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それは非常に巨きい箱であった。箱と云うには余りにも巨大であり、然し箱としか表現の仕様がない。

「あの、済みません」

箱に近付く男性に声を掛けるが、此方に視線を向けることなく通り過ぎて行く。先程からずっとこうであった。誰に話し掛けても、誰一人として返事を寄越すことはない。まるで私のことなど視界に入っていないかの様に。

「そんな訳無い」

他所から移り住んだ私に対する嫌がらせだろう。再び箱に目を戻し乍ら呟いた。兎に角巨大な其れには繊細で煌びやかな模様が彫られているが、何処と無く禍々しさの様なものを放っている気がしてならない。周りに飾られている花がそう思わせるのだろうか。

ふと思った。私は何故こんな所に居るのだろう。家で妻が待っている。早く帰らなければ。私は一刻も早くこの場から離れようと、箱に背を向けた。すると、幾つかの黒い服の男達の中に一人、白服の女性の姿があった。此方へと歩を進めている。少し右足を引き摺る様な其の歩き方、所作に私は見覚えがある。

目を凝らす。女性が一歩、また一歩と近寄るに連れ、顔立ちがはっきりと見えてきた。

其の女性は、妻の千代であった。妻も此処に来ていたのだ。それならば話が早い、こんな所一刻も早く出て家に帰ろう。私は妻に歩み寄った。

「おい、千代」

妻は、私を通り過ぎた。まるで私のことなど視界に入っていないかの様に。

「千代。おい、千代。どうした」

私は必死で妻に呼び掛けた。孤独感に近い恐怖心が体を巡り、情けなく震える声と成って体外へ表出される。お前迄俺を居ない者として扱うのか。

「千代!」

「あなた」

妻は此方を向くことなく、静かに返事を寄越した。其の視線の先には、巨きな箱。返事が私に向けられていないことがわかる。妻は、その箱の扉を、震える指先でそっと開いた。

「……安らかな顔」

妻の声も震えていた。

箱には、人が横たわっている。私からは顔はよく見えなかった。

「千代」

妻の肩に手を置こうとして、止めた。妻が箱の扉を閉じる。その表情は非常に苦しそうであった。

(こんなことがあってたまるか。これは現実ではない)

私は、箱を一瞥して歩き出した。

帰ろう。現実に。帰れば妻が私を出迎えてくれる筈なのだから。きっと、笑顔で「御帰りなさい」と言ってくれる筈なのだから。

強く目を閉じる。平衡感覚が浮遊し、意識が裏返るような感覚があった。遠くで、妻が私を呼ぶ声がする。良かった。先程迄のは悪い夢であったのだ――。

目を開ける。

眼に光が映らない。然し、箱は直ぐ其処に在った。心做しか身体が熱く、心臓が煩く脈打つ。


私は、箱の中に居る。

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