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【ネタバレ注意】『すずめの戸締り』書きなぐり、感想とか、個人的観点から。【映画よかった】

・本記事は、ネタバレをいくつか含むため、本編と原作小説を鑑賞、読了後に読むことを強くお勧めします。映画鑑賞後の感情を処理するための文章なので、ストーリの順序等は関係なく、支離滅裂な部分や、妄想や個人的考察を含みます
またそれらは事実とは異なる場合がございます。ご了承ください。


追記:この記事を書いてる途中に、パンフレットや入場特典の冊子、新海誠本を読みました、前半まで、この二つに目を通していなかったため、そちらと重複してしまうような部分がありますが、ご了承ください



お久しぶりです、始めましての方は始めまして。むだいです。
見てきましたよ、「例のあれ」を。

そう
「すずめの戸締り」です。

おもしろかったです。

そも新海監督の最新作ということで注目されているこの作品。公式のあらすじを引用させていただくと

九州の静かな町で暮らす17歳の少女・鈴芽(すずめ)は、
「扉を探してるんだ」という旅の青年・草太に出会う。
彼の後を追って迷い込んだ山中の廃墟で見つけたのは、
ぽつんとたたずむ古ぼけた扉。
なにかに引き寄せられるように、すずめは扉に手を伸ばすが…。

扉の向こう側からは災いが訪れてしまうため、
草太は扉を閉めて鍵をかける“閉じ師”として旅を続けているという。
すると、二人の前に突如、謎の猫・ダイジンが現れる。

「すずめ すき」「おまえは じゃま」

ダイジンがしゃべり出した次の瞬間、
草太はなんと、椅子に姿を変えられてしまう―!
それはすずめが幼い頃に使っていた、脚が1本欠けた小さな椅子。
逃げるダイジンを捕まえようと3本脚の椅子の姿で走り出した草太を、
すずめは慌てて追いかける。

やがて、日本各地で次々に開き始める扉。
不思議な扉と小さな猫に導かれ、九州、四国、関西、そして東京と、
日本列島を巻き込んでいくすずめの”戸締まりの旅”。
旅先での出会いに助けられながら辿りついたその場所で
すずめを待っていたのは、
忘れられてしまったある真実だった。

https://suzume-tojimari-movie.jp

といった感じです。

おもしろかったです。

 あらすじで、ストーリーに対してワクワクしてしまったことは勿論のこと、新海監督の廃墟表現は個人的に大好きなので、廃墟がテーマの一つに組み込まれると聞いた時には期待せざるをえなかったです。

 そんな期待を、日々胸の内でふくふくと膨らませ、上映当日、いざ鑑賞

 いやはや・・・・なんとも素敵な体験でした。これは感想を書かなければならない、本当に、書きなぐらなければこの感情の渦巻きはどうにもできない。そう思いキーボードをたたいています。

おもしろかったです。


 導入は長くなりましたが、ここから本題の感想です、本当に書き散らかします、実際そうかは問わず、本当に書き散らかします、作品というものは、言語化すると陳腐化する場合もあり、言語かそれ自体がいいものかどうかという問題はあるのですが、さすがに抑えきれませんでした、聞き流すところは聞き流すなどしながら、オタクの妄言ぐらいにとらえていただき、読んでいただけると幸いです。それなりの量になると思われるので、好きな所をちょびちょびピックアップしながら読んでいただけると幸いです。

ここからはネタバレを含みますので、本編鑑賞後に読むことをお勧めします、また個人的観点からの感想や考察などもありますので、其方にアレルギーがある方もここでレッツブラウザバック、では。

ルールールルルルールルルルルルルルルー(OP)





なんかいっぱい目次にはありますが、1と3だけでも読んでいただけると幸いです。好きな所だけでもチョイスして読んでいただければ、有難い限りです



・本作品においての時間観について

これから記したいことにおいて、この観点はどうしても外せないため、最初に少し書いておきたいと思います

本作は、強く厄災というテーマをとった直近の作品、『君の名は。』『天気の子』に続く3作品目、ととってよいでしょう、それ以前にも数々の名作を作っているものの、関連付けやすいのであれば、この三作品でしょう。この三作品の関連性を私的に、時間という観点から考えてみると
『君の名は。』については、過去と現在をつなぐための物語であり
『天気の子』は、現在と未来をつなぐ物語であると言えるのではないでしょうか。
そして今作を表すひとこと、そう
扉の向こうには、すべての時間があったー
なのです。つまるところ、本作品は
過去、現在、未来、すべてがつながっており、そしてそれらをつなぐ物語である
ということではないでしょうか。
扉は、これらすべての境界であるともとらえてよいと思います。

本作品にはこの考えを基に、あらゆるものが盛り込まれていると思います。まず、これからいろいろなことを述べていく上で、上記のことを把握しながら読んでいただけますと、伝わりやすいと思いましたので、先に、本作品における時間観について述べさせていただきました。では、続けます。

・なぜ廃墟なのか

私は、そこに心があったと、人間がいたということが忘れられてしまったときに、多くの人にとって、その場所の記憶が薄まってしまったときに、きっと建物は廃墟というものに変わるのではないかと思います。

今作、主人公である「すずめ」と、椅子にされてしまった青年「草太」は、全国各地の廃墟にある、厄災が飛び出してくる、開いてしまった「後ろ戸」を閉める旅にでます。

なぜ、厄災が飛び出してくるという、後ろ戸、というものが、廃墟と言う場所に配置されたか、それは今作における、時間の捉え方にあると思っています。

 キャッチコピーにもある「扉の向こうには、すべての時間があったー

これがすべてを物語っていると思います。

扉の向こうは、時間軸を超越した空間であり、過去、現在、未来がごちゃ混ぜになった空間、と言ったところでしょうか。如何せんいかようにもとらえられるため、一概には言えないですが廃墟というものはその一部を内包しているのではないかと思います。

さて、その時間の捉え方、扉の在り方を少し齧ったところで、廃墟と言うものの魅力に魅了された、一介の個人からの想像、廃墟観を、一言で述べさせていただきますと

人の思いが残留する場所、過去の人間の営みが、時間軸を飛び越えて、今現在においてしみついている場所である

と、私自身は思っています。
これは、本作における時間観にある程度合致しているのではないでしょうか。
扉の向こうは、過去、現在、未来が混沌と混ざり合っている場所とすれば、廃墟と言う場所は、過去、人間がそこで行っていた営みが残っており、忘れ去られ廃れてしまった今も、建造物等と言った形で残って現在に至るまで残っている。果たして未来にそれらが残るかはわかりませんが、少なくとも、過去、現在か混ざり合っている場所に、後ろ戸というものが出現するのは、不思議ではないのではないでしょうか。

本編にもかなりの頻度で描写されている部分でありますが

「忘れてしまうということ」

は、本作においてかなり大きなテーマとして掲げられていると思います。その点においても、昔は確かにそこで人間が何かをしていた、が、今はその営みはなく、その営み自体憶えている人もだんだんと消えていき、廃墟それ自体も忘れ去られていく。
確かにそこで行われたこと、あったことは、一個人においては大きな意味を持っていたはずなのに、時がたつにつれ、その経験や体験は過小評価されていき、いつか、何ともない記憶として頭の中に納まってしまい、集団単位で見てしまえば、本当に「なにもなかった」ようにされてしまう。

作品内では、「学校」「遊園地」「集落」「社」、そして「故郷と家」、と、たしかにそこで、誰かが人間としての姿をもってして営みを行っていた場所、しかしながら時がたつにつれ、その思い出は・・・・

どうでしょうか、と、廃墟と化した建造物それ自体のような感じがしてくるのではないでしょうか。

作品内、後ろ戸を閉じるときに、草太が

「かつてここにあってはずの景色。ここにいたはずの人々。その感情。それを思って、声を聴くんだ──!」

といっていたように、大事であるのは、そこであったことを忘れまいとすることであること、何事も、すべて忘れまいとすること、あったことに対して思いをはせることではないでしょうか。

 また、扉という観点でも見て見ますと、この世界において、開けっ放しである扉はどのようなものでしょうか、閉まりっぱなしである扉はどのような物でしょうか、人間生活の営みがある場所であれば、期間はどうであれ、扉というものは開けたり閉めたりというものが伴うはずです。
その行為がなくなってしまい、あけっぱなしになる、閉めっぱなしになる場合はどのような場合か、その土地、建物が忘れ去られ、人間生活の営みがその場で行われなくなった場合だと思うのです。
廃墟である理由はここにあると思います、開け放しになる、閉めっぱなしになるべくしてなってしまう扉が、廃墟にはあるのです。
そのような廃墟に、後ろ戸が現れるのは、戸が後ろ戸になってしまうことは、ごく自然な要素として作品に組み込まれていると感じました。

 だからこそ廃墟、なのではないでしょうか。忘れ去られる、忘れてしまうということと、過去現在未来という時間軸をテーマをとったとき、人間活動のそれまでがあった廃墟というのは、作品の時間という概念を説明しながら、雰囲気を壊すことのできる、これ以上なく本作品に適したテーマ、場所ではないでしょうか。

・戸締りというテーマと扉について

締めるだけが戸締まりではない、そして、戸締まりは、物理的な行為そのものだけではない、と私は感じました。

今作においてのタイトルは、なぜ「戸締まり」であるのか。

私的に端的にまとめますと
戸締まりとは、開ける、閉める、という二つの行為が合わさり初めて戸締まりであるのではないか、そして本作における戸締まりは、心の戸締りでもあるのではないか。
と、
作品内でのすずめが持つすべての内面的な変化、成長を、扉という表現で行うための「戸締まり」なのかもしれない、と思いました。
です。では、以下、書き連ねていきます

 本作は、すずめ、が全国各地にある「後ろ戸」という厄災が飛び出してくる扉を閉め、厄災を防いでいくというストーリーであります。そして、その厄災を防ぐうえで、あらゆる人に出会い、いろいろな問題に直面し、それを超えていくことですずめ自身が成長していく、という、彼女自身のストーリーも本作のとても重要な一つの要素となっています。

 もちろん戸を閉め、厄災を防ぐということはとても大事なのですが
「戸締まり」という観点からはどうでしょうか

戸締まりは、扉や窓などを閉める、というのが本来の意味ではありますが、扉が、閉まりっぱなしであったり、開けっ放しのみであるといったことは少ないと思います。もし開けっ放し、閉まりっぱなしなことがあれば、それはどちらの場合もその存在を忘れ去られた扉、それこそ廃墟にある扉などではないでしょうか。扉を開けて、閉めるという二つの行為を合わせて戸締りであると言えるのではないでしょうか。

私はここに、この作品の深い目的を見た気がします。開いてる扉を閉めるだけでは、戸締まりではないのではないか、と

 映画を見た方はわかると思いますが、すずめは、幼少期に、震災によって家族を亡くす、という、とても重い過去を持っています。映画の中では溌溂とした元気な子で描写されている場面も多くありますが、その反面、ときたま発せられる言葉や行動から見られるように、その過去は深く深く心の中で「閉ざされた過去」となっています
そんな閉ざされた過去を持つすずめは、自分の家族を奪った、震災と同じ類の厄災が飛び出してくる後ろ戸を閉めるために奔走します、が、しかし、少なくとも、序盤では、すずめ自身は扉の取っ手を掴んで、開けるという行為はしていないのです。
ただ、要石という、ある一つ、重要さに気づかず、なんだこれは、と軽い疑問を持ち、ひょいと持ち上げてしまった小さなことが、扉が開いてしまうきっかけとなり、またそれが厄災のきっかけになってしまったのです。

結局何が言いたいのか、ということですが、先に述べましたように、本作における戸締まりは、厄災を防ぐ、というダイナミックな役割を担うと同時に、戸締まりという行為を知ることで、すずめという、一個人の心を救う物語である、ということでもあるということです。

え?個人の心を救う物語?飛躍しすぎやんけ

と思う方もいらっしゃると思います。しかし、ここで思い出してほしいことが一点、本作においての時間観についてです。本作においての時間観は

扉の向こうには、すべての時間があったー

これがヒントになるのではないでしょうか、この言葉から少し考えるに、扉の向こうの空間は、映画でも描写されているよう、過去未来現在すべてが入り混じる場所、ととらえてよいでしょう。そしてここで今一度考えてみますと、過去、未来、現在すべてが入り混じうることができる空間は現実にありますでしょうか、廃墟でしょうか?
うーん、廃墟には過去と現在はありますが、未来と言いますと、?となる部分もあると思います。
ではどこか・・・頭を抱えて見たり、胸に手を当てて考えてみます。

ん・・・・?

そう、過去、未来、現在を集積できる場所、すべてを入り混ぜることができる場所、本作において描写される扉の向こう、という世界は、物理的に干渉できる、ファンタジー的な世界と描写されていると同時、心の中、記憶の中、のような用い方をされていると私自身は感じました
この世界で唯一、過去、未来、そして現在をすべてひっくるめて存在させられる場所は、心の中や記憶の中といった場所であると思います。

つまり、私が言いたいのは、戸締まり、という行為で描写されている扉は、心とその向こう側の境界を表す表現、「心の扉」としても、用いられているのではないか?ということです。

ここで今一度、戸締まりは、開き、閉める、という二つがあって戸締まりであるということや、すずめ自身の生い立ち、また、扉というものは、心の扉なのでは?ということをまとめて思い出してほしいと思います。

・すずめは、物語の序盤、ほんの少しの興味から(本当に興味の実ではないとは思いますが)、扉の近くにある要石をひょいと持ち上げてしまいます。これがきっかけで、扉が開いてしまい、開けっ放しになってしまいます、すずめ達はこのあけっぱなしになった扉を閉めるために全国を旅します。
・すずめは、小さいころに厳しい記憶を持っています。その厳しい過去、記憶のもととなるものは、扉の中から出てくる厄災と同種のものに起因するものです。
・扉は心の扉、扉の向こうは心の世界とも同義ととらえられる。とします。

ここまでをまとめて考えてみると


 小さなきっかけであったかもしれないですが、ひょんなことから開いてしまった心の扉から噴き出してくる、自分の過去に深く刻み込まれたトラウマ、それが、開けっ放しになった扉からごうごうと飛び出してくる。扉は開けっ放しでいいでしょうか、いいえ、閉じなければいけません。しかし扉は閉めっぱなしで良いでしょうか、閉じ込めたままでいいのでしょうか、いいえ、それでは、要石が外れる前の扉と何ら変わりありません。厄災が飛び出すことはないかもしれませんが、厄災があることすら認識できないことは、果たしてそれで良いと言えるでしょうか。それこそ作品でも頻繁に描写されていた、「忘れてしまうということ」ではないでしょうか。見て見ぬふりをすることは、果たしていい面だけでしょうか、後でも記しますが、トラウマを見て見ぬふりをして放っておいてしまうことは、必ずしも良いこととは限りません
では何が必要なのか。すべての時間を内包する、心というものの内でも、過去は過去とし、トラウマと向き合い、自分の心を自分でしっかりと自分のものにする行為、扉は開けっ放しでなく、閉めっぱなしでなく、必要な時に自分の力で鍵をあけ、鍵で閉めるという、自己のコントロールが必要になるのではないでしょうか


そうです、言い換えるならば

「戸締まり」

が必要なのではないでしょうか。

先にも書きましたが、廃墟にある後ろ戸の前で、草太が言います
「かつてここにあってはずの景色。ここにいたはずの人々。その感情。それを思って、声を聴くんだ──!」

これは果たして、扉がある、廃墟になってしまった、「そこ」にいた人たちだけを相手取ったものでしょうか。

うなりをあげて、うねりをともない、扉から飛び出してくる厄災、それに立ち向かう、すずめ、草太、彼女らが対峙してるのは、果たして厄災だけでしょうか、自分自身の内面とも、対峙しているのではないでしょうか。


すずめ自身が、「戸締まり」することに意味があるのではないでしょうか。

自分の心と向き合い、扉から飛び出すトラウマに対峙し、厄災がどのようなものであったか、そして自分がそのトラウマと一緒に封じ込めていたものは何だったのか、向き合い、成長し、克服していく、そこにこそ意味があるのではないか、と私は本作を見て感じました。


戸締まりは開け閉めといったけど、作品内だと大体閉じているだけじゃない?

