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白いキリンの彼

 赤い光が窓から差し込む。
 しばらくして赤い光は緑、黄色と変わって、また赤になる。
 ベッドに仰向けに寝ていると、クリスマスのイルミネーションのように、規則的に天井の色が変化する。
 交差点の角に建つビルの三階に私の部屋はある。道路側の窓からは、ちょうど視線の少し下に信号機が見える。
「あぁ、カーテン閉め忘れてる」
 テープを剝がすように、ゆっくりとベッドから体を起こす。体が重い。徐々に見えてくる自分の姿は、朝着たパンツスーツのままだ。ジャケットの袖についたしわにげんなりする。それでも幸か不幸か、食欲不振でも瘦せない脚のおかげで、スラックスの方はそれほどしわが目立ってない。さっきとは違う意味で、げんなりする。
 ベッドの縁に座ったままテーブルの上のデジタル時計に視線を移すと、ぼんやり「02:23」と光っている。時間を見て、盛大にため息が出た。
 納期と品質がかなり厳しい取引先の担当になって以来、睡眠の時間と質が低下している気がする。ここ一週間は、ゼリー飲料とお菓子好きの後輩がくれるキットカットが食事代わりになっているのも気になる。
「胸ばっかり痩せるなよ。もう少しくらい脚も細くなれよ、私」
 もう一度、息をつく。ため息半分、気合いを入れるの半分。「よし」と、さらに気合いをいれて立ち上がる。ジャケットを脱いで床に放り投げる。どうせクリーニング行きだ。気にしない。
 照明が消えているのに苦も無く部屋を歩けるのは、窓から入る光のせいだ。いい加減にカーテンを閉めに窓へ向かう。
 23区内ならともかく、ベッドタウンのこの街では、午前2時は人も車もほぼゼロになる。誰もいない、何も通らない交差点を数秒眺めていると、得体のしれない感情が食道を駆け上がり、鼻の奥にぶつかって、わけもなく涙が出そうになった。実際に泣くほどではないけど。
 気を取り直してカーテンを閉めようとしたその時、白い丸太のようなものが視界の端を横切った。電信柱の付け替えだろうか。
 丸太のほうに視線を動かすと、それは丸太ではなく、白いキリンだった。窓から首だけ出して、キリンが歩いていくのを視線で追う。脚が長いわりには、予想以上にゆっくりと歩いている。時々思い出したかのように、街路樹のケヤキの葉を舌で巻き取るように食べながら、のっそりと歩いている。
「え?キリン?動物園から逃げた?え、でも白い、キリン?」
 それは、確かにキリンだと思う。街灯のLEDでさらに白く照らされると、独特の柄がうっすらと見えた。それに、異様に長い首があの動物がキリンであることを、この上なく物語っている。
 ただし、歩くのは遅かった。学生時代に動物園でキリン見たときは、もう少し早く歩いていたような気がする。
 あのキリンは、のろまというより、余裕というか貫禄がある感じだった。そのおかげで、私は白いキリンよく観察できた。
「なんなの、一体」
 枕元に置きっぱなしになっているスマホを取りに、一旦ベッドへ向かう。
「撮っておかなきゃ」
 夢ならリアルすぎる。現実なら夢みたいで、誰も信じない。自分自身でも正直どっちなのか分かってない。撮っておけば、どちらにしてもはっきりするのではないかと思って、窓からスマホを構える。
「あれ?どこ?」
 さっきまで白いキリンがいたあたりは、青々としたケヤキの葉が風に揺れているだった。
「あー、もうわけわかんなくなってきた。」
 外と内との境界が曖昧な薄暗い世界で、ぼうっと光るスマホだけが現実感を朧げに放っている。街中に響いているような心臓の鼓動が、身体の内側から夢じゃないことを訴えてくる。
 ふわっと髪をなびかせる夜風が心地よかった。
「いいや、もう寝よ」
 窓を閉めて、カーテンを引く。天井を彩っていた信号の光も見えなくなり、真っ暗になる。
