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[小説]ある統合失調者の記憶 8話 大病院

今回は8000字くらいです。前回は、アメリカ合衆国の陰謀から自分の身を守ろうと自己防衛を始めたところでした。今回は、妄想が新たな妄想を生み出して、被害妄想に取り憑かれて死ぬことを考えてしまいます。


 医者から病名を告げられた。告げられた病名は「膠原病」の疑いだった。沢山の検査をした。採血も両手では数えられないほどした。CT検査も受けた。病院は、コロナ患者を隔離するために厳重な検査体制だった。この病院に行くまでに電車を乗り継いで2時間かけた。私は看護師に案内されたプレハブ小屋に横になり何本もの採血をした。そして、病院の待合室で1時間ほど待った。病院の消毒液にまみれたにおいが、気管支を刺激する。そして、発作を起こすまいと我慢し、やっと医者に呼び出された。
 検査の結果は、いずれもアレルギー症状があるが原因不明というものだった。喘息の発作は、徐々に悪化している。最後に望みを繋いだ病院だった。私は、自宅から病院までの道筋を思い出し、膠原病という病名を頭の中で反芻して吐き気のする思いだった。私の心の中で、死ぬまでのカウントダウンの音がカチッ、カチッ、カチッと聞こえてきた。ふらつく足で考えることは、病院代が嵩む私の医療費をどのタイミングで終わりにするかということだった。今の収入では、雪だるま式に膨らんでゆく医療費まではカバーできないだろう。私が加入している保険約款上2年の免責期間があるが、十分に過ぎている。暗号資産で利益を挙げられなければ、残るのは命を捨てる覚悟だけだ。
 Suicaをカバンから出して自動改札機に触る。そして改札を通り抜け、疲れてふらつく足で一歩づつ階段を登る。自宅に帰る道のりは長い。ホームから伸びる線路の先には、目を光らせた鉄の塊が進んでくるのが見える。電車に飛び込みたいという衝動を抑える。目の前にはホームドアがある。これを乗り越えてしまえば、電車は時速30キロ、40トンの衝撃で私の体にぶつかり、私の体は衝撃で潰れて、細かい血飛沫が広がり、骨は砕け、肉体は割れた風船のように四散する。おそらく、私のカケラは数百の細かい肉片となり、血と鉄の入り混じった死の匂いを撒き散らすだろう。家族に請求される賠償金の額は膨大なものになる。そんなことを考えているうちに、電車は止まり、ホームドアが可愛らしい音を鳴らしながら開いた。
 電車は、思いのほか空いていた。肺に負担をかけないようゆっくりと席に座り息子のことを考える。4歳になる息子は、ホームドアが好きだったな。どういうわけか、色々な路線のホームドアが開いたり閉じたりする動画を何回も見ていた。次に見るのは、東京メトロの銀座線と丸の内線の動画。あとは踏切の動画。とにかく、踏切、踏切、踏切の動画。踏切ってのは音が鳴れば100パーセントの確率で電車がくる。あのカンカンカンカンという音は、なぜか私を不安にさせる。電車に当たれば100パーセント死ぬからだろうか。まるで、自分の確定した未来みたいだ。

 私の心の中には医師に対する理不尽な怒りで満たされていた。大量の薬を処方し、病院をたらい回しにされ、患者の言葉に耳を傾けない多くの医師に。そして、私の怒りは白い巨塔にいる特権階級に向けられた。私は、アレルギーの原因に心当たりがあった。しかし、たらい回しにしてきた医師たちは誰一人として、私の言葉に耳を傾けようとしなかった。検査すらしようとはしなかった。私の怒りで膨れ上がる思考の束は、新しい妄想を生み出していった。もし、暗号通貨の自動売買がうまくいかず、死を覚悟しなければならなくなった時、大病院の入り口で人為的にアナフィラキシーショックを起こそうと考えたのだ。
