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頭に浮かんだら、まず動いてみたらいいじゃない

というか、いっつも頭の中で、あーだか、こーだかしゃべっていることを全部文字にしてみたらどうだ、と思う」

頭の中の考えをアウトプットして、まずうごきたいね、って話です。

どうも、現在ニートの私です。

どうにか食いついないでいきたいもんっすね


わりと皆さんあると思うんですが、頭の中でいろんな考えをこねくり回すことって結構あると思うんですよ。

自分自身の場合になりますが、いままでは、その頭の中の会話、というか自問自答というか、そんな感じのことを「頭の中で終わらせてた」んですね。

そんな、いろんな考えを頭の中で終わらせてた日々の中、
今日、ふと思い立って。
書いてみよう。
と思って手を動かしたところ、まぁまぁ外に出して気持ちよくなれたので、

いっつもこんなことを頭の中でぐるぐるさせてたんだなぁ、ってのも再発見できたので、備忘録として、ここにも残しておこうかなと。
書き方は基本的に自分自身に向けたような言葉で書いています、あしからず

3000文字ほどです


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導入

というか、いっつも頭の中で、あーだか、こーだかしゃべっていることを全部文字にしてみたらどうだ、と思う。


 結局のところ、きっとおまえは「悩んでいたい」だけなんだろうし、行動がそこに伴うこと、伴ったようなことは少ないように思える。
悩んでいれば行動はしなくてすむじゃん、と、なんというかな、自己肯定感を高める本だとか、そういうたぐいの本を読んだときみたいな感じ。
内容に関係なく、その本を読んでいるという、「その行為をしている自分自身」をその数舜、愛しちゃってるようなもんじゃないか。


 それは本当に何も、いや、そのあとに何かしらは生まれるかもしれないけれど、その瞬間、その行為をしている自分を愛しちゃってるときは、本の知識を活かすでもないし、何も生まれてないし、生んでいなくはないか?
考えるってことと行動は、同時にしろとは言わないけれど、もし考えだけじゃなくて行動までできたのであれば、そう、少しでも手を動かした方が、頭の中が変化して、「なにかしら」になるんじゃないか?って感じるところはある。

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あたまでかお

 なんというか、頭でっかちで行動は伴っていない、これが本当に苦しい、肉体はエネルギーを持っているのに、いかんせん、精神的な、自分のどこかしらにあるブレーキを、だれかが、いや、まぁ、まぎれもなくそれは自分自身なのだけども、そのブレーキをめちゃくちゃに強い力で踏んでいるように思える。

 じゃぁ、どうしようか、という話になる。
「精神的ブレーキ」とでも言っておこうか、なんでこの精神的ブレーキは、現実にアクセスしている肉体に、それほどまでにブレーキをかけることができるのだろうか、と考える。

 結局のところは身体性を伴わない、恒常性なのだろうと思う。心が先に行っちゃって、体がおいつかない、おいつこうとしないことに慣れてしまっているのだろうと思う。
 内面の変化は、必ずしもそうとは限らないかもしれないけれど、ある一定の身体性のある行動、からだのうごきをもってして変化する。簡単な例が、筋トレとか。
これは極論かもしれないけれど、ただ内面の変化が、内面の思考だけをもってして変化することはそうそうない。これはほぼ言い切れる。
思考し、行動した結果として、ある程度の変化が生まれる、それがいいものであれ悪いものであれ。変化は、その行動の結果として、内面に返ってくるのだと思う。

 精神的活動のみで、変化をしていける人間がいたらば、それは、常人のラインから相当に逸脱した精神的なエネルギーを持つ人か、水槽の中の脳くらいだろうと思う。
言ってしまえばだが、もしそのすごいエネルギーを持つ者がいたとして、その逸脱して精神的エネルギーを持つ者も、ある一定の形をもってして現実にアクセスし、現実という世界から返ってくるものを内面の変化にまた取り入れてると言えると思う。そうしなければ変化は起こりえない。