と思った方もいるとは思いますが、すずめは、物語の終盤にかけ、扉の向こうに行くにはどうしたらいいのかと模索したり、扉の向こうに向かおうとします。
そして最終的には、すずめは目的を持ち、今まで閉めていく一方だった扉を自らの手で開き、扉の向こうの世界へ向かいます。そして、扉の向こうで代えがたい体験をしたすずめは、扉の向こうから帰還し最後に、扉を自分の手で閉めます。この、自ら開ける、そして最後にはしっかりと自分で閉める、という行為が、私にはですが、トラウマとしっかりと向き合うような行動、行為に見えました
扉という表現無くしては、この作品はできなかったのだと思います。扉という表現だからこそ、すずめは成長できたのだと思います。

ここでもう一度、タイトルを振り返ってみましょう


本作のタイトルは

「すずめの戸締まり」

です。
すずめ「が」ではありません。

すずめ「の」戸締まり

です。

彼女自身が戸締まりをするということ、そして、彼女自身「の」心の扉の戸締りをするということ
彼女が自分自身のいる世界を受けて入れていくには、彼女自身が、「戸締まり」という行為を身につけなければならなかったのではないでしょうか

作品内でのすずめが持つすべての内面的な変化、成長を、扉という表現で行うための「戸締まり」なのかもしれない、と。

ただ、最後に、付け加えておきたいのですが、「戸締まり」が、映画の中の、大きくなったすずめの、ごくわずかな時間で完結しているのではなく、幼少期からの12年間、しっかりと周りの人に支えられたり、愛を受けたり、しっかりとすずめの心の柱がはぐくまれたからこそできたこと、というのは忘れないでおきたいところです。

扉を、厄災が出てきてしまう閉めなければいけないもの、ととらえると同時に、心の扉としてもとらえてよいのではないか、と、私は初回鑑賞時にふと感じました、という話、こんな解釈もあっていいのではないでしょうか。

QK

続きます、小休憩しながら読んでください
トイレ休憩です。
ちなみに映画を見る前に大福を食べるとトイレに行きたくなりづらくなるらしいですね、炭水化物の消化に水分が必要になるからだとか。
私は今回おにぎりを食べていきました、おいしかったです。


・戸締まりを、心に対しての行動としてとらえてみる
~トラウマの掘り下げ、すずめの死に対する考え方、自らの受容~

すずめの培ってきたすべて、記憶、受け取った愛、すべてが心という空間に内包されている。今作の美しさはそこにもあると思います。

さて、前のトピックで、戸締まりは、心に対する行為でもある、と述べました。本作品における戸締まりという行為は、心の成長等を表すことでもあるのではないか、と。

 これらをもう少し詳しく、トラウマというもの、心という観点に焦点を当てて、本作品をとらえてみます、まず、本作品においての、すずめの心を見つめるためには、トラウマ、というものをとらえておくことはとても大事だと思われるので、少し記しておきたいと思います。

心的外傷(しんてきがいしょう、英語: psychological trauma、トラウマ)とは、外的内的要因による肉体的及び精神的な衝撃(外傷的出来事)を受けた事で、長い間それにとらわれてしまう状態で、また否定的な影響を持っていることを指す

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E7%9A%84%E5%A4%96%E5%82%B7
wikipedia/心的外傷より引用

幼少期、災害によって家族を亡くしたすずめは、心に深い傷を負います、日記帳を黒く塗りつぶしていた描写から見られるよう、その思い出自体がトラウマとなっていたことは明らかです。作品内では、朗らかでありつつ、元気なように描かれているすずめですが、過去の体験が深くすずめの中に根差していることが明確にわかる言動があります。
そのうちの一つとして、作品終盤、故郷へ向かうすずめが、開けた田園風景の中で、芹澤(草太の友人)と言葉を交わすシーン

「ここってこんなにきれいな場所だったんだな」
という言葉に対して放った

「ここが、きれい?」

という言葉
小説では、序盤に学校で開いてしまった後ろ戸に挑む際、明確に自分の内面に存在する恐怖感等に立ち向かうような描写が、一人称視点で描かれているのですが、ここは言葉のやり取り、すずめの表情も相まって特に映画でもわかりやすい描写でありました。そしてこの言葉の亜やり取りを行った時、すずめの心の中に浮かんでいたのは、日記帳に描かれた、黒く塗りつぶされたトラウマと共に記憶した景色でありました。

視界が開け、何もないとも思える広い空が広がる景色は、すずめにとっては、災害がすべてを奪って、更地になってしまった恐ろしい景色と重なって見えていたのです。

 このように、現地での恐怖、壮絶な体験をしていない人からみれば、きれいな景色であっても、衝撃的な体験がトラウマとなり、その体験を基準として世界をとらえてしまう、似たような場面などがそう見えてしまうということは、大きな、衝撃な体験をした個人には特別なことではなく、どんな人でも起こりうることで、特に近年では、東日本大震災が起こった時、このトラウマの取り扱い、も取りざたされていた覚えがあります。

すずめも多分に漏れず、その大きな記憶を抱いていたということ、幼少期に経験した災害は、深くすずめの心に根差しており、大きくなった今でも、今だ深く心の中にその傷はあった、と言えるでしょう。

 また、すずめの死生観にも、震災体験が強く影響を与えたことが受け取れ、作中の行動の説得力につながっていると思います。
すずめは作中で「死ぬことが怖くないのか」と問われたとき「怖くない!」と即答、なぜ「怖くない!」と答えたのかは、終盤、草太の祖父との「常世」について問われたときの返答から、顕著に見て取れます

「生きるか死ぬかなんて、ただの運なんだって、小さいころからずっと思ってきました、でも・・・」

と答えます

(でも、の後には、草太さんがいない世界が怖い。と続くのですが、少し横に置いておいて)

 過去の強い体験が、すずめの死生観にとても大きな影響を与えた結果である言葉のように受け取れます。
 すずめの言葉を含めて、本編でのすずめの行動を振り返ってみると。とてつもなく無茶をしているのです、18歳の少女がするには、これでもかというほど無茶をしています。
 人間の精神は、行動に出るといったことが、本当によく表現されているのですが、この、生きるか死ぬかは運、という考えが、本編でのすずめがかなり無茶をする理由になっているのでしょう。
 この、生きるか死ぬかは運、という考えのもと、いつ死んでもおかしくないような行動をするすずめではありましたが、この死生観無くしては、戸締まりもできなかったと断言できるため、トラウマの悪影響というよりも。すずめ自身の体験においては、むしろ良い影響、トラウマが根差した心であっても、しっかりと12年生きてきた含みがあったからこそ、そしてそこに、草太という助力があったからこそ戸締まりができた、と言っても良いでしょう。それでもかなりギリギリですが。

 続いて、心の問題の解決においては「自らの受容」というものが、とても大事になってきます。トラウマに限らず、この、自らの受容、というものをしていくうえで、個人は、自分の過去と向き合い、過去の一時点の記憶から、しっかりと現在までをつなぎ合わせ、過去は過去であることを自覚しながら、かつ現在を現在とし、切り離すわけでもなく、自分の内面で共存させる、ということが重要になってきます。

つまり、過去の自分も、今の自分も受け入れていき、前に進む覚悟を決める、ということが大事だということです。

 このことを含めて、本編と照らし合わせてみますと、先に書いたことと重複はするのですが、作品全体が、彼女、すずめのトラウマを、扉を戸締まりするという行為を通して、克服、成長していくような物語というものに、説得力が沸いてくるように思えます。

 本作品の扉は、心の境界を示す、その向こう側の時間はごちゃまぜである、ということを踏まえて、本編を考えてみますと

 序盤から中盤にかけての噴き出す厄災を封印するという戸締まりは、自らの心の中に根差すトラウマを自覚し、向かい合い、どうしたら戸締まり、という行為ができるのか、という、いわゆる「慣らし」にも見えます。草太という、心強い助力もあり、しっかりとここでトラウマと対峙できます。トラウマを飼いならす手法を、草太が教えてくれていたとも言えるでしょう。いや、教えてくれたというよりかは、作中の描写を見るに、二人で、ともに、しっかりと向き合えた、といった方がいいでしょうか。

 そして、終盤、すずめは一人になってしまいます。私はここで胸打たれました、いままで二人で対処していたトラウマに、一人でしっかりと向き合わなければならないのです、心細さ、一緒にいてくれる相手がいなくなっても、自分が、トラウマに立ち向かえるのかという不安感は、推し量ることができないほどであったと思います。しかしながら、すずめは強い意志を胸に、一人でもそのトラウマに立ち向かうことを選びます、心の境界である、扉の向こうへ行こうとするのです。泣きました。ピエン

そして最終盤、すずめは、扉の向こう、常世で、迷い込んだ幼少期の自分自身を見つけ、抱擁し、勇気を授けるような言葉をかけます。泣きました。パオン

 これ、この抱擁の一場面こそ、先に書いた、「過去は過去であることを自覚しながら、かつ現在を現在とし、切り離すわけでなく、自分の内面で共存させる」、「自己の受容」行為、そのものだと思うのです
扉は、心の境界、という話をしました。つまり常世は心の中と形容できるでしょう
 常世に迷い込んでしまった過去の自分は泣いていたのです、過去と現在、未来が入り混じる、扉の向こうという、心の中ともいえる場所で、幼少期の一点の時間軸であるようにおもえたそれは、すべてが入り混じる空間では、ずっと泣いていたのと同じなのです。
すずめが大きくなっても、ずっとずっと心の中には、泣いている幼少期のすずめが居たのです。その空間の中で、大きくなったすずめは、母親を探し、迷い込んでしまった子供の時のすずめを抱擁し、勇気を与えます。
泣きました。ウォォン

 小さなすずめを抱擁し、勇気を与えた成長したすずめは、自己の内面にずっと迷い込んでいた、幼少期の自分を見て、過去の黒く塗りつぶされてしまっていた部分、トラウマというものに塗りつぶされて隠れてしまっていた部分を思い出したのでしょう。常世という、扉の向こう、心の中にいた小さな自分、悲しんでいる自分を抱擁したことで今度こそ、すべてのトラウマを克服したのでしょう。

そして最後、「いってきます」といって扉を閉じます


すずめは、トラウマを自分の一部分として「自己を受容」し、しっかりと「行ってきます」と、再出発をしたのです。扉の中のことにとらわれることなく、進み始めたのです
戸締まりをし、行ってきますといったのであれば、あとは、おかえりなさい、の一言です、旅を終えたすずめに向け、現世にいるすべての人、ものが言うでしょう。道中でお世話になった人たち、叔母さん、学校の友人、そして、世界、そして、自分自身にも。



QK

作品を見終わった後、涙をぬぐいながら、心の中で

完璧だろうが・・・・ッ!!!!おいッ・・・・・!!新海!!!!!俺は・・・・・・・お前を・・・・・・・・・!!!!!お前が・・・・・・・・!!!しゅき!!!!!!!!!
と、劇場内で私は平静を装いながら悶えていました。

 いや、好きな監督というフィルターこそあれど、このテーマをしっかりとらえ、個人で違うであろう解釈の幅を狭めることもなく、広げすぎることもなく、アニメーション映画というものに納めたこと。本当に美しく尊い行為であると感じました。ほんと、いい作品でした

ポタクの妄言続きますよろしければお付き合いください。

・芹澤という男、不干渉と無関心、踏み入らないということの重要性

この男の距離感、本当に見習いたい。

 作中、草太の友人、という形で、芹澤というクソイケメンメガネ野郎が出てきます(こいつすき)
 この男、一見ひょうひょうとした男としても見られるのですが、物語後半で、いなくなってしまった草太を探す、という自己の目標解消のため、すずめが草太のもとに向かうのであれば、俺も行く、ついていく、そのためであれば車を出す、と、すずめの向かう目的地に、自分の車にすずめを載せて同行してくれるという、一役を買って出てくれます。

 すずめを見つけたときに発した「すずめを探していた」という、一言から分かるように、自分にも利益があるから、この行動、役割を買って出てくれたのでしょうが、それにしてもすごい男です。会話の中、数時間はかかる、ということが判明したときでも一瞬狼狽はしたものの、「まじかー」の一言、そして「今日中には帰れねえな」と吐くものの、そこで中止をすることなく、すずめの行動計画に賛同し、行動を共にします。

 この行動が何とも素晴らしく、次いで、道中でもたびたび出るイケメンポイントに、なんやこのメガネ・・・と、しゅきになってしまった人は多いでしょう。

この芹澤、物語が終盤に差し掛かったところで出会い、すずめに助力するのですが、そこまでの演出も秀逸でした

 東京での厄災を抑えるために草太とすずめ奮闘し、すずめは無茶をして傷だらけになってしまいました。
 その傷ついた姿で、東京内を移動するシーンがあります。このシーン、東京に至るまでの道との対比なのか、東京までは、困ってそうなすずめに声をかけ、助けてくれる人が登場し、役目を果たそうとするすずめを応援、協力してくれる人が登場してたのですが、関心はありつつも声をかけ、力になる、といったことはなく、心配するそぶりこそあるも、実行はしない、という人が場面の中で描かれています。