 アレルギー症状には、Ⅰ型からⅣ型まで種類があり、私が患っている気管支喘息はⅠ型、または即時型アレルギーと言われるもので、花粉症、蕁麻疹、気管支喘息、アトピー性皮膚炎があげられる。また、アナフィラキシーショックを引き起こすとも言われている。症状が起きる理由は、アレルギーの原因物質であるアレルゲンが体内に入ると、IgE抗体が化学物質を放出する。その化学物質が、アレルギー反応というかゆみや咳などの症状を引き起こす。いわゆるアレルギー検査は、どの物質がアレルゲンとなっているか、アレルギー症状を起こしやすい体質かを調べるものだ。前者を特異的IgE検査、後者を非特異的IgE検査という。私の場合は、非特異的IgE検査ではアレルギー体質とわかっているが、医師達は原因物質を特定するには至らなかった。いや、私の持参したアレルゲンと思われる物質の検査を拒否した。私は、やむを得ず紹介を受けた医療機関以外でアレルゲンの検査をしてくれるか依頼したが、大病院で検査してわからなければ調べようがないとことごとく拒否された。大病院という立て看板だけを聞いて、その検査の実態を聞こうとせず、患者に誰一人として向き合おうとしなかった。
 そこで、私は自分でパッチテストをやってみることにした。パッチテストとは、皮膚アレルギー検査のことでアレルゲンと思われる物質を皮膚に塗布して、かゆみなどの症状が出る検査のことだ。パッチテストは、30分のものと48時間のものがある。私は、両方の二の腕と、両方のふくらはぎの4箇所にパッチテストを行うことにした。まず、30分の検査では一切アレルギー反応はなかった。続いて48時間のテストを行った。48時間のテストの場合、風呂などで流れ落ちる可能性を考慮して、大型の絆創膏で覆った。本当は、専門の道具が欲しかったが医療器具のため入手ができなかった。48時間の検査は思いのほか長い。そして、専用の器具でないと効果の検証が難しい。それに加えてノシーボ効果も考えなければならない。ノシーボ効果とは、思い込みで人体に良い効果を出すプラシーボ効果の反対の意味で、思い込みで人体に悪い効果を出すことをいう。本来の検査であれば、アレルゲンではないものを混ぜてパッチテストで使い、思い込みによるノシーボ効果を排除できれば検査としては効果が高いように思えた。しかし、頼るべき医師は私にはいなかった。そして、48時間が経過し、絆創膏を剥がした下の皮膚は、ほのかに赤みがさしていた。専門家ではない私は、この結果がどういう意味を示すのか判断に困った。やはり血液検査をしなければ、アレルギー反応を確認できないのかとも思った。
 そこで、人為的にアナフィラキシーショックを起こす方法を考えた。アナフィラキシーショックとは、アレルゲンを触れる、吸引する、飲食することで引き起こされる、複数の臓器にまたがるアレルギー反応で血圧低下や意識症状を起こし生命に危険な状態となることをいう。
 ところで、アレルゲンに接してアレルギー反応が起きるまでの時間は人によって違う。実はアレルギーにも即時型と遅延型があり、即時型であればアレルゲンに接してから2時間程度で症状が起きるが、遅延型では数時間から数日もかかるケースもあるという。体の不調を訴える多くの人は、実は遅延型アレルギーではないかと言われているが、この遅延型のアレルギーについては即時型と異なり医師たちの研究が遅々として進んでいない。そして、私のアレルギーもおそらく遅延型だろうと推測できた。遅延型であれば、私がアレルゲンを摂取してアレルギー反応が起きるまでの時間がわからない。大病院の前でアナフィラキシーショックを起こすためには、アレルゲン摂取の方法、摂取の時期、そしてアレルゲンの特定が必要だった。アレルゲンについては、おおよその検討がついていた。それを、静脈に直接大量に投与すれば良い。それでアナフィラキシーショックを起こすことができるはずだ。問題はアナフィラキシーショックが起きるまでの時間だった。私は、パッチテストを再開して、1時間ごとに皮膚にアレルギー反応があるかを調べることにして、それを一つ一つスマートフォンで写真撮影して経過を記録することにした。その結果、アレルギー反応が起こるまで約6時間がかかることを割り出した。

 そして、医師達の怠慢を告発するもっとも効果な方法を考えることにした。それは、自分の命をかけて自力でアレルゲンを特定していたという証拠を示すことだった。それも呼吸器系の権威と言われる大病院の面前で示す必要がある。連中の無能さと怠慢を多くの人たちの前で晒し者にするんだ。そのためには、どうすれば誰もが納得できる証拠を突きつけることができるだろうか。
 証拠の資料をマスコミ各社に送っても無駄だ。医師会という組織は、日本の特権階級。強力な政治力を持っている。その力は政界、マスコミ界にも及んでいる。マスコミ程度の組織では簡単に握りつぶせるだけの力がある。