 手探りで照明のスイッチを見つけて、部屋を明るくする。
 しわになったブラウスとパンツスーツを脱いで、ジャケットの上に投げた。もう一度カーテンが閉まっていることを確認して、下着も脱いでまた放り投げた。
 裸のまま洗面所に行き、クレンジングオイルを手に取る。ぬるぬると手に馴染ませていると、冷静さが帰ってきた。
 顔を洗っていると、乳房にお湯がはねた。水滴が痩せた膨らみを伝って先端に届く。
 タオルで顔を拭いて、鏡に映った上半身を見つめる。しばらく自分以外に触られていない私の胸は、我ながら色気もなく不格好だと自嘲したくなる。
 そういえば、セックスどころか、ずっと一人でもシてない。
 女として、渇き、萎れていくような気がしてくる。焦りと恐怖と寂しさがごちゃ混ぜになって、股の間をざらつかせる。
 薄い陰毛で覆われた部分に、そっと指を這わせてみる。
「ははっ」
 すごく間の抜けた姿が鏡に映って、乾いた笑いがこぼれた。
 鏡の中の自分をもう一度見る。中途半端に笑う全裸のアラサー女がそこにいる。
 途端に何か悪いことをしてしまった気がして、手を洗う。私は穢れを落とすように、乱暴に右手の中指をこすった。
 部屋に戻る前に、キッチンで水を一杯飲む。カラカラだった喉を過ぎて、食道を通りながら水が体内に収まるのを、冷やされた血液が胸から全身に広がる感覚で実感する。
 部屋に戻って時計を見ると、3時を回っていた。
 鏡の中に映った裸の女が自分だと思いたくなくて、ちゃんとパジャマに着替えてから毛布にくるまった。

 今日は珍しくアポが一件もない。
 昼休みになり、オフィスの照明が落とされた。
 私は通勤途中にコンビニで買った菓子パンを、カバンから取り出して、自分のデスクで食べ始める。
 ふと2週間前の深夜に見た白いキリンを思い出した。菓子パンの白いクリームのせいかもしれない。
 経費精算のエクセルを閉じて、ブラウザを開く。Googleの検索窓に、試しに『白いキリン』と入れて検索してみる。
 数年前にアフリカで目撃されたアルビノのキリンの親子が、密猟者に殺されたという記事が出てきた。
 検索結果を少しスクロールしてから、検索ワードに『都市伝説』を追加して、もう一度エンターキーを押す。
 さっきとほとんど変わらない内容が表示された。
「んー、やっぱ違うか」
「陽子さん、昼休みに何難しい顔してるんですか」
 いつも私にお菓子をくれる後輩の深雪ちゃんが、後ろから話しかけてきた。
 営業事務の深雪ちゃんは、私とコンビを組んで2年になる。基本は社内にいて、私の取引先との書類のやり取りや受注を助けてくれている。
「いや、こないだ夢なのか寝ぼけていたのか、窓の外を白いキリンが歩いてたような気がしてさ。もしかして、そんな都市伝説あるのかなって調べてたの」
 私は振り返って、検索結果が表示されたままのパソコンの画面を見せながら答えた。
 和菓子メーカーであるこの会社に勤めていて、嫌というほど和菓子を食べる機会があるし、彼女はいつもチョコレートをくれるのに、裾が広がったスカートから見える脚は、ほっそりしている。
「なんですか、それ。そういう都市伝説があるんですか?」
「ううん、なかった」
「ですよねー。本当に白いキリンが目の前に現れたら、けっこうホラーですよ」
「まあね。でも、私は見てるんだよ。かなりリアルな感じでさ」
「あ、そういえばキリンが出てくる夢って、運気上昇するはずですよ」
 しまった、と私は心の中で後悔した。占いとかスピとか、すこぶる苦手だった。
「あ、陽子さん、キリン雑学を一個教えてあげますね」
 深雪ちゃんは、近づいてかなり声を落として、囁くように言い出した。