そんな場面を経た後に再開する形で登場するのが、コイツ、芹澤です、コイツほんま・・・

東京の人は、不干渉でした、決して無関心ではないのです、しかし、手伝い、助力といったものは、干渉せずしてありえません。

そこで、こいつ、芹澤です、コイツほんま・・・・

 芹澤は、干渉はします、しかし、無関心なのです、無関心という一言で片づけると語弊があると思うので、分解しますと、関心こそあるものの、内面には不干渉という形をとるのです。踏み込まない、といった方がいいでしょうか。あくまで自分も草太を探しに行く、行き先が同じで、目的が草太であれば、自分も助力する、ということで助力をしてくれる。
 しかし、草太のように戸締まりを直接的に手伝ったりするでもなく、トラウマティックな部分に過度に足を踏み入れるでもなく、といった距離で、立ち回ります。
 これが、本当に素晴らしく、絶妙で、嫌みがない。タマキさんや、すずめの、少し重い部分も、芹澤の言葉を借りるのであれば「闇が深ェ」という部分も、無碍にしないうえで、ちゃんとした態度で接しようとする。とっさの判断ではあるかもしれないけれど、そこに、めんどくさいという個人的感情を介入させ、表に出すといったような、嫌な対応はしない。行動一つ一つに善意や悪意をひけらかすことはなく、あくまで自分で起こす行動であるというスタンス、それが人のためになる男。こいつほんま・・・

 この過干渉せず無関心、しかしながら、助力はするという立ち回り、人間関係上で、この立ち回りができる距離にいることは難しいのです。少し踏み込めば近しい距離に、しかしながら踏み込まねば遠い関係、距離、と、本当に絶妙な距離感。それを芹澤という人物はやってのけるのです。この、無関心だけど、過干渉しない、という人間を自然に描くことは難しいと思うのですが、道中での言動、行動から、しっかりと、あ、こいつはこういう行動ならするわ、と納得させる描写が、これまた上手いのです。
正直、こいつがいないとこの作品成り立ってないんじゃないか、と思うぐらいに、本当に絶妙なキャラクターなんですよ。芹澤
こいつほんま・・・・・
しゅき

 特に行動としてわかりやすかったのが、SAで、すずめにひどい言葉をかけてしまったと後悔するタマキさんの独白を受ける場面、慌てこそするものの、しっかりと心配する姿、用意に体に触れない紳士な部分、ソフトクリームという、自己を満たすアイテムをおとし落胆するも、しっかりとタマキさんを心配、そして、「闇深え・・・」という一言でまとめて深く立ち入ることはしない。

こいつほんま・・・・
イケメガネがよ

・すずめが主人公であるということ  作中の出会いについて

主人公というのは、時には助け、そして時には助けられる存在として、多くの作品でよく描かれます、今作の「すずめ」という主人公、そしてその周りの、出会った人々も、助け助けられる、ように描かれていたと、僕は思います。



今作のタイトルは「すずめの戸締り」であり、すずめ自身が困難に立ち向かいながらも、しっかりと前に進んでいく、そして自らの人生を歩んでいく「準備を完了させる」映画だと思います。しかし一人で物語をはじめ、ひとりですべてを終える作品は多くないと思いますし、ひとりで完結させることはできません。この作品も、主人公であるすずめが多くの人をたすけ、そして、助けられて出来上がった作品であると言えるでしょう。

ここまで、すずめとその内面、すずめ自身の救済については記しました、ここからは、すずめは助けられるばかりでなく、同時に助けていたんじゃんじゃない?という観点からも記していこうと思います。

 作品内の、「助ける役割としてのすずめ」として、わかりやすい描写として、厄災が出てくる扉を閉め、厄災を防ぐという役割を担うすずめ、この点をみると、すずめが、強く「助ける側」として描かれていることがわかると思います。
 もちろんこの、戸を締めるという役割を遂行するという、とても重要な役割で描かれているすずめですが、この大きな役割以外でも、ちょくちょくと助ける側、として描かれてる部分はあるなと感じました。直接的な「物理的に助ける」という表現もあるのですが、それと同じように、「内面的に助ける」といった表現、これもうまく描写されているといってよいでしょう。
作中の順を追いながら、あらすじをまじえ、出会いや内面的な部分に対する感想を記していきたいと思います。

・千果との出会い 


 序盤、千果と出会うとき、みかんが荷台から零れ落ちてしまうのですが、ここは草太の機転でありつつも、ミカンが坂を下まで転げ落ちるのを防ぎます。これは直接的な、助ける、といった形ですね。そしてこの出会いの後、後ろ戸を締めるため、廃墟になってしまった集落の中にある学校へ向かいます。この後ろ戸ができた学校は、千果の母校であったものの、災害によって集落ごと廃墟になってしまったという背景があります

 その廃校に向かうため、千果はスクーターにすずめをのせていってくれたのですが、このときの千果も、決して軽い心持ではなかったことは、想像に易いと思います。災害の、一部分であったとしても、自分が体験し、その災害を味わうこととなった土地に自分から向かうことは、少なからず不安感や恐怖感を伴うはずです。
 のちのすずめの会話からも見られるように、千果は、「久し振りにあそこへ行った」と言っています。すずめらが後ろ戸を締めるため、もし廃校へ向かうことがなかったのであれば、きっと千果は廃校に行くことはなかったのではないでしょうか、その後の展開からもわかるよう、すずめを集落前まで送っていってくれるだけでなく、すずめが戻ってくるまで待っていてくれていることもうかがえます、自分がいた土地を、災害を味わった土地に近いところで、この待ち時間の間、しかも、不安感も募るであろう、暗くなっていく時間帯、この待っている時間、千果も千果で土地について思いをはせることもあったのではないかな、とも思いますしっかりと過去と対峙した時間が、そこにあったのではないかな、と、私は思いました
 後ろ戸を締めた後、すずめは、千果の、おそらく実家である民宿にお世話になります、このとき、千果の、始めてできた彼氏に対する愚痴を、すずめが聞くシーンがあります。これがまた、とてもよい、この愚痴というのは、家族にはうんざりされることもあり、また学校や友達観でも、小さいコミュニティの間で、声を大きくして話せる場面は、そうないでしょう、そこで、すずめとの出会いです。言いたいことを、ちょうどよい距離感で話せる、外部のコミュニティから千果のいる土地に来たすずめだからできる役割なのです。軽く、とても朗らかに描かれていた場面ですが、私にはそこに描かれていた空間とやり取りが、とても尊いものに見えました。これも、ひとつ、すずめが、彼女を「助けた」と言える場面ではないか、と思いました。
 そして布団でよこになりながら話し合うシーン、これもまた良い、すずめはこのとき、初めて自分で後ろ戸を締めた経験の後でありました、自分が行った行為が、果たしてどのような意味があるのかわからない、まだ戸締まりに対しての、自分のスタンスが固まっていない時のシーンであります。この時の会話の中、千果は、すずめに何のためにあの廃校へ行ったのか、と問いかけるシーンがあるのですが、すずめはその理由を濁します、しかしそこで、千果は
「あんたはなんか、大事なことをしとるような気がするんよ」
と言います。
おそらく、この時のすずめは、大いに助けられたことでしょう、自分のやったことの理由も、本質もわからない、けれど今、自分は何かしらに立ち向かっていこうとしているのではないか、と漠然とした不安感と期待感で、うまく言葉にできない、到底すべてを言葉で言い合わらせるものでは感覚を、千果が「大事なことをしとるような気がする」と一言肯定したのです。これは本当にとても大きいように思えます。この言葉がきっかけで、おそらくすずめは強く自信を付けれたのではないでしょうか前を向いて進める理由、その一つが生まれた、生んでくれた千果には、「助けられた」と言えるのではないでしょうか。

・ルミさんとのであい


 四国で後ろ戸を閉じた後、ダイジンをおってすずめらは神戸に向かおうとします、その道中、田舎のバス停で立ち往生してしまったすずめたちを、「ルミさん」が車でピックアップをしてくれました。もうこの時点で親切さがわかりますね。
ルミさんはスナックを経営する、おそらく「シングルマザー」です。
このルミさんも素晴らしく、すずめは、車に乗せてもらったお礼としてルミさんの家の手伝いをすることになります。このルミさんとの出会いも、旅の中ですずめを成長させた一要因になっています。

 子守りのシーンでは、子供の無邪気さ、遊びにおける、傍若無人さに手を焼き、自分には子供を扱うのは無理かもしれない、と思う一片もあります、しかしその大変そうなすずめの姿を見かねた草太が、椅子の姿ながらも、仕方ないなと力を貸して、助けてくれます。

 ここの力を貸してくれる場面ですが、この作品では、戸締まりという、力を合わせるイベントがメインになっている傍ら、力を合わせて日常のいっぺんに対処する微笑ましいすがたが描かれており、二人の関係性を固める作用を持ちつつ、地のストーリーを一層素晴らしいものにしています。本当にこういう細かい描写が素晴らしい。尊い、しゅき。

ちょっとそれましたが、この子供たちの子守りをする場面、小説版の方でのすずめは、いつかこの椅子になった草太さんを交えた4人での時間が、朧気であったとしても心に残ればいいな、とすずめは回想しています。
 この、子供たちと遊ぶという場面、もちろん子供たちのため、ルミさんのためになったのはもちろんですが、すずめが子供時代を思い出すきっかけの一助にもなっているのではないでしょうか、すずめが子供たちにおもったように、きっと亡くなった親もすずめのためを思い、遊んでくれていたりしたはずです、そのやさしさ、有難さ、そして大変さを含めてすずめが実感することで成長につながった、助け、助けられているとても良い場面に思えました。

 ルミさんの家、店で、子供の子守りをする場面もですが、少しながら大人の視点につながっていく場面が、このルミさんとの出会いで重要であったと言えるでしょう。
 子供の子守りの後、お店の手伝いをする場面があります、ここもまた、大人の視点につながる場面でしょう、バイト経験として、純粋な労働体験としてももちろんですが、スナックの中にある、大人たちが作り出す空間の中ですずめが感じたものは、形容しがたい、そして何事にも代えがたい貴重なものになったでしょう。

 大事なのは、このルミさんとの出会いで、多少なりとも大人の大変さや、子供を抱えるということの大変さを味わったことであると思います。突飛な行動力で家を出てきたすずめ、大人でも子供でもない、境界線に位置している年齢であるすずめですが、いっぽ大人の世界に踏み出すような描写一気に大人になるのではなく、大人の世界にすこし身を置くという描写、ストーリー全体の中でも、この場面はとても重要な役割を担ったのではないのではないでしょうか。
 そして別れの場面でもそれはあります、ルミさんが自分の帽子をすずめに預ける場面、ある意味形見であり、すずめを自分の子供のように扱った証拠でもあります。ルミさんは子供がいる親、自分が監督するべき年齢の子が、知らない土地で何をしているのかわからない、すずめの叔母であるタマキさんの不安感は嫌というほどわかるでしょう。
別れ際の、「親御さんにはちゃんと連絡するんよ」という一言から、すずめの実をあんじるだけでなく、親御さんの気持ちを汲み取ってるのもうかがえます。

家のことを手伝うといった、実際のたすけにもなりつつ、おそらくルミさん自身の親心の再確認にもなったでありましょう。

・ 草太という人物について、彼もすずめに救われたという話

悲しい運命のもとにあろうと、人生を呪わずに済むには、誰か大切な人がいる、それがあれば本当に充分なのかもしれないと思いました。

・草太と閉じ師という運命について

 すずめとともに旅をし、戸締まりをしていく草太、この作品のもう一人の主人公ともいえる彼、本作のあらゆる場面で活躍し、旅の行程の内で、すずめを助ける、とても心強い味方であった彼。
 しかし、彼もまた、すずめを助けるばかりではなく、すずめという主人公に助けられていたと言えるでしょう。彼の心の扉を開けたのは、きっとすずめだったのだと思います。

草太という人物について、少しまとめようと思います。
 草太は、全国を旅しながら、廃墟にあらわれてしまうという、その土地を鎮め、厄災を未然に防ぎ、もし後ろ戸が開いてしまった場合には、その扉を閉めるという、閉じ師、という仕事をしている青年です。
閉じ師という職業は、作内の描写からみられるよう、厄災、土地神という、とても大きなエネルギーを対象に一人で立ち向かわなければいけないため、とても危険な仕事であります。
 おそらく、彼はすずめに会うまで、そして椅子になるまでは、自分一人でこの危険な役割を担ってきたのだと思います。物語終盤で、彼の友人である芹澤が言った「あいつは自分の扱いが雑なんだよ・・・・」という一言から日常の中でも、無茶をするような人、自己犠牲を前提で動いていた人であったことがうかがえます。
 この、自己犠牲を前提として動いてしまうという草太の行動、作中の行動はまさにその通り、見ればわかるほどのレベルで描写されており、学校の戸締りをする際も、危険だと思えば、自分は渦中に即座に突っ込んでいくのに対し、すずめには「君はここで帰りなさい」言っていましたし。遊園地のシーンでは、ダイジンを追いかける、ジェットコースターのコースを走り、そして大臣に飛びつくという、彼自身の身体が椅子であったからいいものの、イス出なかったらどうだったか、というほどの、危険な行動をしています。ともかく、すずめ同様、無茶をしているのです。

 この自己犠牲、無茶をするスタイルは、閉じ師という、世界においての役割を持つ個人に、運命として焼き付けられているものなのだと思います。

 すずめが、草太の祖父を訪ね、草太が要石になってしまった、草太を助けに行きたい、その方法を知りたい、といった会話のやり取りの中、要石になった草太について言いました。
「あなたにはわからんだろうが、それは人の実には望みえぬほどの誉れなのだよ」
と、そして要石と化した草太をみみずにさし、厄災を防いだすずめにこうもいいました
「そうか、それでよいのだ!あなたがささなければ、昨夜、百万人が死んでいた、あなたはそれを防いだのだ。そのことを一生の誇りとして胸に刻み、口を閉じ─」
「もと居た世界に帰れ!!」


 閉じ師とは、おそらく常にこの、いつ自らが犠牲になるかもわからないということ、大きな厄災により、多くの命が失われてしまいそうなことがあったときには、自らの命をとしてでも、それらを守らなければならないという使命のもとで、草太という人間は人生を過ごしてきたのだと思います。見えないところで役目を遂行し、見えないところで人間世界、現世の柱となる、そういう役割が、自分にはあると。 この考えが根幹にあるとすれば、草太の行動すべてに納得がいきます。私には、世界における、この、「閉じ師」という草太の役割が、とても悲しく、救いようのないものに思えてしまいました。一生、現世の人と全く同じ世界には、住めないという悲しさ。本当に胸が締め付けられるような思いを、この時に感じました。そら、ああなるわ。と。

 そんな運命のもとの草太ですが、椅子になり、すずめとかかわっていくうち、だんだんと自分が要石という役割であるということ、そしてすずめとの旅で自分という存在が変わっていくことを自覚していったのではないかと、そう思います。