 そうなると、やはりインターネットを頼らないといけない。困ったことにインターネットのほとんどのサービスは解約してしまっていた。しかし、インターネットの情報を拡散する力は凄まじい。一度、インターネット上に流れて好奇心の目に晒された情報は、半永久的と言って良いほどの期間、拡散され続ける。そのためには、拡散させる方法も考えよう。強力なインパクトで、誰もが拡散したくなる方法を選ばなくてはいけない。なぜなら、インターネットの拡散も、広告代理店やビッグ・テックの影響が実はあるからだ。若い人なら誰もが一度は、自分の情報がバズってインターネットに拡散する様を想像したことはあるだろう。例えば、Twitter、これは大手広告代理店の影響が強い。大赤字のTwitterは、広告代理店からの広告収入が経営の基盤となっているはずだ。Youtubeは、広告主がGoogleに直接依頼している方法のようだが、アメリカ政府に影で情報を提供していると言われている。それに、Googleは利用者に見せたい情報をAIを使って操作している。簡単に言うと、Google検索は同じ言葉でも人によって検索結果が違うのだ。そのような感じで、いくつかの候補を頭に挙げては、消していく作業を繰り返す。そうなると、拡散する層が多い若年層をターゲットとして、2021年8月時点で3分という短い動画サービスを提供するTikTokが有望だ。
 TikTokは、典型的な中国企業で情報のすべてを中国政府に提供していると想像できる。中国にとって不利な動画の拡散は規制するが、私の目的である日本国内の医師の怠慢を告発する動画であれば、拡散に手を貸すかもしれない。怖いのは個人情報の流出だが、死を覚悟した情報の個人情報流出なら歓迎できる。多くの人が興味を持って拡散することが想定され、より高い拡散効果を期待できるからだ。やはり、インターネットで拡散するには動画がもっとも効率効果的だと思い至る。
 それでは、3分間の動画を作るとして、どのような動画であればインターネット上に広く拡散されるだろうか。怖いのはシャドウバンだ。シャドウバンとは、投稿を他の人に見られないように運営会社側でタイムラインなどに表示させない措置のことだ。Twitterでは頻繁に行われているようだが、これをTikTokでも実施しているようだ。せっかく動画を作ってもシャドウバンされてしまえば、拡散出来ずに私の目論見は頓挫してしまう。シャドウバンは、センセーショナルな投稿ほど規制されやすいとも聞く。だけど、1回目の投稿でいきなり規制するというのは聞いたことがない。1回目の投稿で、バズることを期待するしかなさそうだ。そうすると、逆に思いきってセンセーショナルな動画を投稿する必要があるんじゃないか?

 私は、キッチンの前に立ち、スマートフォンを固定して動画を撮り始める。3分になるよう編集する時間はあるだろうか。
「私は喘息患者です。私は自分のアレルゲンが何かを分かっています。しかし、日本の呼吸器系医療機関の権威である(ピー)は、私が望むアレルギー検査をしてはくれません。ですので、今から私は自分の体を実験台にしてアナフィラキシーショックを引き起こします。今は2021年8月x日午前6時。私のアレルギーは、遅延型のⅠ型で、アレルギー反応が起きるまで約6時間かかります。」
 まず、アルコールを冷凍庫から取り出す。消毒に適したアルコールは、濃度70%から95%のエタノールである。冷凍庫から取り出す理由は、アルコールが冷凍庫では凍結せず保存に適しているからだ。使うのは、沖縄県産のサトウキビで作られたアルコール度数70度のラム、栓を開けるとサトウキビが熟された芳醇な香りがキッチンを満たす。高級なラム酒も喘息患者となった私にとっては料理酒程度の用途しかない。何の躊躇いもなく、アルコールをあらかじめ煮沸洗浄したボウルに注ぎ込む。液体の表面は、薄い黄色みがかった液体だ。
 愛用のスイスのビクトリノックス・マルチツールから小型のナイフを取り出して、アルコールの中に漬ける。そして、作業用のビニール手袋を用意しておく。無論、開封していない新品を3つほど用意しておく。そして、血液を採取するためのアレルギー検査キットを1セット用意する。大病院の前でアナフィラキシーショックを起こせば、あたりまえだが採血する時間はない。人は死亡すれば血液も変化すると言われている。そのため、特異的IgE検査用の血液をアナフィラキシーショックで死亡する前に自前で用意する必要があった。問題は、採血する環境と採血する方法、そして採血するタイミングだ。検査キットでは採血できるが、医療機関の正規品ではないので、いかに雑菌を入れないで検査キットに血液を満たすかが問題だ。それに、血液は採取してから遅くとも2時間以内に検査機関に持ち込まなくてはならない。
