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25歳の疑問「なんでバンドやっているんだろう…」

25年前の3月8日、兵庫県西宮市でヒガシノメーコは生まれた。
3人姉妹の最後の子、母が39歳のときのことである。生まれる頃、母子共に危険な状態で救急車で病院に運ばれた。帝王切開に同意する書類には、父が間に合わず母自身がサインをした。
無事に生まれたメーコは看護婦さんたちに「ラッキーちゃん」と呼ばれる。母はわたしが助かったあまりの喜びに「この子は祈(いのり)という名前にしよう」と父に提案するが「それは…」と難色を示される。


メーコはベビーシッターがやってくると寝たフリをするくせに、母が帰ってくるとベッドから起き上がり満面の笑みで迎える、そんな子どもだった。
幼少期は自作の歌を発表するのが得意で、新幹線に大きな憧れを抱いた「新幹線タァータタタタ」(実際に乗るのは十数年後のことである)や、車に乗り遅れたときの歌「待ってくれー!タッタッタッタッタッタッタッタ」(実際に乗り遅れたことはない)、さらには母親が自分のことを可愛がるがあまりに「シンションション、シンションション、メーコは可愛いシンションション」という非常に口当たり滑らかなメーコ語を生み出すと共に、自分を可愛いと称する歌を作り上げたりしたのであった。

だが可愛いということに対する疑問もあった。子どもの頃のわたしの写真はほとんどがショートカット、中にはベリーショートもある。だけど母が可愛いというから「わたしは可愛いんやろうなあ」と受け入れていたが、ある日大きな化粧台の鏡で自分の姿を見たときに、髪みじか!周りの子と全然違うヤン!!と驚き、思わず「これ可愛いか…?」と呟いた。これがメーコ、”自我”の誕生である。

ただ髪が短いだけの子どもなら別に珍しいことではない。
ご存じの方も居ると思うが、ヒガシノメーコは平凡かつ独特な顔の持ち主である。そしてヒガシノ家全体がそんな顔立ちであった。一番の特徴というのが「切れ長の目」であった。にっこり笑うと三日月のように細くなる目である。(いや、笑わなくても十分細いんだけど)
これが原因で中学に上がる頃には「ヒガシノは朝青龍だ」という非常に雑ないじめられ方をされる。
そしてその頃、友人とプリクラを撮ることにハマっていて、撮影後に写真を確認をしたとき「あれ?わたし目をしっかりと開けたはずなのに…」と首をかしげる。クリッとした目元の友人と、比べものにならないほど目の大きさが違う自分に、『わたしはこういう顔つきなんだ』と自覚することになる。これがメーコ、顔情報の自覚の誕生である。

高校は元女子校が共学になったので男女比のバランスが悪かった。
『ギャルの言うことは絶対』『友人関係も損得勘定』『男子だってスクールカースト』などを学んだ。学校があまり楽しくないと思う。
また、中学の頃は吹奏楽部だったが、ちょっとしたトラウマを持ったため高校では軽音楽部へ転身。だから学校生活はバンドだけが楽しかった。この頃はギターを弾いていた。

短期大学部へ行った。栄養士育成コースだった。でも、バンドばかりやっていて勉強ができず、さらに栄養士の資格も取れずに卒業した。
大学は父の母校でもあったので、面目ねェ…と思うも、学校生活はそこそこ楽しかったので良かった。たくさんライブに行く、曲を作る、20歳になる、東日本大震災が起こる、仕事が決まらない、短大を卒業する、………。

ベースは大学に入ってから始めた。バンドでは、バイト先の吉田さんにいじめられた腹いせに「吉田さんの歌」を作ったり、卒業後の職場の同期がギャルだけど気のいい吉田さんだったので「ギャル」という曲を作ったりした。(でも最終的にこの吉田さんにもいじめられる)すごく夢を見た。でも現実も見た。バンドは休止する。
次のバンドでも夢を見た。計3人ギターを入れるもみんな連絡が取れなくなる。活動できない。仕事は切られる。バンド辞めようかなあ。

1ヶ月無職になる、頭が変になりそう。
でも妥協できなくて自分を追い込む。
面接に行く。良いことをすれば採用通知が来るのではないかと、帰りに献血に行く。でも血管が全然浮き出てこないので採血できず、人生初献血に失敗する。
採用通知が来る。
ごく自然な流れでバンドのメンバー募集の記事を探す。もう自分の力だけではどうにもならないと分かったので、自分でバンドを動かすことを諦めた。
オッ、カタカナってバンド、ベースを募集しているぞ。なになに…かっこいいじゃないか。メッセージ、ポチ。
メンバーに採用される。


ベースを弾いた、また歌も歌うようになった。
より感情的な人間になった。喧嘩もできるようになった。猫をかぶる癖も減った。
週1回は家族でも友達でもない人たちと会ってバンドの練習をする。真夏に3日間車に缶詰めしてツアーに行ったりもする。不思議だ。


人間は理由はどうであれ急逝することを知った。老衰だとしても周りの人にとってそれは急逝だ。いつ死ぬか分からないからできうる限り満足感を得たいと思うようになった。少しでも多く幸せになりたいと思った。
わたしは25年間、無事に今日まで生きてこれた。相変わらずいつ急逝するか分からない!だからこの続きも後悔なく人生を浪費していきたい。

#エッセイ #誕生日 #バンド #バンドマン

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