・草太の葛藤と草太自身の人生について、出会いによる変化



 作中、椅子になった草太自身の夢のようなものの描写で、だんだんと暗闇にのまれていく描写があります。
これは、だんだんと草太が要石となっていってしまう描写でありつつ。草太が死という、自分の終わりをじわじわと実感し、そして受け入れていってしまう描写にもなっています。そして、そこで草太は、自分の役目を自覚しつつも、それらを受け入れようと、自分が犠牲となり、世界の平穏を保つという役割を受け入れようとします。微睡みと似たような感覚で、運命を受け入れようとする草太でしたが、すずめが草太にキスをしすることで目を覚まさせ、現実に引き戻します。 
 原作では、キスを受けて起きる前の描写、波打ち際のドアの前で氷におおわれていく草太に、すずめの声が聞こえてくる場面、死をほぼほぼ受け入れており、自分を逝かせてくれないその声に、苛立ちを覚えている描写があります。この苛立ちから分かるように、彼は実のところ、自己犠牲が大前提とされている自分の人生自体を半ばあきらめており、要石になるという運命を受け入れかけている状況であったのだと思います。
ああ、もう逝かせてくれよ、と。迷ったり、自己犠牲の人生を歩むのは疲れたよ、と言いたげな苛立ちだったのではないでしょうか。

 この後、自らが要石であることをはっきりと自覚してしまう場面

「すまない、すずめさん」
「ようやくわかった、今まで気づかなかった、『気づきたくなかった』」
と、自分が要石だと自覚してしまった草太は
「ああ、これで終わりか」
「でも、俺は」
「俺は君に会」
と言いながら、彼は完全に要石となってしまいます。

これらの言葉から分かるよう、要石は、自らが要石になる、自覚、その運命を受け入れるという条件が必要なように思えます、(つまり要石ではなくなるには要石は嫌だと思うことも重要?)そして、最初の、
「すまない」
の部分、おそらくこのすまない、は、大前提として自己犠牲があった自分の人生、自分が、閉じ師というものでなかった、自己犠牲なんてない人生であったら、そんな人生であったなら、そうであったなら、「すずめさん」をこんなことに巻き込まずに済んだのに。自分が自己犠牲のない人生を夢見て、「自分として生きたい」と願わなければ、「すずめさん」に要石である自分を刺させるなんてことをさせずに済んだのに。「自分は要石になることを受け入れてしまった」


と、あらゆる申し訳なさを含んだ謝罪といったところでしょうか、拡大解釈ではあるかもしれませんが、大きく外れてることはないと思います。

どう考えても草太は悪くないにもかかわらず、「閉じ師」という自己犠牲が本文ともいえる、世界における役割の上で、自分が犠牲となることを即座に受け入れなかったことに対しての謝罪でしょう。
そして

「ああ、これで終わりか、こんなところで」
「でも、俺は」
「俺は君に会」

の部分、クライマックスにも続くこの言葉の部分ではありますが、彼は、閉じ師、というものが、大事なものであるということ、自己犠牲という悲しい運命の上に立っていたとしても、素晴らしいものである、ということをすずめとの旅で実感し、閉じ師である自分の人生を受け入れられた、そしてそのことを心の中で感謝をしたのだと思います。

 先に書いた、草太の祖父が言っていたよう、閉じ師とは自己犠牲を前提として成り立っているような職であります。
 閉じ師という運命をたどってきた草太はおそらく「生きたい」という感情は、自らの「欲」のようなものであると思っていたのだと思います。犠牲になるべくしてなる、自分はそういう存在である、とずっと思っていたのでしょう。これは、自分を受け入れるということではなく、自分の「生きたい」を否定し、自己犠牲の運命を受け入れているようにも思えます。
しかし、
「これで終わりか・・・こんなところで」
から分かるように、彼は、自己犠牲に納得しつつも、まだ続きを望んでいます。「こんなところで」と言ってるところから、まだ完全に要石になることを受け入れていないことがうかがえます。それもそのはずで、ここで、彼自身、やっと「生きたい」と思う自分を受け入れられたからではないかと思います

 すずめと旅をする以前は、閉じ師としての運命をただただ背負っており、先に書いたように、生きたいと願うことは、閉じ師の使命に反してしまうのではないだろうかと思っていたのだと思います。何かあれば、自分は犠牲にならなければいけないから、その時には、生きたい、と思う感情は足かせになる可能性があるからです。生きたい、と思う個人的感情を先に置いてしまった場合、果たしてどうなるか、何十万、何百万という犠牲を生む可能性を前にしたとき、個人的感情を表に出して行動してしまった場合、どのような結果を生んでしまうかは、想像に易いと思います。そのような運命を背負っていたのが、閉じ師という役割なのでしょう。

しかし、すずめと出会い、旅をする中で、自分が閉じ師であるということ、すずめといっしょに戸締まりを経ていく中で、自分のやるべきこと、やらなければいけない使命は、誇りだかく、誰にでもできることではない、それこそ、自分にしかできないようなものであると思えたのではないでしょうか。

そして、閉じ師として、運命を背負ったうえで、生きたいと思ってはいけないと思っていた自らの過去を振り切り、その運命を背負ったうえでも生きたいと思ってよい、そして、生きたい、と思えたのではないでしょうか


彼の言葉は、クライマックス、すずめが要石になった草太を、助けようとする場面に続きます。

俺は君に会えたから
君に会えたのに
消えたくない
もっと生きたい
生きていたい
死ぬのが怖い
生きたい
生きたい
生きたい
もっと


 草太は、自分は閉じ師であり、守る側の人間、自分以外が犠牲になるのであれば、自分が犠牲になればよい、ずっと一人で、そうあればよい、と思っていたのではないでしょうか

  すずめも言っていたように、生き死には運だ、と、それを受け入れて、ただその運に身を任せる人もいるかもしれないです。すずめに出会う前の草太は、まさにそうだったのではないかと考えています。

 しかし、すずめや、草太は出会って、変わったのだと思います、すずめは、小さいころ家族を失った経験から、生き死になどは運だ、と、草太は、生き死には自分が決めるものなどではない、と、どちらも共通するものとして、人生は不安定な運命の上に立っているという考え、実際そうかもしれないけれど、生き死にが運や運命の上にあったとしても、「いきたい」と願うことは、誰も否定ができるものではないそしてその理由は、大切な人がその世界にいる、それだけで本当に充分だと。変化していったのだと思います。

 すずめの死生観というのを、前の方に記しましたが。クライマックスに向け、すずめ、草太の死生観というものが、がらりと変わっているとも思います。そしてそれらが変わるということは、各々の成長でもあり、また、そこから新しく、一新した価値観で人生を自らの足で歩んでいく、出発の機転にもなっていると言えるのではないでしょうか。

 そしてもう一つ、草太の変化がとても伺いやすいように思える描写は、最終盤、要石となった草太を、すずめが引き抜こうとする場面、草太は、波打ち際の扉の前で、体を氷に覆われた状態で、椅子に座った状態で動けないままいる描写があります。
まさにこれは、すずめと出会う前の草太の心の状態を表しているように私は見えました。椅子に座った状態、体を氷におおわれてしまっていては、自らの意思で立つことも、歩き出すこともかなわない、しかし、すずめと出会い、すずめという存在が、自らの精神に微かな熱を持たせることで、心の氷は融解していく。扉の向こうから、すずめが扉を開け、手を引いて、草太を扉の向こうへ引っ張り出すように見える場面。
 すずめが草太に与えた微かな熱は、草太自身の中に大きな熱を与えることになり、自分のまとっていた氷を溶かし、そして、すずめの力を借りながらも、椅子から自分の力で立ち上がり、世界へ飛び出していく

 この描写、本当に素晴らしく思いました。膠着した人の心を緩めるのは、人一人との出会い、体験を通せば十分だし、固まって、動けないような状態であっても、きっと、すずめのように手を伸ばしてくれて、少し力を貸してくれるような存在がいれば、その凍って固まってしまった心というのは一個人の中にとてつもない温かみを帯び、纏った氷を溶かしていく。そんな描写に見えました。
自分の思う人生を、生きることをあきらめざるを得なかった、草太が、この場面、しっかりと動き出したように、生きはじめたように思えて、泣いてしまいました。ウオォォン

 すずめの成長、すずめの内面的な変化、死生観の変化、自己の受容といったこともあげつつ書きましたが、それはもう一人の主たる登場人物、草太においても例外ではなかったように思えます
彼もまた、作品の中で成長し、内面的な変化を起こし、死生観を変化させ、自らを受け止めたのだと思います。
すずめを助けるかっこいい椅子姿の草太は記憶に残るところですが、草太もまた、すずめと同じく助けられていたのだと思います

 自分は、ラブストーリーというより、共依存か?と穿った目で見てしまいましたが、振り返ってみると、そういう形容すらおこがましいようにも思えるし、完全にラブストーリーでもあるんですよね。ラブストーリーのようなもの、といった方がいいかもしれませんが。
 自分にたくさんの変化、それも前に進むポジティブな変化を与えてくれた人間、好きにならないわけないっちゃろ 

ぼくも ふたり すき。

QK

もうすぐ公開から一週間、なんだかんだで書き連ねて、まだ記事を表に出せてないんですが・・・・

ただこの作品に思いをはせたり、少し考えてみたり、どんどんと感情が沸き上がってきて、とてもいい作品だったんだなと、常々思いだしています。
これから何度も見ることにはなるとは思いますが、いまはこの自分の中に生まれた感想、感情をここに書きなぐりすること、それが楽しく思えますね。

ウォ

・環さんと、すずめ、血がつながっていなくとも。

 作中で、すずめの育ての親として登場するタマキさん、過保護のように見える一面はあるものの、すずめをとても大事に思っている、すずめからみて叔母さんに位置する人です。この方もまた素晴らしい。

東京からもうすでに合流していた、環さんに憑依していた?おそらく、親が合流すると同時、ダイジンの親だったのかもしれない、ダイジンを運んでいる描写からも、親子のような描写が強く見受けられる。最後の常世で戦うシーン、見る目が変わる、ダイジンのために、ダイジンが役割を見つけるために、戦っている親のようではないかと。ダイジンは、猫ではなく、ネコマタ、人に化けれる描写からも、ただの猫ではなく、ネコマタであろうことがうかがえる
また、東北にはしばしば猫を敬う文化があり、今回の作品の主なテーマとなる地が東北であることから、ダイジンに猫の姿が起用された可能性はある。
とうきょうのかなめいしはだれがぬいたのか、すべてがつながってるとしたらば、草太さんが抜けたから、すずめが草太さんを抜いたから?なのか、ループしている可能性はある。これだけはダイジンが抜いたのか?神性を宿した世界線の



 震災から12年、環さんは、九州ですずめと過ごし、血がつながってないながらも、おそらく彼女なりに、すずめに愛を注いだことでしょう。序盤に描かれている、家の壁にかけられたすずめとの写真からも、それが見受けられます。小さいポイントながらも、すずめの好き嫌いを把握していたりする場面も、とてもいいですね。
 旅の道中、すずめとの会話やLINEでのメッセージとのやり取りからもわかるように、少し過保護のようにも見えますが、親心、またおばさんとしての立ち位置を考えると、仕方のないように思えます、震災があった後、母を探し、雪が降る中飛び出していったであろうすずめ、そんなすずめを、雪が降る中奔走し、やっとみつけたであろう環さん、おそらくこう思ったでしょう。親を亡くしたこの子には、きっと私しかいない、私しか、この子にはもういない、と。「この子の近くには、私がいてあげなければならない」と。

 過保護になってしまうのは、ここがキーにもなっているようにもなっているようにも思えます、最終盤、すずめとの口論で心情を吐露する場面があるのですが(この場面では環さんの意思かは微妙な描写ではありますが)。この描写からもわかるように、すずめと暮らした12年間は、環さんにとってとても重要なものであり、また、すずめの近くには私が居なければならない、と思い続けた、愛と共に、責任感を抱え続けた12年間であったとも推察できます。
 すずめと過ごした12年間で、おそらくですが、すずめの近くにいるということ、すずめを一人にしてはいけないということ自体が、自身のアイデンティティであり、崩してはならない部分だといつの間にか思うようになっていたのではないでしょうか。道中、すずめに対して送ったメッセージなどは、12年間守り続けた自分自身の根幹的部分を、今回のすずめの家出という事件で、何か揺らいでいしまうのではないか、と、無意識ながらも思ったのではないでしょうか。そのための行動が、作中に見られる、おせっかいとも思えるほどの、メッセージなのではないのでしょうか。

 そして、この責任感といった部分から、人生そのものを、環さんがどのようにとらえていたかということも考えられると思います。先に草太に関する部分でも書きましたが、自分自身が何かしらの使命や役割を背負ったとき、自分自身が生きたい、と思っている人生からずれるということは大いにありうることです。環さんも、おそらくそうだったのだと思います。
 すずめを受け入れるということは、すずめを守るという使命感、親になるという役割を背負うということ、すずめを抱きしめたときは「この子のために生きよう」と思えたのでしょう。しかしながら、やはりその感情は時を経るにつれ、形を変え、そして出発地点を「忘れてしまう」ことも大いにありえます。
 すずめと環さんが、己の心情をぶつけあうシーン、本心ではない、勢いで行ってしまったようにも見えるシーン。やり取り自体は省きますが、このシーンで見られる言葉のすべては、12年間、確かに環さんが心の中にひそめていたものであり、環さん自身自覚していたものだと思います。

 このシーン、明確に環さんが、腕を組むシーンがあります、腕を組む、という行為は、自分自身を守りたいという防衛的な意味合いを持たせ描写される場面が、多くの作品で見られます、この場面も多分に漏れず、そうなのでしょう。
 12年間生きて来た自分を無駄にしないためにも、自分を守るために、否定したくないがために、自分が過ごしてきた12年間を盾にし、自分を正当化して、すずめを傷つけてしまうかもしれないような言葉を放とうとしている自分を認めたくない、すずめを傷つけてしまうかもしれないような、自分の内面を言葉にして投げかけることによって、自分自身も傷ついてしまいたくなかったのだと思います。ひどいようにも見えますが、しかしながら、その感情を抱くことは、仕方がないようにも思えます。
このシーンは、どちらの気持ちも、すべてを言い表せないような気持ちも伝わるシーンであり、見ているこちらも心を締め付けられるような場面でありました。

 環さんの言葉の奥に見られるものとして、彼女は、すずめに嫉妬をしていた部分もあったかもしれないとも思えます。自分は12年間すずめのために使ってきた、だのに、すずめはひょいと、自分の足で、自分の意思で、12年間共に過ごしてきた私から遠いところに行こうとしている、と。離れられなかった私には、その軽さで移動できる、あなたが少し妬ましい、と。そう思うこともあったのでしょう。それが、言葉にも、そしてメッセージを通したやり取りにも、ついてくるという選択をとった行動にも見受けられるように思えます。あなたが、あなたがいないのであれば、私はなんなのだと、自由になるあなたを、縛りつけておくことは、悪いことだと思うけども、12年間は、こんなにもあっけなく霧散するのか、と。恐怖感もあったのだと思います

