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親知らず抜歯と喪失感

僕は大学病院で親知らずを抜いてきた。その時の体験を綴っておきたいと思い筆を(キーボードというべきかもしれない)取った次第だ。

ことの経緯はと言えば、近所の歯医者さんにある設備では僕の親知らずを抜くことはできなかったために大学病院に行く必要があったからだ。

田畑と川ばかりの下宿先から電車やバスを乗り継ぐこと1時間。僕は大学病院にいた。バスを降りた時にはやはり大学という名前の付くだけあってか診察を受けないでそのまま講義棟のようなところに向かう人も見られた。

僕はこれから歯を抜く。今朝の食事は余ったご飯と余った天かすと余った薬味の葱を麺つゆで適当に混ぜたものだった。抜かれる前にもう少しいいものをかませてやるべきだったな。そう思いながら僕は親知らずを舌で触った。

今回抜くのは右の親知らずだ。左の歯は比較的まっすぐ生えているが右の親知らずは若干斜めに生えており智歯周囲炎(親知らずは歯肉に部分的に被ったままになることにより不潔になりやすく、歯肉の炎症を起こしやすい状態となってしまっている。この時の炎症の名称らしい)になりかけていた。左の歯も同様で時々膿のような黄色い液体が出てきてしまっていた。親知らずは10代後半から20代前半にかけて生えてくるので、親知らずの部分に完全に歯茎ができてしまって口の中に癒着してしまったり、回復力も病院にかかる時間もない3,40代になってから抜くのでは断然前者の方がいいらしい。そう思って今回の抜歯の決断をしたのだ。

受付を済ませてから10分ほどで名前を呼ばれた。30分近く待っていた認識だったが時計を見るとそれくらいしか過ぎていなかった。そして心の準備もできていなかった。どの歯を抜くか、歯はどう生えているか調べるために以前もここに来たことがあり、その時から僕の担当医は20後半くらいの目力の強い美人な女医さんだったが今回ばかりはときめきはなかった。

「じゃあ右の親知らずを今日は抜きますね。体調は大丈夫ですか荷物はそこにおいてください、あぁそれと今日は学生さんが…」

多くの人間を一日に診る必要があるからだろう。早口だが理知整然と説明する。今回は研修医の男子学生が僕の歯を抜く準備してくれるらしい。それと麻酔をかけてから抜くことを説明される。手術の方は女医さんがやってくれるようだったのでホッとはした。

だけど心の準備は何もできていないのにありとあらゆることが進んでいく。学生が消毒を済ませ、女医さんが麻酔をかける器具を用意する。針が出て来るらしいのでかなり恐怖があった。注射針が僕の歯茎に刺さる想像をしただけで気が遠くなりそうだった。「チクッとしますね~」と言われて親知らず周辺に針が何度がさされる。親知らずそのものに針が当たっている感覚が怖かった。麻酔が効くまで待つとの話だったが一分も経たずに切開を始めようとした。病院にはめったに行かず局所麻酔なんて初めての僕には本当に神経が過敏な口腔内が痛みを感じないなんて信じられなかった。「本当に効いてるんですか?」僕がそう聞くと丁寧に時間をかけて麻酔が効いてるか確認してくれた。押された時の圧迫感は感じるが痛みは感じないはずだから大丈夫、半信半疑だったがいざ切開が始まると痛みは感じなかったが口の中の奥で何かされている感覚があった。

ペンチのようなもので歯を動かし、若干ゴリゴリと何かを削る音がする。

学生に指導する声と僕に話しかけてくる声の両方が耳に入るが、正気を保ち理解することで精いっぱいだった。口をあけっぱなしにして脳に響くゴリゴリとした音、時折感じるチクッとした痛み、器具が麻酔の効いていない部位を傷つけたらどうしようという不安、体に害をなす可能性が高いとはいえ身体の一部が欠損してしまう恐怖心、そしてほんの少しの初めての抜歯への楽しみとが入り混じった状態で気が狂いそうだった。一刻も早く口を閉ざし逃げたかった。

「はい抜けましたよー」

いつの間に抜けたのか、と安堵と拍子抜けの気持ちの後に

「あごの骨汚くなっているので少し削りますね」

と言われゴリゴリ削る音が脳内に直接聞こえた。歯茎を切開し、骨を削っているという状況がどこか遠くの世界の出来事のようだった。その後は歯茎の縫合が始まった。痛みはないが糸が縫われる感覚が続いた。

「じゃあ終わったんで止血のためにガーゼ噛んでくださいね」

と言われてガーゼを手術跡の上で噛む。あごの骨を露出して歯茎を乗せただけという状況が怖かった。止血の間に術後の注意事項が書かれた紙を読むように言われて女医さんと研修生はほかのところに行った。

血に濡れた器具とともに抜かれた歯が見えた。思っていたよりも大きく歯肉の一部がくっついていた。二人が戻ってきて抜けた歯はいるかどうか聞かれてもらうことにした。歯なんて毎日抜いているだろうし特に珍しい形でもなかったので研究にも使えなかったのだろう。抜糸(歯医者さんでは区別のためにばついとと発言することもあるらしい)の予約をして二人にお礼を言ってから部屋を出た。あとは料金を払って抗生物質と痛み止めをもらって帰路につく。麻酔が切れ始めているからか痺れと鈍痛があったのでバスを待っている間に薬を飲んだ。痛みはすぐに無くなった。

体の一部が無くなったことに違和感があった。欠損と同じなのだから当然だろう。これからもう片方の親知らずもなくなることを考えると自分自身の体を傷つけてもらうことに忌避感が出てきた。

でもみんなそうなのかもしれない。これから僕は社会に出ていく中で自分自身の体以外にも多くのものを失うはずだ。頭髪、健康、お金、精神…

しかし同時に何かを手に入れるはずである。僕も欠損と引き換えに歯のその他の歯の健康を手に入れたはずだ。今回僕が抜歯とともに経験したことは僕が成長するための糧となったはずだ。たかが歯程度と思うかもしれないが、それほど今回の経験は僕の考えに影響を与えたのだった。

参考

抜けた親知らず

結構大きいなぁ。

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