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かんがえる


 個人的には、知識や考えがたくさん頭に詰まることで、頭でっかちになること自体は悪いことではないように思える。
けれども、残念なことに、私が生きているのは、実態を持たない頭の中の社会世界ではない。現実に物質的に、質量と善意と悪意が入り混じって存在している現実社会であって。頭で完結できはしない。

 頭が大きくなることで、たくさん考えること、思考、考察、予見、あらゆることができるようになるんだろうと思う。
だが、ただただ頭を大きくしてしまうということは、起き上がれない赤ちゃんのように、動けないようになってしまうと思う。
あまりに大きくなってしまった頭は重くなり、立ってることはままならず横になった状態になってしまい、起き上がることはできなくなってしまうだろう。
寝そべった状態で見えるのは空の変化のみであって、それは、地に触れている私たちが、主に据えてみるようなものではないように思える。
もちろん空の変化も大事ではあるけども。

 私が見なければならないのは、空だけでなく、自らの足で立ち、頭を体全体で支えて、初めて見ることのできる、空と地の変化が入り交ざったものではないだろうか。

時に空に注意を向けて見上げることや、空を飛び地上を見下ろすことは大事だとは思うが(どう飛ぶかはさておく、『空を飛んだ場合』と空想するのが主だろうけど。)、空を見上げることだけに集中すれば、足元は全く見えないし、遠くに見える地上の変化などもわかりはしない。空を飛んで地上を見下ろすというのも同義であると思う。行く先の雲行きなどはわかりはしないし、何かにぶつかりそうか、ということもわからないだろう。

 結局、言いたいのは、自分の置かれたところから、かけ離れすぎたことを考えるというのは、自分の行動の、全くの外側に思いをはせているのと同じであり、その考えから生まれるものは、自分が置かれた現状で出来る行動とは、全く違うものじゃないの、ということ。
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 ちょっと話がそれたように思えるが、これをふまえて本筋に戻したい。
つまるところ、私がしなければならないのは、頭を大きくし続け、地面に寝ころび続け、立てなくなってしまことではなく。なんとか自分の足で立ち、空と地の変化をしっかりと見据えてどうにか歩こうとすることではないのか。
 先に書いた「精神的ブレーキ」というものは、まさに頭だけが大きくなった時のことではないか、頭が大きくなっているときに強くかかってしまう精神的な作用の事ではないかと思う。

 自らの頭が大きくなっているな、と感じているなら、まずは寝転がっている状態でもいい、が、
寝転がり続けるのではなく。地面に爪を立てるところから、少しずつ力を籠めるのが大事なのであろうと思う。


まずは爪を立て、
次に手に力を入れたら上半身を起こし、目の前の景色をとらえる。
そしたら次は足に力を籠め、ここはぐいっと、一気に立ち上がる。
立てたら次は、少し怖いかもしれないけれど前に倒れるようにする。
そうすればきっと、転ばないようにと、臆する間もなく、足が出る。

 きっと、精神的ブレーキを振り切るのは、難しい、けど、ゆるめることもブレーキをやめてみることもできる。


大丈夫。


今は頭でっかちでもいい、少しずつ、少しずつ、体の端っこから力を入れて、頭の中の世界から、体にまずはアクセスし、そこからまた現実世界に、私の体をもってして接していこう。

ブレーキを感じたら、怖いかもしれないけど、ちょっと動いてみよう。

頭に浮かんだら、まず動いてみたらいいじゃない?

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ここまで読んでくださった方がいたとしたら、本当にありがとうございます。
自らの頭の中で駆け巡っていたことを書きなぐっただけですので、かなり読みづらい部分や、表現があったと思いますが、目を通して頂けたなら幸いです。
まず、ちょっと動いてみる、が、この記事を通して自分で実践できたかなと。そう思います。

とりあえず、ここまで。

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