 環さんがすごした12年間は無駄でしょうか。もちろんそんなことはありません、12年間しっかり過ごしたことははたから見たら、それは無駄になどなっていないことは明らかですし、其の12年間の愛があったからこそ、すずめが戸締まりの旅を完遂しようと、完遂できそうなのは、目に見えて明らかなのです。しかしながら、当人から見ると、そうではない、すずめの存在は、環さんの12年からみれば、自分の子供であり、自分が守るべき対象であり、しかし血がつながっていない関係でもあり、気を遣う相手でもあり、それはそれは、すべてを言い表す言葉などないほどの存在だったのだと思います。言ってしまえば、環さんの12年間のすべてが、すずめだったのです。そう考えると、環さんの心情が、どうしようもなく伝わってくるようでした。

 最後の後ろ戸に向かう際、自転車ですずめを後ろに乗せ、自転車をこぐ環さん、もうここでも自分はボロなきでした。 汗をかきながら、自分と、もう一人、すずめという大きな存在を(決して重い形容しているわけではありません)うしろに乗せ自転車を一心不乱にこいでる姿は、おそらく12年間そのものなのだろうな、と、様々な思いを胸に秘めながらも、それでも、やっぱり大切であることには変わりなく、大切だから、自分が大変な思いをしても、すずめという大事な存在がいたから努力、頑張れた部分はあったのだろうと、この自転車のシーン、サービスエリアでのやり取りを含め、放った言葉
ぜんぜん、それだけじゃないとよ
という言葉、もう説明や考察、補足などいらない、純粋な環さんの心情がそこにあります、そしてすずめも、この言葉だけで十分だったのだと思います、私の文でも書いた、12年間、という期間を表す言葉だけでは形容できない含みが、そこにはあるのです。きっと、環さんも旅を経て、すずめ、草太らと同じよう、自分の人生を再出発したのではないでしょうか。
 環さんは、すずめとの12年間を環さん自身が受け入れ、前に進んでいけることでしょう。

 補足:このあたりを書き終えるぐらいにTAMAKIという楽曲が劇中で使用されず終わったということを知りました。名曲すぎるので聴いてください・・・。

ただ劇中でなぜ使用されなかったか、という点ですが、理由はわかりません、しかしながら、楽曲を聞いてみていただけるとわかると思うのですが、モロに環さんの心内描写等を含む楽曲になっています、かけるとすれば自転車の後ろにすずめをのせて走るシーンなのかな、と思うのですが、この楽曲をかけることで、その場面が説明臭くなりすぎてしまうようにも思えました。もしそのような理由なら、劇中では流さず、OST等には収録する、という手法はかなえり功を奏したのではないかな、と思います。先の文中にも記しましたが、「ぜんぜん、それだけじゃないとよ」の一言であえてまとめる、ということが、あの場面では大事なように思えます。
ただ、名曲であることにはまったく変りないので、まだ聞いていない方がいたとしたら、マジで聞いてください。

 QK 本作品について思うこと

 本作品、容赦のない震災描写等から、賛否両論ありますが、私自身は、3.11の時、テレビにて黒煙の上がる映像を見ていた側の人間でした、そして、この映画を見て「思い出す」側の人間であったことを、とても悔しく思いました、悔しく思ったのは、その震災という事象が、私自身の中で、遠い昔の思い出の中の出来事となっていてしまったからです。映画内でも描写されているように、当事者として震災を体験した方々は、今もなお心の中に震災と記憶がはっきりとあることでしょう。それこそ「思い出す」というより「今もなおある」といった形で。
 本作品を鑑賞したことで、あらゆることに申し訳なく思うと同時、そういう事象があったことを忘れてはならないと、強く強く思いました。
あらゆるところで、「今放映されていることに価値がある」と評価されている今作ですが、本当に、今、あれから12年がたとうとしている今放映されていることに価値がある映画だと思います。そして、出会えたことに感謝したいです。誠君、ありがとうね

・ダイジンという存在について考える、ダイジンについての個人的感想と考察


物語の要石、そう形容するしかないように思えるキャラクターだと思います。大好きや

・ダイジンというキャラについての個人的感想

 本作に登場し、すずめ達を翻弄するような役として登場する猫、ダイジンま~~~~~たこのキャラがよ~~~~~~~~~~できとるんじゃ
いやほんとよ~~~~~~~できとる。素晴らしい!!!!!!

 最序盤は敵のように描きつつ、道中は敵とミスリードさせる立ち回り、そして最後は彼らを、彼らの世界を救うためにも活躍するという、なんとも素晴らしいキャラ。ほぼ主人公と言って構わないレベル、

 ひょうひょうと、それこそ猫のように気分のままに立ち回らせることで、視聴者側のミスリードを誘っているのが素晴らしい、素直に感情をあらわにするところも素晴らしく。それこそ作中で描かれているよう、まだ子供ような言葉遣い、そして自由奔放な行動。
作品の本筋にかかわりつつ、展開を濁らせつつ、自分の存在に疑いを持たせる、いやキャラクターとしての要素がとてつもなく詰まってるんですよね、このキャラクター、行動が突飛なようにも見えるのですが、作品を通してみると、しっかりと行動の根幹は揺らいでないし、目的も揺らいでないんですよね、いや本当にこのキャラは素晴らしいと思いました。

 途中までマジで悪役のように思えるのですが、これは子供であるがゆえに、言葉足らずで伝えたいことが伝えきれない、というのが原因であったではないでしょうか。作品内で明確に言われてるわけではないですが、子猫のような体を持ち、子供ような声で話す、といった表現から、要石になった時点では、人間だったかどうかこそわかりませんが、年端も行かない少年や少女であったのではないかと思います。

続けます。


・ダイジンは何者であったか、描かれ方と考えたこと。


 ダイジンは、なんとも言い難い、子供のような言葉遣いをするキャラで、容姿はまさに子猫、自由奔放に見える部分も子猫のように思えます。作品内で、物語のキーを握るキャラとして描かれており、悪役のようにも見えましたが、その実、すずめの手伝いがしたかった、それが自分の使命であるかのように、自分の純粋な思うところにのっとって行動していたことが発覚するキャラクターです。すき。

なんで猫だったの?

 なぜ猫なのか・・・?というところからまずは、考えてみようと思います、これ明確に元ネタがわかるわけではないのですが、実は九州には猫にまつわる言い伝えがあります。日本には三大猫騒動というものがあるのですが、三大の内二つが九州地方に伝承されているものです、そのこともあり、本作の、土地を鎮める、弔うといった設定に合わせ、猫という容姿での起用になったのではないでしょうか。
 猫騒動だけではなく、本作品の舞台のうちの一つ、東北にも猫に関する伝承文化があるようで、猫の形を石に堀り祀る、といったもので、養蚕文化が盛んだったときに栄えた文化だったそうです。そしてその、猫が刻まれた石碑や石像というものがよく見られるのが、東北地方とのこと、猫…石碑、石像。これらもダイジンが猫の姿で起用された一つに理由なのではないでしょうか。

 また、猫には猫憑き、といったものや、ネコマタ、猫神など、あらゆる神話伝承的な扱いをされている一面もあります。特に憑き物に関していえば、環さんにサダイジンが乗り移っていたような場面もあるので、このあたりの伝承などを加味して猫にした可能性もありますね。これは卵が先か、鶏が先か、のような論にはなるのですが、作中で、「神の本質はきまぐれ」とのセリフもあることから、気まぐれな動物の代表としてよくみられる、猫のような容姿になったのかもしれませんね。新海監督は、土地柄等を大事にしているような点がかなり見受けられるので、まず第一にすずめのモチーフであるアメノウズメ伝承、天岩戸がある九州、といった流れを大事に、そこから練り上げた可能性の方が強いようには思えますが。


ダイジンとはいったい「誰」なのか、要石を交えて。


最序盤、要石となっていたダイジンが抜かれるシーン、自分は劇場でこのシーンを初めて見たとき

(え、これどう見ても水子地蔵的なアレでは・・・・?)

と思ってみてました。
実際のところは水子地蔵かはわかりませんが、これは大きく外れてないようにも思えます。

 まず、ダイジンを語るうえで、要石という要素は外せないので要石に置いて思ったこと、考えたことを。
要石というものは何か、少し引用してみます

かなめ‐いし【要石】 の解説
1.茨城県鹿島 (かしま) 神宮の境内にある石。根が深いところから、地震をしずめるとされる。
ある物事の中心となる重要な場所や人など。「医学界の―として重きをなす」 
石・煉瓦造りのアーチの最頂部に差し入れて、全体を固定する楔形 (くさびがた) の石。
キーストーン。剣石。楔石。囲碁で、彼我の攻防の要点を形成する重要な石。

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%A6%81%E7%9F%B3/
goo辞典、要石より引用

 以上が一般的な「要石」の定義ですね。目を通してもらえばわかる通り、まさにその通り、自身にも関連するし、作中の物事の中心にもなっています、そして、差し入れる、くさび石、と。何も言わずとも、まさにその通りにきれいに作中に用いられていると思います。
 今作においては、おそらくここに、人柱的な意味も組み込まれているように思えます。草太の祖父、羊郎も言葉にしていた
壮太はこれから何十年もかけ、神を宿した要石になっていく。現世の私たちの手は、もう届かん」
「あなたにはわからんだろうが、それは人の実には望みえぬほどの誉れなのだよ。草太は不出来な弟子だったが─そうか、最後に覚悟を示したか・・・・」

 この言葉たちから分かるように、要石というものは、「ある」ものでなく、人間か、動物か、はたまた植物か、おそらく「成る」ものなのだと思われます。
 作中で草太がダイジンの手によって、要石の役割を押し付けられたように、要石になることができるのは、前の要石であった存在のものが、継承の意思をもって継承「させる」ことが必要なのではないかと思われます。
 しかしながら、誰でもよい、というわけでもなさそうで、要石というものの役割がわかるもの、でないといけないとも考えられます。羊郎の言葉や、草太の言葉からうかがえるように、何かが要石になるには、覚悟を示し、要石になると、自らが受け入れなければないのではないか、と。

 これを踏まえて考えると、要石の重要性がわかり、それを大事な役割と受け入れることのできる人物が、元要石のダイジンであろう、と考えられます。
 ここでダイジンの言葉遣いやふるまいを振り返ってみると、子供らしい言葉遣い、自由気ままな行動、善悪の判断がついていないような言葉選びと行動。そして、序盤や、すずめへの執着から見える、母性へのあこがれ
このことから、ダイジンの正体は

この世に生を受ける前に命を落としたが、水子として信仰等を集めた子
または
閉じ師の家系に生まれ、要石の重要性を教えられ、要石になることはとてもえらいこと、という考えがあった子。

といったような属性を持つもの、または、それに類似した属性を持っていたヒトではないかと推察できます。

 羊郎の言葉から考えると、要石になるには期間が必要であり、その間、おそらく要石の重要性がわかる人達に祀られたり、土地に対する信仰を集めたりすることで、神性を宿し、要石となるのでしょう。
信仰という条件が重要視される場合、この世に精神性を持つ前に、現世で亡くなった場合でも、要石になれる可能性はありそうです。

 自分が水子なのでは、と思ったのは、ダイジンが、すずめに、「うちのこになる?」と聞かれ、その後も「すずめの子」になろうとしていた点、「子になる」ということへの執着が見られるからです。

 私の中で引っかかったのは、最終盤でダイジンが言葉にした「すずめの子にはなれなかった」という言葉です。これは、もちろん、頑張ったけれど、すずめの家の子にはなれなかった、という純粋な意味にもとれます。
しかし、これは「すずめの子に、なりきることができなかった」とも取れるように思えました
子になれなかったとは、どういうことか
将来、すずめは、おなかの中に生を受けるも、その子は、この世に生を受ける前に、他界してしまったのではないか、と、
そんな風にも思えてしまえました。ネガティブすぎますかね。
こじつけかもしれませんが、この考えの余地はあっても良いと、私は思います。
 また、最序盤、すずめが要石ダイジンを持ち上げるシーン、何かに訴えかけられたようにも見えたのです、いや、だって、普通拾いあげないですし。しかしながら、不思議に思いながらも、すずめは拾い上げた、あのシーンが、水子だと思うと、なぜだか泣きそうになってしまいました、原作だと明確にすずめ自身が「お地蔵様?」と要石のことを捉えている描写があります。
 その後、ドクン!!と要石が脈打つシーンですが、あそこは、実はダイジンがこの世に初めて生を受けたような、そんなインパクトがあるシーンなのではないかと、そんな風にも見えました。
え?いや、時間軸的におかしくないか????と思われるかもしれませんが、少し思い出してほしいのが、この作品の時間観です
「扉の向こうには、すべての時間があった」
この時間観、過去現在未来が入り混じる時間観。
 未来の命が要石となり、また過去の命が要石となりうる、そして現在の命すらも要石になりうるのではないでしょうか。

 じゃあ、信仰的なものが重要だという話はどうなるんよ?
これはこじつけに近いのですが、これはひとえに、ダイジンになる前の誰か、に対する愛、ではないかと思います。水子になろうと、生まれるはずだったいのちを尊ぶことができるのはだれか、その存在を忘れず、祈られ続けることがあれば、その命が、神性を帯びるのは、自然なようにも思えます。

またこれは余談っぽいのですが、純粋に、一般的に言う水子地蔵の大きさが、要石状態のダイジンと同等に見えるんですよね。


両手でしっかりと抱えられるほどの大きさ、かわいらしくもありますね/wikipediaより


 これらを踏まえて見ても
あれ?要石になるには意思が必要、という点に関しては?
これ実は、作品全体でループしてるのではないかと思うんですよね。
 時間観てきには、すべての時間がぐちゃぐちゃでも構わないわけで、これは仮説にしかなりませんが、ちょっとこのループ説について考えてみると。

未来の一時点、ダイジンが神聖を帯びる、要石となる
→要石になった瞬間、というのが、最序盤、すずめがダイジンと出会った時点
→ダイジンが要石から、ダイジン、となる。
→旅を経てダイジン自身が自身の重要性を知る
→ダイジンは要石になることを受け入れる要石となる
→すずめの旅が終結、日常へ
→すずめの未来にて、のちにダイジンとなる子が生まれる
→…最初へ
とループしている可能性はあるのではないか、と。

 ダイジンは、すずめとの旅路を経た後、最終的には自分の意思で要石になることを選びます。そこから未来へ時間軸を移し、未来へ、後ダイジンと呼ばれることになる子が生まれ・・・・と、ダイジンが覚悟を決めたあたりからループのようなものが出来上がり、タイムパラドクスが複数世界線をまたぎながらも浮かび上がってくるのではないでしょうか。
実際新海監督の作品には、SF要素が多く盛り込まれており、今作においてもそれは例外ではなく、このダイジンまわりの設定等にも使われている可能性はあるのではないでしょうか。わたしは一仮説としてはこれらはありうるものだと考えております。