「キリンって、あの体型のせいで交尾が下手らしいですよ。なかなか、こう、なんて言うか、上手く入らないらしいです。入ったところで、その体勢を維持できないから入れたらすぐに出さないといけないので、大変みたいです。しかもメスが発情するのは、一年で2,3日しかないらしく、その間に交尾しなきゃなので、100回以上トライしてやっと成功した例もあるみたいです」
 私はそうなんだね、と曖昧に返事をして、逃げるようにコーヒーを買いに自販機に向かった。苦手ではないにせよ、何が悲しくてキリンの交尾について会社の後輩から聞かされなきゃいけないんだ。
 自販機の前に立ち、お金を入れようとしたときにカルピスウォーターが目に入った。コーヒーを買うつもりが、カルピスの方をつい買ってしまった。
 ふと見ると、缶コーヒーはどれも売り切れていた。そのことにほっとした自分に対して、猛烈に恥ずかしくなった私は、ペットボトルを握りしめながら小走りで自分のデスクに向かった。

 白く危ういような光が夜を包んでいる。
 初めてキリンを見てから、1ヶ月経ったその日は、満月だった。
 空を見上げると、まるでそこだけ昼のように、薄雲の麻布越しに白く光るまん丸の月が浮かんでいる。
 今日も家に着くのが23時を過ぎてしまいそうだ。それでも、翌日に予定のない金曜日の夜という事実が、少しだけ私の足取りを軽くしてくれている。
 50mほど先の交差点を曲がったら、すぐ家だというところまで来たときに、それは現れた。
 まさにその50m先の角にあるビルの2階あたりから、ぬっこりと白い動物の顔が現れた。続いて、するすると長い首がビルから突き出てきて、やけに細い脚がゆっくり動くのが見えた。
 私は声を上げそうになるのを、口に手をやって必死に抑えた。だんだんと息苦しくなってきたことで、無意識に呼吸も我慢していたことに気づいた。
 そっと口を塞ぐ手を下ろし、ゆっくり長く息を吸う。肺が膨らみ、十分肺胞に酸素が行き渡ったのを感じると、今度はまたゆっくりと細く息を吐いた。
 交差点から現れたのは、白いキリンだった。間違いない。
 よく見ると、今日は白いキリンだけじゃなかった。キリンの足元で動く影がある。
 バレないようにそっと、だけどじっくりと影の主を見極めようとして、眉間に皺を寄せながら目を凝らす。街灯に照らされて、さらに白さが目立っているキリンの周りは、昼のように明るく見える。
 足元の影は、人間だった。
「え、嘘でしょ。なんで」
 思わず小さく声が漏れた。
 照らされて見えたその人は、大学時代に付き合っていた元カレだった。
 顔つきは幾分大人びたように見えるけど、キリンのように背が高くて細身のシルエットは当時のままだった。
 彼がこちらに向かってくる。白いキリンも彼の横にピッタリとついて、こちらに向かってくる。
 スマホをみるフリをしながら、なるべく顔を上げずに歩いていく。私たち以外周りにいないと思うけど、前をちゃんと見てないから、歩くペースは遅くなる。
 彼とは目を合わせずにすれ違える。
「ん、陽子?」
 ダメだった。
「あれ、陽子だよな。俺だよ、洋介。すごい偶然だなー」
「え、ああ、洋介。ひ、久しぶり」
 唐突に昔の恋人に会って、どんな顔をしたらいいのか分からない。その点、洋介の普通さは尊敬に値する。
 近くで見ると、洋介も年相応にしわができてるし、髪の毛も少し細くなったような気がする。それは、成長なのか老いなのかわからないけど、私の記憶の中の洋介と目の前にいる洋介の間には、時間の積み重ねがあった。
「陽子の家ってこの辺なの?」
「うん、あの角のちょっと先。洋介もこの辺に住んでるんだ」
「いや、俺の家はここからだとけっこう遠いよ」
 洋介はそう言うと、川の向こうはもう隣の県というところの駅名を教えてくれた。
 私は視線を下に向けて、歩道に路線図を描く。たぶん、ここからだと2回は乗り換えないと辿りつけない。
「そうなんだ。でも、じゃあなんでこんなところにいるの?」
