し過ぎたところで重なっている。
 私は、パジャマ代わりに着ているバンプオブチキンのライブTシャツとジャージのハーフパンツを脱いで、鼻歌を口ずさみながら洗濯機に放り込んだ。
 寝ている間に西日に焼かれてガサガサになった喉から漏れ出る歌は、錆びついた低音と裏返る高音で、我ながらひどいものだった。
 パンツ一枚の恰好で、スマホを見るとメッセージと着信が合わせて十件ある。全部担当編集者の岡島さんからだった。
「やばっ!締め切り今日だった」
 言い訳がましく書きかけの原稿と謝罪のメッセージを送り、既読が付いた瞬間に通話ボタンをタップした。
「お疲れ様です。河名さん、大丈夫ですか。連絡が無かったので心配しましたよ」
「すみませんでした。仮眠のつもりがどっぷりと寝入ってしまいました。とりあえず、先ほど途中経過の原稿を送りましたが、今夜仕上げて明日の朝までに送ります。もう少し待っていただけないでしょうか」
 電話の向こうでキーボードを叩く音がかすかに聞こえる。
「分かりました。ざっと原稿を見た感じだと、もう七割くらい書けてる感じですよね。明日の午前中、できれば十一時までにもらえれば間に合うので、無理しないでください」
「ありがとうございます。急ぎます」
 岡島さんに送った原稿は、“まだ”七割くらいしか書けてない。私は通話を切ると、そのままスマホを操作して、バンプオブチキンの曲を流してパソコンを開いた。
 背後でガサっという音がして、執筆作業を中断する。
 ふと時計を見上げると、すでに午前0時を回っていた。
 締切を延ばしてもらった原稿は、ほぼ仕上げの段階にきている。ため息なのか一息ついたのか分からないような呼吸をして、私は振り返る。
 部屋のドア近くに置いてある爬虫類ケージの赤色LEDの光が、デスクライトと領分をせめぎ合うように部屋の半分をぼんやりと赤く染めている。
 またガサっと音がした。ケージを見ると、飼っているヤモリが木の枝を這うたびに枝が動いてガサっという音を立てていた。
 一年前に応募した文学賞で、たまたま最優秀賞を受賞し、先週になってようやくそれが書店に並びだした。だからって急に収入が増えるわけではない。
 それでも受賞をきっかけに、webメディアに小さな連載も持たせてもらえたし、担当編集がついて長編を書かせてもらえている。
 昔は作家デビューに三十歳という暗黙のリミットがあったと聞いた。四十歳をとうに過ぎた私は、東野圭吾だって十五回も文学賞に落選しているだとか、窪美澄もライターを経て四十四歳でデビューしたとか、都合の良いモデルケースを探して、言い訳しながら書いてきた。
 結婚もせず、転職を繰り返した私には、もはや書くことしかできなかった。
 ケージに近づくと、ヤモリの動きが止まった。こちらに顔を向けず、でも視界の端に私を捉えているのが分かる。脇に置いてある箱から、羽をむしられたコオロギを一匹ピンセットでつまんで、ヤモリの口元に持っていく。
 少し間があって、ぱくんとピンセットごと食いつく。
「お前も私と一緒だな。目の前に来たエサや仕事に、とりあえず食いついてさ。お互い本当はやりたいこととかあったはずなのにな」
 ヤモリは、口の中でもがくコオロギを咀嚼するようにくわえ直して飲み込んでいく。
「でも、お前も私もなんとか落ちずにしがみついてるんだよな」
 ヤモリは、また私を視界の端に捉えたまま動かなくなった。
 深夜二時過ぎに送った原稿は、西日が入り始めた頃に岡島さんから、ほぼ直しがなく入稿したと、連絡があった。
「岡島さん、ご連絡ありがとうございます。今回は申し訳ございませんでした。次回は締め切り守るんで、またご依頼くださるとありがたいです。ご存知の通り、私、書くことしかできないんで」
「河名さん、前にも言いましたけど、私、河名さんのファンですから。作品の出来は気にしないで、書いてください。書くことしかできないとか言ってますけど、それって武器になるものを自分のために磨いてきたってことですから」
 岡島さんの声が途切れる。一拍置いた後、なんとなく震えたような声で岡島さんがまた話し始めた。
「私みたいに諦めてしまった側の人間は、たぶん勘違いしてたんです。誰かが喜んでくれるから、誰かが応援してくれるから、評価してくれる人がいるから。そんな理由で、私も作家になろうとしたことがありました。でも、それじゃダメなんです。そうやって、誰かに道を示してもらっていると、自分よりすごい人が出てきたときに、その道を取られて、自分なんていなくていいやってなっちゃうんです」
「あの、岡島さん、まさに私がそうなってますけど」
「河名さんは違います」
 岡島さんが食い気味に否定してくる。
「河名さんは、それでも書き続けて文学賞にも応募してきたじゃないですか。誰かのためじゃなく、自分のために。そういうエゴが、創作する人には必要なんです。誰かのためじゃないと力が出ないなんて、二流か三流です。河名さんの、そのエゴから生み出される作品が私は好きなんです」
「あ、ありがとうございます。えっと……」
 西日で赤く染められていて良かった。気恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
 二の句が継げずにいると、岡島さんが付け足すように言ってきた。
「でも、締め切りは守ってください。そこはエゴなしです」
「すみません」
 通話を終えて、麦茶を飲みに部屋を出ようとすると、ケージの中のヤモリが目に入った。今、やろう。
 私は、岡島さんの話を聞きながら考えていたことを、実行することにした。
 暮れなずむ夕日を背に受けて、私は近くの公園の隅にしゃがんでいる。ヤモリが入ったタッパーの蓋をゆっくりめくる。
 ヤモリは、じっとしている。相変わらず直視せずに私を視界の端に捉えながら、新しい環境を観察している。
 そもそも、部屋に紛れ込んできたヤモリを気まぐれに飼っていただけだ。名前すら付けていない。
 西日に焼かれて背中がじっとりと汗ばんでくる。額を伝う汗が、音もなく滴る。トカゲより少し太いヤモリの尾に汗が落ちる。
 それが合図かのように、ヤモリは飛ぶようにタッパーから出て、草間に消えた。
 岡島さんに言われたように、書きたいものを書きたいように書く覚悟を決めた。ヤモリに自分を重ねたわけではないけど、食べたいものや食べられるものを自由に食べられないヤモリは、私の覚悟を揺るがす気がした。
 赤い光が街を刺す。
 正面から見る太陽は、恥ずかしそうに遠くのビルに隠れていった。



七緒よう

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