時間軸的には、未来が過去に影響を与えても何らおかしくないのが本作品の時間の捉え方なので、可能性としてはあるのかなあとは思います、けどもこのループだと、あの世界の要石が、ずっとダイジンになっている可能性があるので、かわいそうな憶測にはなってしまいますが・・・。


ダイジンはなぜ子供という仮説がたてられたのか、母性への執着、草太が椅子にされた理由

 さてループ仮説で少し横にそれましたが、なぜダイジンが子供であると推測できるのか?という点においてもう一つ付け加えておきたいことがあります。それが「ダイジンの言葉遣い、行動、そして精神性」です

 言葉遣いという点においては、先に書いた部分もありますが、まず語彙力、簡単な語彙でしゃべり、複雑な言葉はまるで使っていない、要石になるとそうなるのか?というのは、草太さんが要石化してからも、言葉遣い等の変化は特にみられないことから、要石化することが幼稚な言葉遣いになる条件でないことは明らかです。
 要石化する時点でそもそもそのような語彙を用いて会話をする年齢であった、または人間界の語彙を持ち合わせていなかった可能性があります。
 そして、行動、自由奔放とも見える行動をしていたダイジン、実のところ、すずめの案内役として行動していたのですが、物語全体を見て見ると、「すずめとのコミュニケーションが図りたかった」のではないかと思えます。
そしてそこで働いている「精神性」ですが、ダイジンの言葉遣い、行動やを見る限り、人間それ自体の命の重さというものへの理解が乏しいように思えます、ダイジンの視点にたってみると、後ろ戸というところに案内すれば、すずめに会え、会話もできるのです。そして災害でひとがしぬことは、「すずめと会話ができる理由のひとつ」でしかなかったと考えられるのではないでしょうか。草太のような青年であったり、またそれより幼くとも、命の重要性が多少わかるような年齢であれば、作中で見られる
「ひとがいっぱいしぬねえ」
といった言葉、作品では邪気がこもってるような演出もありますが、なんだか純粋に楽しんでいるようにも思えます。
ひとがしぬ、厄災が起こるということは一般的には悪いことですが、ダイジンにはその概念が生まれていなかったのではないか、と。その概念が自己の内面に生まれる前に要石となったのではないか。と推測できます。
それこそ、現実の子供たちにもみられることですが、アリの巣に水を流し入れたり、自然界に生息する生き物たちに、危害を加えることがあります、これは親や大人から見れば、確かな残虐性をもっているように見え、そしてそれを怒り、注意などをします、そしてその段階を経てやっとそれが悪い行為であるということを学んでいくのです。
 ではダイジンは、と考えると、その行為が残虐性を持っているかどうかは判断できていないように思えます。
人が死ぬことは、悪いことではなく、自分にとって利益があること、すずめとコミュニケーションが取れることであり、それはいいことである。と考えていた可能性はあります。これはだれからもいのちの尊さを学び得なかった、ダイジンの悲しい側面のようにも思えますね。

 そしてもう一つ、ダイジンの草太への嫌悪感です。この表現、いろいろと思うところ、考えるところはあるのですが、その中からいくつかを。
 一つは、ダイジン、すずめ、草太という、この三人をある種家族のようなものであるととらえた場合に導かれるものです。
ダイジンを子供とする仮説に基づくものではありますが、子供というものは、ある時、片方の親に強い執着のようなものを持ち、また片方の親に嫌悪感等を覚え、またそれを行動に移す傾向がある、といったものです。
 心理学用語等でいうような「エディプスコンプレックス」といったものです。現代で通じる概念かと言われると微妙なのですが、結構いろいろな作品で見られたりするものです、いかに少し引用します。

精神分析学のフロイトが用いた語。男の子が無意識のうちに同性である父を憎み、母を性的に思慕する傾向。また、女の子が母を憎み、父を思慕する傾向をあわせてさすこともある

https://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%97%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-445518#:~:text=%E3%80%98%E5%90%8D%E3%80%99%20(%C3%96dipuskomplex%20Oedipus%20complex,%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%8C%BA%E5%88%A5%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%82
コトバンク/エディプスコンプレックスより

 後者はエレクトラコンプレックスと言ったりもするのですが、それは少し置いておいて、このエディプスコンプレックスは、言い換えるとすれば
「母性への執着」
とも言えるでしょう。

これを作品と照らし合わせてみると、なんというか、いろいろな行動や言動がそのようにも見えてくることはあるのではないでしょうか。草太への嫌悪感や忌避感ともとることのできる行動や言動は、先にも書いたように、すずめへの愛着、そして独占したいという行動にも思えてきます。
「やっとふたりきり」
といったセリフがあることからも、すずめを独占したいという、子供らしいような本心が垣間見えるようにも思えます。


このことから、ダイジンはもともと子供であった、という仮説はある程度固められるのではないでしょうか、確証こそうまれはしないものの、こどもらしさ、というものを少し捉えなおしてみると、仮説をある程度固める程度にはなっていると思います

草太が椅子にされた理由

 作品内で、草太がなぜ椅子にされたのか、これも憶測でしかないですが、おそらく
「椅子でなければならなかった」
のだと思います。ダイジンは草太を椅子にする際
「おまえは じゃま」
と言って草太を椅子にしています。

先に書いたように、もちろんすずめを独占したいから、ともいえるのですが。作品全体を振り返ってみると、この物語は草太が椅子であったからこそ、すずめという存在が旅に出て成長できたと言えるでしょう。
そのため、最初の時点では、草太という存在はもちろん大事ですが、すずめが「思い出の椅子と一緒に旅をする」ことが大事だったのではないかと思います。

 これはパンフレットや入場得点にも書かれてたりしますが、新海監督はまず初めに、少女と異形が旅をする物語を書きたかったと、また少女と少女であっても良かったと。大事なのはおそらく、異形となる部分、すずめが力を貸さざるをえないような相手、といった部分であり、それに合わせて閉じ師という役割を持っていることが大事だったのでありましょう。

 つまるところ、椅子にされたのは、草太自身が邪魔といったことではなく肉体をもってして稼働できる草太では、ダメであった。といったことではないでしょうか。草太はすずめと出会うまで、椅子になるまでは、ひとりで全国を旅して、閉じ師としての役割を遂行してきました。そんな草太が、もし椅子にならなかったら、どうでしょうか。
そのまま草太が閉じ師として活躍して終わり、なのです。
今作は、すずめの戸締りであり、すずめ自身が戸締まりを通して前に進んでいくことが大事なのではないか、ということは先のテーマでも述べました。
すずめが、自身の思い出の品でもある椅子、と一緒に旅をすることが大事であって、その際、椅子ではない、人間である草太は、ダイジンのいうように「じゃま」であったのではないでしょうか。

これもまたコミュニケーション不足な感じが否めないですが、草太が椅子にされたのは、物語、すずめの成長を広い目で見たときに、椅子でない草太では不可能な役割があった、そしてその役割は人の身体を持った草太ではダメ、できないこともあり、そして、椅子でしかできないようなことも含まれていたからこそ、ダイジンは「じゃま」と、草太を椅子にしたのではないでしょうか。

ただこの仮説は、ダイジンが広い範囲で物事等を俯瞰してみていなければならず、子供らしさから少しかけ離れているようにも思えます。そのため、すべてを俯瞰してこの判断をしたことはあまり考えられず、やっぱり
「きまぐれ」
でこのような行動をして、結果的にそれが良かった、と考えるのが丸いのかな、とも思います。こっちのがダイジンらしいですもんね。

 ただ「おまえ じゃま」は、メタ的にも結構いろいろなとらえ方ができるので面白いのかな、と。そんなかんじです

 

ダイジンという、物語上の要石、すずめと環さんとダイジン

 ダイジンというキャラ本当に、この作品ではいなくてならなないとても素晴らしいキャラであることは間違いなく、ただただ意地悪な猫のキャラ、ととらえるには、あまりにももったいなさすぎると、私自身は思います。個人的には、ダイジンとすずめの関係は、環さんとすずめの関係に似たようなものも見受けられ、ダイジンもまた、すずめや草太、環さんと同じくして、旅を経て、自分の内面との向き合いを経て成長したような描写も見受けられます。

 まず、すずめとダイジン、そして環さんの関係の何が似ているか、というと、作品内の話でありますが、コミュニケーションの食い違い、といった部分が一つそれにあたるのではないでしょうか。すずめや環さんは、作品内、スマホでのメッセージのやり取りなどでのコミュニケーションなどはありつつも、本心からのコミュニケーション、というと終盤になってから、初めてそれらができていたようにも思えます。
 このコミュニケーションの食い違い、というのは、自らの立場、自らの感情、自らの生い立ちを含めた言葉のやり取りであるんですけども、自分の内面全てを言葉にして相手に伝えるというのは、どのような間柄であっても、そう簡単なものではありません。
自分が発する言葉が必ずしも伝わるとも限らない、そもそも自分の内面を的確に表す言葉なんてのは見つからない場合もあるし、表現できない場合もある。
 すずめと環さんにおいては、これらが思春期の子と、親という役割の人間、そして血がつながっていないという関係、震災で親を失ったという過去を持つ子への気遣い。といった場面が、コミュニケーションの相違を生んでいたのだと思います。
 そしてダイジンとすずめにおいては、ダイジン自体の言語化能力と、理解能力が、子供さながら乏しかったため、コミュニケーション不足が起こってしまい、すずめは自身のコミュニケーション能力や、言語化能力、立場等を多く加味した上でダイジンとコミュニケーションをとっていたため、相違が生まれてしまったと言えるでしょう。
 コミュニケーションの相違というと、とてもよく描かれていたのが、言葉足らずなダイジンです。ダイジンは実は後ろ戸が開いてしまったところへ案内する役回りではあったのですが。すずめはそんなことはつゆしらず、あなたのことは大嫌い、と言い放ってしまいます。
好きになってもらおうと、コミュニケーションをとろうとしていたダイジンは、から回っていたのです。そしてすずめはその本心がわからなかった、そして、ダイジンも自分のできる以上のこと、伝えたいことも言語化できずに噛み合わなかった。
この噛み合いの悪さは、環さんを交えた関係とも似たような感じがします

 環さんからすればすずめは、すずめから見たダイジンのようであったでしょう、言葉足らずで、自分本位のような行動にも思えるあれこれ、語ろうとしないのかできないのか、本位がわからない関係、そして言葉遣い。といった具合に。
 この描写が素晴らしく、環さん、すずめと、すずめ、ダイジンの関係は最終盤でやっと、しっかりとコミュニケーションの相違を解消します。

 作品全体を通して、この三者を含んだ関係は、行動や言動でから回ることはあれど、しっかりと向き合えば蟠りは解消できる、といったことがしっかりと描写されてるのは素晴らしいな、と思いました。また、自分の視点のみでいろいろと考えないこと、相手のことを思いやった行動や、言動はどれぐらいの年月が経とうとも、しっかりと身を結ぶ、といったメッセージ性があるようにも思えます。

ダイジンが最終的に要石になったということ、ダイジン自体の成長。


 ダイジンは、物語の最終盤、自分自らが要石になることを覚悟し、その道を選びます。しかしそこに至るには様々な場面を経ていました
 序盤、要石という役割から解き放たれ、ダイジンは世界をその足で旅します。草太がすずめと旅をしていたように、おそらくですが、ダイジンもともに旅をしていたような気分だったことでしょう。そんな旅の中で、ダイジン自身も成長していたのではないでしょうか。
続けます。

 最序盤から、中盤にかけて、ダイジンは実は要石の重要性がそれほどわかっていなかった可能性があります、それこそ子供の気まぐれのように、やーめた、と要石の役割をやめて、すずめと一緒に居たかったのかもしれません。
しかしながら、最終盤、ダイジンは自らが要石となる、と、意思を固め、厄災を止める役割を担います。これは、すずめが戸締まりを経るうち、旅路ともいえる行動をすることで、少しずつ要石の役割がわかっていったのでしょう。
 ダイジンは旅をしました、序盤では、話題になっていた可愛い猫として、すずめがスナックで働いてるときなんかは、ちゃっかり大人の世界にも入ってみたりなんかして。いろいろな世界を見たことだと思います。

 旅の内、ダイジン自身、自分の、要石の役割というものが確信に変わったのは、東京上空、要石になった草太をみみずにさし、厄災を防ぐ場面、このシーンが来るまでダイジンは、要石は草太がなってくれたし、このみみずを抑えた後は、自分はすずめとふたりきりになれて、楽しく過ごせる、とここまでは思っていたのでしょう。
 しかし、ダイジンが思う楽しい時間は来なかったのです。すずめにとっては草太がとても大きな存在であり、ダイジンが行った行動は、あまりにも、すずめにとって悪役めいたことだった。ダイジンの思うところと、すずめの思うところは全く違ったのです。すずめのため、と思っていたことや、自分が楽しめたことは、すずめのためや、楽しみにはなっていなかった
 ダイジンがすずめに、
「大嫌い」
と言い放たれる場面は、とてもいたたまれなく、とぼとぼとその場を去るダイジンの背中は、とても悲しげに見えました。
 そしてダイジンは、この、すずめに「大嫌い」と言われた時点で、要石が、とても大事で、厄災を止めうるという、要石の重要性を学び。そして、要石が厄災を止めること自体も大事ではあるけれど、厄災が止められた世界で、すずめが誰といることがいいのかといったことをここで学んだのだと思います。言語化こそできないかもしれないですが、きっと感覚で。子供の感受性は豊かですからね。
 そしてこれを学んだダイジン、最終盤すずめを扉の前に連れていきます、そこでコミュニケーション不足であった、双方のやり取りの食い違いは、すずめがその真意をくみ取ることで、やっとここで噛み合うこととなりました。
 その後、要石となった草太を抜く際、ダイジンも助力します。この時、ダイジンはいろいろ考えたりしたのでしょうか、でも、きっと、ダイジンは純粋なのです、おそらくですが、ただただすずめのために行動したのだと思います。すずめが、頑張っている、それの力になりたいきっとそう思ったのだと思います。

 そして、要石を引き抜くことに成功し、草太を人間の姿に戻すことがかなった後、力尽き横たわっているダイジンにかけよったすずめにこういいます
「すずめの手で もとにもどして」

ここで、しっかりとダイジンは要石になる覚悟を決めたのでしょう。すずめと一緒に旅してきた、ダイジンの旅、すずめや草太、街の人々を含めた旅は、ダイジンを要石という役割それ自体を受け入れさせるほどの成長をさせたのだと、この一言からうかがえます。

 他の登場人物同様、彼も成長していたのだと思います。それも、子どものような感性をもちながらして、自分の大事なことは何か、大事なものを守るためには何をすればいいか、そして、自分がどの役割を担えばいいか、と。

大人でも難しい、しっかりとした内面との対話を、ダイジンもまたしていたのだと思います。簡単ではない、難しいことです。それを、かれはやってのけた、その事実がとても尊く、悲しくもあります。

ダイジンというキャラクター、なんとも悲しい運命を背負っているような感じもしますが、それでもなお、彼は彼の人生、ニャン生でしょうか、を生きたという事実は揺るぎません。まだまだ書き連ねたいことはありますが、とりあえずダイジンについてのことはここまで

あらゆる要素を包含するダイジンというキャラ、好きにならないわけ・・・・ないだろうが・・・・ッ!!!!