「それがさ、酔いつぶれた友だちを抱えて、さっきそいつの家まで送ってきたとこ。あ、まだ終電あるよね?」
「え、どうだろ。そこの駅はまだ電車が動いてるけど、洋介のとこの駅まで行けるか分かんない」
 洋介はがくっと首を垂らして、落胆を表している。その仕草が昔と一緒で、悔しいけどちょっと可愛いと思ってしまった。
「なあ陽子、ちょっと調べてくれない?俺のスマホ、充電切れちゃってる」
「えー、私だって早く帰りたいんだけど」
「陽子の家はすぐそこだろ?頼むよ」
 くそ、また可愛いと思ってしまう。190センチ近くある洋介が、160センチの私と目線を合わせてお願いしてくるなんて、ずるい。
「ねえ洋介、明日の予定は?」
「いや、そんなことより電車調べてって」
「いいから。明日はなんか予定あるの?」
「この土日は家でひたすらゲームするつもりだった。一人で」
「ふーん、そっか。じゃあもう面倒だから、うちに泊まったら?」
 洋介は、表情を変えずに考えている様子だ。何を考えているんだろう。
「陽子がそれでいいなら、そのほうが俺も助かるけど。本当にいいのか」
「うん。それじゃ、気が変わらないうちに行きますか」
 今度は洋介がどんな顔をしていいのか分からなくっているような、中途半端な表情で私を見ている。
「そうそう、洋介。さっきあそこの角を曲がってくるとき、白いキリンいなかった?」
「白いキリン?そんなオブジェかなんかがあの辺にあるの?見てなかったわ」
「そっか、それならいい。じゃ、ついてきて」
 やっぱり白いキリンは、洋介には見えてなかった。

 カーテンのすき間から入る信号機の光で、細い彼の体が赤や緑や黄色に変わる。
 なんとなく受け入れた久しぶりのセックスは、まさしく夢かと思うほど良かった。
 お互い汗臭いし、洗濯してあげると言って、10年ぶりに洋介とシャワーを浴びた。狭いユニットバスでは、どうしたってくっつくことになる。
 体を拭いて、ベッドに移動して、どちらともなくキスをした。キリンのように長い舌があるわけじゃないけど、不覚にも洋介のキスにとろけてしまった私は、そのままなんとなく洋介を受け入れた。
 キリンのように数日のうちに100回以上なんてしようとは思わない。
 でも、この土日は服を着ずに彼と過ごすのもいいかもしれない。
 私は起き上がって、ベッドの縁に座る。一応胸は腕組みするようにして隠した。
「ねぇ、キリンの雑学教えてあげよっか」
 振り向いた洋介の顔は、まだ眠そうに見える。
 私はこの人と再会して、たぶんこのまま恋人としても再開するんだと思う。
 別れた理由も特になくて、ただ就職後の配属で遠距離恋愛になったのをきっかけに、疎遠になった。それは、自分の選択というより周りに流されたような不完全燃焼な恋の終わりだった。別れるのに理由を必要としない私たちは、再開にも理由がいらない。
 私は、白いキリンが連れてきた彼との生活を、一晩身体を重ねただけなのに少し楽しみにしている。白いキリンは、もしかしたら私の抑えていた性欲が見せた幻だったのだろうか。それとも彼の性欲だったのか。
 どっちでもいい。とにかく、こんな私も、ありかもしれないと思えるのは、洋介のおかげだ。
 痩せた胸の前で腕組みしながらニヤけていたら、洋介がもぞもぞと起きて、裸のままキッチンに行った。
「コーヒー、ある?」
 首だけ振り返って聞いてきたので、ドリップ式のインスタントコーヒーが冷蔵庫に入っていることを教えた。
 しばらくして、コーヒーの香りが私の身体を包み込んできた。
 こっちに背を向けて、ドリップコーヒーにお湯を注ぐ彼の身体は、コーヒーミルクの白さだ。
 私はそんな彼の背中に向かって言う。
「ねぇ、コーヒー飲んだら、もう一度、しよっか」



七緒よう

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