20年の時を越えて母の駐在ブログを娘が復刻する:第1回 バルセロナにくるまで(2000年3月)
発掘された20年前の母親のブログ
ありがたいことに、こうしてツイッターやらブログやらnoteやらで発信したりしているうちに、文章を仕事にできる日がきた。
現在2本の媒体で連載をしていて、実はもう1媒体での連載の準備が進んでいる。
自分に文才があるなんてあまり思わないけど、文章を書くのがとにかく好きだ。
そして、家族で昼食を食べていると
「そういえばママも昔なんかで書いてたんだよね?」という話になり、
「やだー、ただの主婦の趣味みたいなもんだよー」と照れながら母がいい、
「とってあったよ、たぶん」と父がぼそっと言い、
私は生まれて初めて、母親が書く文章に出会った。
そして、あまりの面白さに泣いて、文才力負けたと思って悔しくて泣いた。笑
母は私以上にドタバタしていた
私は幼少期の10年間を海外で過ごした。
こんな風に言われると、「帰国子女うらやましい!ぺらぺらなんでしょ!」と言われて、
「ひとくくりにしないで」なんて心のなかで少し反発するんだけどやっぱり外からみたらきっとうらやましいことなのかもなと思って言えなくて。
でも、日本に帰ってきてもう15年以上たっているなかで自分のアイデンティティはもう完全なる日本人で、
そんな私が25歳で日本を飛び出し、人生初めての一人暮らしをニューヨークで過ごすこととなった。
そして、さかのぼること○○年前、同じく母は父と結婚し26歳で人生初めての海外赴任をすることとなる。
最初の赴任先はイギリス、そこで私が生まれて、その後にスペインのバルセロナ、そしてマレーシアのクアラルンプール。
そして、母はスペイン・バルセロナにいたときに『出たっきり邦人』というネット媒体に声をかけられて当時の日々を連載として残していた。
タイトルは『フツーの主婦の毎日がバルセロナ』
2000年に創刊というから、母はこの創刊時代のメンバーになる。
そして今も続いているのがすごい・・・
ただ、いくら探してもでてこなくて、やっと出てきたと思ったらもう20年も前だから古すぎて全て文字化けで読めなくなっていた。
この《欧州編》の一番下のペンネーム「おみちゃん」、2000年から書いてるってもうめちゃくちゃ初期のライターじゃん・・・!
しかし、なんと父が全文をwordファイルにうつしておいたみたいで全て残っていて、初めて母が書く文章を読むことができた。
父、ぐっじょぶ。
一気読みしたのだけど、当時はブログなんて概念も確立してないしSNSもなくて、本当に先駆けだと思う。それでもそれを読んで知らない人からコメントがきたり、バルセロナに赴任になったひとから相談の連絡がきたりしたらしい。
そう、読んでいてびっくりしたのは20年たっても同じことで悩み、同じことで迷い、私の留学生活をそのまま見ているようだった。
スペインは英語が通じないという点では、私より数倍もドタバタしていた。
言葉が通じないのはきつすぎる。。。
(現在「ドタバタ留学記」という副題で連載を書いていたが、母はもうそれ以上だった)
そして、母が異国で子育てをして、奮闘してくれた姿を知ることができて、本当に、心からこの文章に出会えてよかったと思った。
もう文字化けして読めなくなった母の文章を、20年の時を超えて海外留学中の娘が復刻する、最高すぎる企画でしょ。
20年も前の情報だから、本文で母が紹介している店はもうつぶれているかもしれない、もっと住みやすい世界になっているだろう。
でも、やっぱりうんうんと頷いてしまうところが何度もでてくる。
20年経っても変わらないものがたしかにある。
本文はもう原文をそのままnoteに残し、マガジンにする。noteも「ブログ」もSNSもなかった時代に残された文章を、こうしてnoteに残すことでまた日の目を浴びてくれればという娘の思いだ。(著作権はそれぞれのライターにあるとのことなので、母の承諾は半ば無理矢理もらった。いやがっていたけど笑)
これから同じように駐在で行くひと、バルセロナに行ってみたいひと、同じく留学をしているひと、初めて海外で生活するひとに読んでほしい。
そして、文章を書くのが好きなのはまぎれもなく母親譲りなのだと確信した。
第1回 バルセロナにくるまで…(2000年3月)
はじめまして。
ひょんなことから『出たっきり邦人ライターズ』の仲間入りをした30代のフツーの主婦です。ごくごく普通に短大を出て、OLをしていて、結婚して、フツーの生活をしていた私が、いつのまにか「出たっきり邦人」になって、8年が過ぎました。
自分の意志で日本を離れることになったのではないけれど、フツーの私がこうして日本を離れて、いろんな人に出会い、いろんな経験をしています。
少しずつ書いてみます。どうぞおつきあいください。
今からかれこれ8年以上も前のこと、そう湾岸戦争も落ち着き、日本中がバブルで沸いていた1991年春、同じ会社に勤めていた夫にイギリスへの海外赴任の辞令がありました。結婚して2年、共働きにもそろそろ疲れが出てきて退社のチャンスをうかがっていた私にはラッキー!だったのでしょうか? 一足先に渡英していた夫を追って、2ヵ月後の6月、私は生まれて初めてロンドン・ヒースロー空港に降りました。イギリスに赴任=ロンドンに住むと普通は思うのですが(私もなんとなく近くかなと思ってました)なんと私たちがこれから5年もの歳月を過ごしたところは、ロンドンから西に250キロ、そこは、イングランドではなく、ウエールズの小さな小さな田舎町でした。
羊や牛や馬がすぐ近くにいて(信じられないかもしれませんが本当です)何にもない生活にもなぜかすぐに慣れ、最初の2年間は休暇となるとあちこち大陸の各国に旅行に出かけ、普段はアダルトスクールが充実している国のこと、英会話、テニスにゴルフ、フラワーアレンジメント、陶芸、カリグラフィーなどなど習い事をしながらイギリスのカントリーライフを満喫しておりました。そして、妊娠・出産(イギリスの医療制度NHSには大変お世話になりました、費用は全てタダ!)初めての育児を楽しんでいた矢先、スペイン・バルセロナへの転勤がきまったのです。
「オリンピックがあったところだっけ?」
「わざわざイギリスから旅行することなかったねー」
「英語通じたっけ?」
食べ物は美味しそうだし、お天気も良さそうだし、まあなんとかなるかなと軽い気持ちで慌しく引越し、引越し荷物は同じトラックのまま4日後には新居に到着。当時2歳半の娘を連れて、家族3人の新しい生活がスタートしました。1996年7月のことです。海外生活も5年の余裕?でしょうか、そんなに緊張感もなく生活を始めようとしたのですが、英語はほとんど通じないし、住む環境、買い物の仕方、同じヨーロッパでもこんなに違うの?というカルチャーショックを受けながら、しばらくはイギリスに帰りたい…と落ちこむ毎日が続きました。
つづく
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