 


・作中の表現について思うこと色々、考察とか感想

1.すずめの旅はなぜ九州からか?

 一番大きな理由として、九州には、日本神話における重要な物語がたくさんあること、そのなかでも、本作における「戸締まり」というテーマに近しいストーリーが存在する、天岩戸というものが存在することでしょう

 監督本人も述べているように、「すずめ」という名前は、「アメノウズメ」からとられています。アメノウズメというのは、アマテラスが天岩戸に閉じこもってしまったとき、その岩戸の前で踊ったりし、興味をひき、アマテラスを岩戸から引き出すきっかけを作ったと言われている、現代では、芸能の神とされている神様です。

 アメノウズメは、神話上、「戸を開ける」という大きな役割を背負っていました、戸締まり、だけでなく、「いってきます」を含むストーリーを持っています。

 戸を開き、出発するというテーマを多分に含む本作において、これ以上ない最適なモチーフであると言えるでしょう、新海監督作品においては、土地の伝承といったもの、その土地自体に何があったか等をかなり重視しているようなので、本作もそれにのっとって、九州の伝承を含む形で作られたのでしょう。

 また、震災等といった観点から、九州がなぜスタート位置か?と考えると、環さんの訛からもわかるように、環さんの地元が九州であったこともありますし、おそらくこの、環さんの故郷、地元、という理由がメインの理由ではあるとは思うのですが

 一つ、震災があった場所からすずめを遠ざける、という狙いがあったようにも思います。環さんが住み慣れた土地であると共に、震災があった東北からかなり離れた土地であるということは、すずめが日常の中で震災を思い出す機会を、多少ばかりであっても、減らしていたことでしょう
 そしてもう一つ災害繋がり、作品のテーマとして、災害、厄災が染みついた世界というものがあります、九州には活火山も近く、また風水害もそれなりに多い土地になっています。そのことから、しっかりと災害が土地に染み付いてしまっているといっても過言ではない土地なので、土地をしっかりと鎮める、という行為を大事にするストーリーにおいて、とても良いスタート地点ではあったのではないでしょうか。


 また、作品としては、旅路をしっかりと描ける、というメタ的な観点もあるのかもしれません。遠方から始まり、旅路を経て、確信に近づいていく、九州から東北という距離は、日本で描けるロードムービーの旅路としては、十分すぎますからね。

2.本作における、お彼岸とすずめの旅路、序盤の彼岸花

 さて、日本にはお彼岸と言う文化があります、春と秋にあり、どちらも春分の日、秋分の日を中心に、その前後3日間をふくむ7日間のことをお彼岸、と言います。お彼岸には春のお彼岸と秋のお彼岸があるのですが、秋のお彼岸には、実は明確に「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」というように定義されています、いや、モロやんけ!本作では、すずめが夏服であったことからもうかがえるよう、おそらく秋のお彼岸の方でしょう。
作品テーマにモロに合致してますね、新海君さあ・・・やるじゃない・・・・
 物語序盤、ときたま映る花がありました、本作を見た方はわかるでしょうが、彼岸花です。彼岸花は死者等をしのぶ花のモチーフによく使用され、仏教にも深く関係している花であります。花言葉は情熱・独立・再会・あきらめ・悲しい思い出・想うはあなた一人・また会う日を楽しみに、といったもので、偲ぶような思いが込められてるような花言葉が多いですね。そしてこの彼岸花は仏教用語で「曼殊沙華(まんじゅしゃげ)」と言います、彼岸花は、サンスクリット語では天界に咲く花という意味で、本来は、おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、という仏教の経典から来ているとのことです。

https://allabout.co.jp/gm/gc/220622/#3 様より

 旅が始まる前、そして旅が始まってからもうつっていることから、すずめの旅が、良い実を結ぶことは、序盤から示唆されていたといっても良いでしょうね。

 また、演出上のみでなく、設定としても彼岸花はいかされていると言っていいでしょう
 実は彼岸花、厄災とも関係があり、じつはもともとは飢餓が起こった際の備えとして植えられたという背景があります、彼岸花は毒を有し、基本的には触れてはいけないとされていますが、その球根は食すことができるようです、球根にも毒はありますが、水溶性のため、食べようと思えば解毒するなどして食べられるそうです。
 つまり彼岸花は、今作のテーマにおける厄災、という面においてもしっかりと関係のある花として、本作に採用されたのではないかと考えられます。
 そしてもう一つ、彼岸花は自生してはいるものの、日本にある彼岸花は受粉等では増えません、球根でのみふえ、自然界での分裂はあるものの、そのスピードはゆっくりです。
 現在は河川敷等にたくさん群生しているようにもみえる彼岸花ではありますが、もともとは人間が一つ一つ球根を植えたものであると考えられます(コヒガンバナという種類もあるそうなので一概には言えないですが)、そのため、飢餓を防ぐために植えられた、という、厄災のテーマにも関わりつつ、その彼岸花をもともと植えた人がいた、という、過去の人を偲ぶ、という点において本作のテーマに関係していると言えるでしょう。 ホエースゲ

彼岸花といった直接的な表現や、戸締まりという土地を偲ぶ行為からみても、お彼岸といった日本の文化が、今作に組み込まれているテーマの一つであると考えて差し支えないでしょう。
 さて先にお彼岸は7日間であると言いました、この7日間、という期間ですが、しっかりと、すずめが家を出てから、環さんとともに家に帰るまでの2日間を合わせ、7日間となっています。これはお彼岸のもうけられてる日数と全く同じのため、しっかりとこのお彼岸と言う文化を尊重するためであると考えられるのではないでしょうか。
 お彼岸と関連するのは、おそらく期間のみではありません、日本のお彼岸には、先に書いた、「先祖供養」の意味ともう一つ、仏教の修行として「六波羅蜜」の実践、というものがあります。
六波羅蜜についてはコピペになるので参考サイトを引用しながら、記させていただきます。


「六波羅蜜」は般若心経に出てくる「波羅蜜多」と同じ意味で、サンスクリット語の「パーラミター」を音写した語です。日本では「至彼岸」と訳され、大乗仏教における悟りの境地、すなわち彼岸へと至ることを表します。
「六波羅蜜」は、この世に居ながらにして彼岸に至るための6つの修行のことです。

布施(ふせ)波羅蜜:見返りを求めず、他人のために惜しみなく善行を施すこと
持戒(じかい)波羅蜜:戒律を守り、身を慎み、他人に迷惑をかけないこと
忍辱(にんにく)波羅蜜:身に起こる災いを受け容れ、耐えしのぶこと
精進(しょうじん)波羅蜜:誠心誠意努力を続けること
禅定(ぜんじょう)波羅蜜:常に静かな心を持ち、動揺しないこと
智慧(ちえ)波羅蜜:怒りや愚痴、貪りに捉われず、物事の真理を正しく見極めること
~~~
お彼岸とは、ご先祖に感謝を捧げるだけでなく、この世に生きる私たちがこの六波羅蜜を実践すべき期間でもあるのです。

https://www.forever-kato.co.jp/topics/?t=000079

 さて、こう見ると、物語にも重なっているように見えるではないでしょうか、すずめの戸締り、という作品を見ていく中で、この要素、ふんだんにちりばめられていたように思います。

一つ一つ取り上げるとまたそれは長くなってしまうので割愛しますが、本作品においては「彼岸」という文化を起点に、「偲ぶこと」というのをとても大事に扱っていることがうかがえますね。

 また、少し付け足すとすれば、彼岸の対義語として、此岸というものが存在します、此岸というのはいわば現世のことなのですが、彼岸と此岸をある程度言い換えたような表現が、扉の向こうとこちら、というようにあらわされてるかもしれませんね。

・劇中で出てくる蝶の表現、輪廻転生?


 
 本編でチラチラと出てくる蝶々、端っこでひらひら飛んでる、という感じではなく、もうマジででかでかと画面のセンターに描かれるカットが散見されました
この蝶々、モチーフとして、輪廻転生の象徴に良く用いられたりもしますね。西洋だと復活、再生の象徴として扱われたり、今作のテーマにも合致しているようにも思えます。
日本国では、不吉の象徴や前兆、死者の霊魂、のような捉え方が強いようですね

本作では、どちら片方、というわけでもなく、どちらも意味合いとして組み込まれていそうですね。
 まず、すずめらといった、本作に登場する人物たちの成長や、関係性、常世の概念等を考えると、西洋的な考えが入っていそうにも感じますし、災害や、過去の人を偲ぶ、という面を考えると、東洋のそれらとも合致しているようにも思います。
 蝶については諸説ありますが、どう見るかによって解釈は変わってきそうです。作品の全体的なテーマに対するメタ的な表現か、登場キャラクター的な存在ととらえるか、はたまたそれらを二つとも合わせたものか。いろいろといいとこどりすると考えると、どちらの要素も盛り込まれているように見えますね。
 メタ的な表現としては、それこそ先に示しましたように、本作の登場人物たちの今後の出来事を示唆するような表現
これから何か悪いようなことやいいことといった、何かが起こるといったことを示唆する表現。
といったところでしょうか、登場シーン的にもこのあたりの要素を盛り込まれての登場、と考えられそうです。

もう少しメタ的な視点を追加するとすれば、再生の概念、日本で言うと「輪廻転生」というテーマも関連ありそうです。輪廻転生を抽象的に考えてみると、表現的には「円」に近しいものになると思われます。ここで少し、実際の意味を引用させていただきたいと思います

輪廻(りんね[1])または輪廻転生(りんねてんしょう[2][3])とは、サンスクリット語のサンサーラ(संसार Saṃsāra[4][5])に由来する用語で、命あるものが何度も転生し、人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わること[1]。日本語読みのリンネは、連声によるものである[1]。「生まれ変わり」は大多数のインド哲学における根本教義である[6][4][7]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB

語義の変遷[編集]
サンサーラは原義で「さまようこと、歩き回ること」(saṃsarati)[6][15]を意味する。後代になると、「生まれ変わること」(punarbhava)だけでなく、派生的な意味で「世界」(loka)という意味を持つ様になり、「周期的な変化」との意味を暗に含むようになった[16]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
上記二つ、wikipedia/輪廻より引用

 作品全体のテーマも、死者を偲ぶといったこと、繰り返すといったことからも考えられるよう、ここらへんを全体的なテーマとして組み込まれてそうですね

 また、本作品では最序盤と最後、いってらっしゃいとおかえり、戸締まり、ダイジンの要石に関する部分、観覧車(?)最序盤すずめの地元にある廃墟、といったように、円状になっているものや、繰り返していると言える部分はそれなりに見受けられるように見えます。意図してそれらの表現を組み込んでいるとすれば、かなりメッセージ性の強い表現だと言え、劇中でかなり大事にしたい一つのテーマであることが伺えますね。

 そして輪廻転生としてこの蝶をとらえると、この蝶が何者かとして描写されていた可能性が出てきます
 考えられるのに一番近しいのは、作品に大きく登場した蝶が二匹であったことを加味してみると、想像の内では、すずめの両親説が無難な所なのかな、とも思います。
 明確に原作での記述があったり劇中での説明があるわけでもないので断言もできないですが、劇中では、最終盤のシーンでも登場しています。最後の後ろ戸を、すずめがあけ、その扉に飛び込んでいったとき、原作で環さんは、
「おねえちゃん──」「もしそこにいるのなら、お願い、鈴芽を守って」
と心の中で言うシーンがあります。
 このことを踏まえると、最終盤で見られた蝶々は、もしかしたら、というようにも思えますね
 ただこの両親説、父上に関する詳細が薄いため何とも言えないですが、結構固いのではないでしょうか、序盤、旅先、扉の中、すずめの周りを飛んでいると思えるその蝶たちは、すずめと旅をしたとも言え、きっとすずめの旅の行く先々で彼女を見守ってくれてたんじゃないかなあ、とも。

 輪廻転生的な意味合い以外にも新海監督という監督メタ読みをするのであれば、SF用語でいう、「バタフライエフェクト」的な使われ方はしていそうだな、と思いました。ここでバタフライエフェクトの意味を引用してみると

バタフライ効果(バタフライこうか、: butterfly effect)は、力学系の状態にわずかな変化を与えると、そのわずかな変化が無かった場合とは、その後の系の状態が大きく異なってしまうという現象[1]カオス理論で扱うカオス運動の予測困難性、初期値鋭敏性を意味する標語的、寓意的な表現である[2]
気象学者エドワード・ローレンツによる、「がはばたく程度の非常に小さな撹乱でも遠くの場所の気象に影響を与えるか?」という問い掛けと、もしそれが正しければ、観測誤差を無くすことができない限り、正確な長期予測は根本的に困難になる、という数値予報の研究から出てきた提言に由来する

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E5%8A%B9%E6%9E%9C
wikipedia/バタフライ効果より引用

簡単に言うと、最初に起こった小さなイベントが、その小さなイベントが起きた後、思わぬ形で後のイベントに影響を及ぼす可能性がある、といったところでしょうか。

このバタフライ効果、すずめの戸締り作品全体の展開を示唆しているようにも思えますし、登場人物それぞれの心内変化等をまとめて表しているようにも思います。ここは細かく掘り下げると、いろいろな解釈を広げられますし、おせっかいすぎるような記述になりそうですので、控えますが。少なくとも、この要素がすこしでも本作に盛り込まれてると言っていいと思ってよいのではないでしょうか。

 だから蝶なのだ、と、断言こそできないですが、少なくとも、劇中でしっかりと描かれていることから、なんとなくの意味を持たせただけの表現にも思えません、作品の創造神ともいえる新海監督の「きまぐれ」かもしれませんが、そうだったとしても、いろいろと含みがあっていい演出だなあ、と感じるばかりです。

・劇中に見られる椅子草太のアニマシー、椅子草太とすずめのコミュニケーション

 本作における特徴的な表現が、椅子になってしまった草太の、かわいらしいともいえる動作、や、その椅子になってしまった草太とコミュニケーションをとるすずめの描写です。

すごく雑な感想になってしまうんですが
この表現嫌いなオタクおらんやろ

と、まぁこの雑な感想は横に置いておいて、
 劇中で見られる椅子草太とすずめのコミュニケーションが実に微笑ましい、この作品、扱っているテーマがかなり重めなのは確かなのですが、コミカルに動く椅子草太が微笑ましく、作品全体を通して、かなりいい塩梅になっていると言えます、ほんとすごい。

 そしてその椅子草太「動く椅子」というこの表現、本当に感心しました。
心理学の用語で「アニマシー」というものがありまして、これは日本語に訳すと「生物性」といったもので、意志がないように思える物質などが、動いたりすることによって、まるでそこに意志や生命を感じる、といったものです。身近な例でいうと、あったかいものの上に乗せた鰹節が、踊っているように見えるのもそれだと言えるそうです。
 作品においては、生命が宿ってるともいえるので、一概に完全なアニマシーか?と問われると首をかしげざるを得ないのですが、この、アニマシーがかなりうまく表現されてるなあと思いました。確かに椅子なんですけども
「いや・・・これは・・・草太さんだわ・・・。」
と思えるような行動を描いてるのが、本当にすごかったです。劇場で初めて見たとき、本当に感動しました、ここまで「らしさ」を描けるか、と。

 廃校や遊園地のシーンは、なんだこのカッコいい椅子は、と思える圧巻のアクションシーン、椅子状態でなければできない無茶も垣間見え、これもまた草太らしさがうかがえる良い演出、このようなカッコいいシーンは勿論大好きなのですが、日常シーンでの椅子草太の、「らしさ」の描かれ方が、個人的にとても好きでした。
 
 序盤、椅子にされ、ダイジンを追いかけフェリーに乗り込み、一夜を明かし、寝相がわかるシーン、もうこの時点で、「椅子草太」というキャラに皆さんくぎ付けになったでしょう、キャラ付のインパクトとしても最高です。フェリーに乗り込むまでのキャットチェイスでのかっこよかった躍動感のある椅子はどこへ、一気にキュートな印象をここで与えました。めちゃくちゃいい。
 そして港につき、ダイジンの情報を得、出発するシーン、とてとてと歩く椅子姿もこれまたかわいらしい、そして急な場面転換、自分を放って出発しようとする草太をおそらく捕まえ、切符を買うシーン(電子カードにチャージするシーン?)ここですずめが、雑に椅子草太を持っているのが何とも。この前の描写から、草太はいくらでも暴れて逃げたりすることができるはずなのに、素直に暴れずに捕まってるのが、草太の優しさが垣間見えるようでとても良かったです

 廃校での一軒後、千果の家で食事をもらうシーン、ここがマジでよかったです。ほんとによかった。少女たちの会話を、男性の自分が聞き耳を立てるのは気が引けたのか、ここでそろそろと体の向きを壁の方に向けるのです
この表現がたまらなかったですね
「あ、紳士や・・・(トゥンク・・・)」
となりました。「草太らしさ」が垣間見える一幕として、本当に素晴らしい表現だったと思います。

 ルミさんパートでの草太さんもよかったですね・・・・車中でのコミカルさ、子供たちと触れ合う場面での、すずめとのやり取り、廃遊園地でのかっこよさ全てよかったです。そのるみさんパートの中でも印象的なのは、やはり夜食を食べるシーンでしょう。
壁際で一人佇む草太に小声で声をかけ、草太に座ろうとするすずめ。
オタクの僕は、この時劇場内で一番キモイ笑顔をマスクの下でしていた自信があります。
この場面、本当に良かったです。おそらくですが、二つの戸締りを経て、信頼関係を築いた二人ならではの表現だと思います。
まさに椅子という表現に合うように、この時点で「背中を預ける仲」になったという表現ではないでしょうか。すずめも、自分の恋心の確信を、このあたりで持てたようにも思えます
なんというか、性癖的な話にもなってしまうのですが、すずめなりの「感謝の意」「ごほうび」といったような表現にも見えました。廃遊園地では、危険な場面にあったすずめに声をかけ、窮地を救ってくれた草太、そんな草太に対する信頼と恋心、そしてちょっとしたいたずら心が招いた行動でしょう。草太も仕方なさげに、そしてまんざらでもなさげなのがとてもよかったです。劇中のすずめと草太のやり取りの内でも、相当好きな表現でした。マジでここ好きです。この後の描写をみるに、草太さんはここで「椅子である自分」と、その現状を受け入れたようにも思えます。
そしてこの後の描写ですが、椅子草太がすずめに指示を出して行動を促す場面、これは昨夜の出来事に対する小さな対抗心のように、私には見えました。
草太の指示により、たくさん歩かされたすずめが
馬にされた気分なんですけど
と放った言葉に、
こちらは椅子にされたんだが
と、心の中で思っていたかもしれませんね。
 
 中盤あたりの、草太が完全に要石になってしまう場面、よくよく考えるとですが、椅子が動かなくなる、ということに悲しさを覚えさせる、という表現がすごいと思うんですよね、そこまでにしっかりと、椅子草太に「らしさ」を見出させるような描写をこれでもかと盛り込むことで、この瞬間の「動かなくなる」ということがとても悲しいものに見える。
 そこに至る場面があるこその、この描写、破壊力がすごかったですね、展開こそ読めた人は多かったでしょうが、その展開に感情をのせさせるために、こうきたか、と素直に感心してしまいました。

 以上に記したこと以外にも、本当にたくさんのたくさんの魅力的な描写ありましたが、代表的な場面をピックアップしました。劇中での本当にしっかりとした「らしさ」の描写、無機物に命を吹き込む描写にひたすら感心しました。最高でした。最高・・・・。

今、『すずめの戸締り』が放映されたということ


「今」見て、生まれたその感想、感情こそが大事なのだと思います

 この映画に賛否別れるポイントがあるとすれば、その一つが、「震災というテーマ」であると思います。
 まず初めに私のスタンスを明確にしておきますと、私は、しっかりと震災それ自体をとらえ、震災にあった人たちを虚仮にすることなく、本当に、真に震災に向き合った作品は、どんどん世の中に出していくべきだと思います。「すずめの戸締り」も例外ではありません

 震災にあった方々に申し訳ないだとか、家族を亡くした方のことも考えるべき、とおっしゃり、人が作品を見ようとすること、また作品を上映することを止めたいと思う方もいるかもしれませんが、私はそういう方がいたとしたらば、その考えは正しいのか、と疑念を抱きます。

 もちろん今現在もPTSDを抱えていたりする方々、トラウマを抱えている方々は多く存在すると思います。もちろんその方々をバカにしたり、こけにすることは許されない行為です、が、作品を出すな、見るな、というのはまた違うのではないでしょうか。
 この作品は、震災をメインテーマに据えながらも、それらに準じて成長していく登場人物や、心を立て直していくこと、過去起こったことを忘れず偲ぶこと、亡くなった人のことも偲ぶことを含んだ作品になっています。
 もちろん災害を受ける場面、災害を体験することによって悲しい思いをする描写こそありますが、すべてがそこに集約されているわけではありません。

 現実を忘れるのではなく、しっかりと作品を通して伝えたいことがあるのだと思います、それを、震災描写一つをとり、上塗りしてしまうのは、なんとも悲しく思えてしまう。
 直近で言えば東日本大震災、おおよそ12年前に起こった地震を毎日偲んで生きている人はいるでしょうか、当事者の方や、家族を失ってしまった方々はそうかもしれません、しかしながら、当事者になりきれず、震災をある種他人事の範囲で見ていた方々も、少なくないとは思います、かくいう私も、そのうちの一人である自覚があります。
 この映画は、その、当事者以外の人たちへのメッセージ性も強く見られるように思いました。
 おそらく、真に私たちが前に進むのは、忘れていた事柄を思い出し、その真実に向き合いながらそれを受け入れ、未来へ手を伸ばす瞬間です。それらを、その瞬間が、この映画には詰まっていると思います。

新海監督も述べていますが、
「観客の何かを変えてしまう力が映画にあるとしたならば、美しいことや、正しいことに使いたい」
という言葉、今作は、そのスタンスの上で作られています。

 この作品でしかできなかったことが、確かにこの言葉に込められていると思います、リアルな震災を、ファンタジー要素で濁しているのでなく、ファンタジーを通すことで、リアルな震災を見せているのです。ファンタジー世界で起こるファンタジーな震災を見させて、ファンタジーで救うのではなく、ファンタジーの世界で起こる、リアルな震災を見せることで、ファンタジーではない、現実に住まう私たちへの問いや救いになるのです。ファンタジーを通すことで今生きる私たちの心内に、リアルを映し出すということもあると思うのです。
 この作品で不満を抱いた人はどんな人でしょうか、きっと、理解ができなかったりした点があったり、自分の中で納得できない点があったのだと思います。
 特に震災というテーマやSFファンタジーといったジャンルをとる作品はその傾向は高くなります。それは全く悪いことではないですし、すべての作品においてありうることです。しかしながら、その、自分の中で納得ができなかったから、で止まるのは良いことではないと思うのです。

どの作品にでも言えることですが、作品のすべては、何かを伝えたいという信念を叶えるツールです、それ以上でもそれ以下でもありません。しかし、伝えられたメッセージは、個人個人の心内で、描写以下や以上になる場合があります。
 本作品においても例外でなく、私たちがこの映像を、作品を見たときに問われたものもあったでしょう、私たちは、震災といったものを問われたとき、どうこたえるか、震災に出会った人を見る時、どうみるか、人が成長するとはどういうことなのか、人が過去と対峙するとはどういうことなのか、人が未来に進んでいくとはどういうことなのか、くどいように思えるかもしれませんが、きっとこれ以上のすべてを伝えようとしているのが「すずめの戸締り」なのではないでしょうか。
 そして、伝えなければならない、作品のうちに見えるすべては、「今」伝えなければならないのだと思います。震災というおおきな大きな厄災が日本を覆った日、あの日から12年、震災を生き残った人たちはどう過ごしてきたでしょう、各々が各々の人生を歩み、あの日を偲びながら生きていることでしょう人もいれば、忘れてしまった人もいるでしょう、その間ともいえる人もいるでしょう、まだ生まれてない命も、今を生きているでしょう。
 きっと、そんな人すべてに伝えられる方法が、この作品であったのだと思います。この、12年という年月、小さいときにあの日を体験した子は大きくなり、あの日を経験した大人は、あの日をあったこと、として受け入れられるようになったり、忘れかけてしまっているようになってしまっている今日。
 今日に至るまでいろいろな毎日があったと思います。そんないろいろ毎日を過ごしてきた様々な人たちに、ファンタジーという緩衝材を挟んで表現された、リアルな震災を、しっかりと自分の中に見てもらうのです。今生きている人に、これを見てもらい、自己の心の中で問いてもらうのです。
 確かに映像の中で表現されるものは、震災です、しかし現実ではありません、現実なのは、それらを見て私たちが心の中で描く震災だけがリアルで、現実なのです。それができること、それをしたことがこの作品の功績なのだと思います。 歪ませる表現に逃げることなく、真摯にそれらを描くことで、作品を見た私たちの心の中に、リアルを想像させる作品内で偲ばせることで、リアルの私たちが偲ぶきっかけになる。作品内で、登場人物らが成長し前に進むことを描くことで、私たちが成長するきっかけになる。
 おそらくこの作品は、もっと前にやっていても、もっと後にやっていても良かった作品ではあると思います。それは、私たちの心内で思われること、その思われることが問う本質は、どの時代でも揺るがないものだと思うからです。
 しかし、この作品は「今」放映されました、それは、今この瞬間だからこそ、私たちがこの作品を見たことで、私たちの心内にあらわれるものがあるということ相違ないと思います。震災から時がたったからこそできる震災描写、そしてこの瞬間、作品を見た私たちの心内に対しての問いおそらくこれらの絶妙なバランスが位置するのが「今」なのです。この「今」は、人それぞれ変化します。
時間がたってみる人も、何年後かに見る人も、今日見る人も、この作品を見たときが「今」なのです。なので、「今」この作品が放映されてる事実、私たちがそれらを見られる事実こそが、大事なのではないでしょうか。

「今」見ましょう



さいごに


 ここまで引用などすべてを含めて、53000文字近く、だらだらと書いていた期間は全体で、一週間ほどと、それなりに書きなぐりました、本当に書きなぐりで、繰り返されている部分であったり、あいまいであったり、稚拙な書き方だったり、粗を上げては限りないですが、なんというか、とても楽しかったです。抽象化をすべきだと思えたりするところもありますが、それでも、全部書きたかった、というか、これでも足らないほどです。本当にお付き合いくださりありがとうございました。

この作品を見る前、何かこの作品が自分自身に強い影響を残すのではないか、と予感をしていました、実際それがどうかはわからないですし、これから何かが実を結ぶかなど知る由もありません。

 しかし、この作品に出会えてよかったと思えたのは本当に確かで、自分の中にしっかりと薪をくべてくれたのも確かです。

 この記事の表現で、断言しない表現が多かったのは、あらゆる作品において、それらを作った人達の信念等を断言することは、あまり良くないと考えているからです。
 作品というものは、それこそあいまいな表現にはなってしまうのですが、作者の中の宇宙の中の一つの星や、事象の揺らぎのようなものでしかないと思うのです。
そんな揺らぎは、ある一つの星から見ただけで、断言できるでしょうか、宇宙ではあらゆる可能性があり、あらゆる事象が起こりうるのに、それらを否定し、さあ、これこそが正しいぞ、という行為、説得力こそ出るかもしれませんが、それはあくまで一人の仮説にしかすぎません、それらを断言してしまえば、自分の視点から見えるもののみが宇宙になってしまいます。
 
 私は、私の見えないところにも宇宙が広がっていてほしいと思う人間です。仮説を断言して、これはこうだ、と思ってしまえば、作品は自分の中で終わってしまうのです。
 臭い表現になってしまいましたが、「すずめの戸締り」という物語を、僕は自分の中で終わらせたくなかったのです。そのため、今回、濁すような表現を多用することとなりました。
見る人の中にもいろいろな見方があっても良いと思うし、監督の中に答えがあっても良い、なくてふわふわしてても良い、ということがあってもいいのではないでしょうか。それこそ今作は、これでもかというほどに、見る人によって感想や思うところがある作品になるでしょう。

 きっとそれでいいと思うのです、駄作だと思う人もいれば、名作だと思う人もいる、アクションとみる人もいれば、ラブストーリーとみる人もいる、ロードムービーとしても見ても面白いし、家族愛を描いたものでもあるともいえる。そしてそれらがごちゃ混ぜになっていてもいい。

 断定しないということは臆していること、とされても何も言えませんが、それでも僕はそこの余地を残しておくことが、この作品を最大限に楽しめるような余白を生むのかなと。そう思いました。

 ここまで読んでいただいている方がいたとすれば、本当にありがたい限りです。特段私自身が何かを生み出したわけでなく、「すずめの戸締り」というすばらしい創作物に思うところを書きなぐっただけであり、余計なものを継ぎ足すことになってしまった部分もあるかもしれません。それでも、この記事が「すずめの戸締り」という作品に出合った人の心の中に、ほんの少しでもいいものを残せたとしたなら、それはとても喜ばしいなと思っていますし、そうであってほしいと願っています。
 繰り返しになりますが、こんな長い記事のこんなあとがきまで目を通していただきありがとうございました。すずめの戸締り、ありがとう、誠君、ありがとうやで・・・・。


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