 まず、聞き手にビニール手袋をはめ、アルコールに脱脂綿を浸し、静脈の付近を聞き手の二本指でなぞるように探る。指先がやや早い脈動を伝えてくる。そこをラム酒に浸した脱脂綿で消毒する。そして、切るポイントにマジックペンで印をつける。
 私は小さなアーミーナイフを手に取る。そして、左腕の肘窩のやや上部にアーミーナイフを当てる。アーミーナイフの先が小刻みに揺れる。落ち着け、深く切るわけじゃない。息を吐け。イメージトレーニングした通りだ。そんな作業を頭の中で繰り返す。それから間も無く、脳神経に痛みが伝えられる。痛みの線は熱く長く深い。赤い線の上に赤黒い血がとめどなく溢れている。しまった。深く切りすぎたか。あらかじめ用意していたアレルゲンを脱脂綿に浸し、噴き出ている傷口に当て、包帯できつめに縛る。落ち着くと包帯の一部が赤く染まっている。熱い痛みがまだ腕に残る。もう後戻りはできない。
「今、静脈にアレルゲンを入れました。私の残り時間は遅くて6時間です。」

 パッチテストではアレルギー反応があるのが約6時間だが、静脈から入ったアレルゲンはそれよりも早い時間で私の体を巡り、体内に化学物質で充すだろう。そう考えると、あまり時間がないはずだ。次の準備、検査用の血液の採取に取り掛からなくては。
 摂取する人差し指を消毒する。消毒液が指に触れると、微かに液体が蒸発するアルコール特有の感覚が起きる。血液は、本来の方法では採血用の注射器を使い大さじ一杯くらい15mlを採取する。私は医療従事者ではないので、市販のアレルギー検査キットに付属しているプラチック製の微量採血管を使って指先から採血をする。採血管を人差し指に突き刺すと、鈍い痛みが指先から信号として脳に伝わる。指の先端から小さな赤い点が生まれ、次第に赤い液体が指先に広がってゆく。念のため、もう一つの採血管も使う。痛みの信号は二つに増える。帯状疱疹の患部を千枚通しで突き刺すような深く鋭い痛みに比べれば、なんてことない痛みだ。そして、採取した血液が入った2つ採血管を安定したキッチンの台に乗せる。何度か採血管をひっくり返す。検査用の血液は、遠心分離機にかける前に10分を常温で静かに置いておく必要がある。
「私の血液を採血管に採取しました。すでに10分経過して凝固が始まっています。これから、この血液を遠心分離機にかけます。遠心分離機にかけられた血液は血清、分離剤、血餅の三層に分かれて分離するはずです。遠心分離機に5分間連続で回転させます。回転する回数は、1分間に3000回です。こうしている間も、静脈から私の体内に取り込まれたアレルゲンは、私の体を攻撃する化学物質を生み出しているはずです。」
 今の通信販売は何でも売っている。手に入れようと思えば小型遠心分離機さえも手に入る。私は、小型遠心分離機をキッチン台に起き、電源をコンセントに差し込む。採血管を小型遠心分離機にセットして電源を入れる。ブォーンというモーターが高速で動く音を鳴らしながら、採血管も高速で回転する。採血管は残像すら見せずに回転を続ける。回転をぼんやりと見ていると、なぜかプールに置いてある水着を脱水させる装置を思い出す。あの脱水機よりも高い音を鳴らしながら小型遠心分離機は動き続ける。スマートフォンのタイマーが5分を経過したことを私に知らせ、遠心分離機の電源を止める。惰性でぐるぐる回る採血管は、三つの液体に分離されフランス国旗のように見えた。
「採血管の上澄みの部分が血清です。この血清は4度から10度の低温で保存しないといけません。血清を作った理由は、私の用意したアレルゲンとこの血清を使って速やかに検査ができるためです。さて、残された私の時間は残り3時間。そろそろ病院に向かわなければ、病院に着く前にアナフィラキシーショックを起こすかも知れません。」
 採血管2本を小型のクーラーボックスに格納して、ドライアイスで敷き詰める。クーラーボックスの中ではドライアイスの冷気で4度程度で保存されるはずだ。スマートフォンを取り出して一旦動画を止める。移動中に3分の動画に編集しなくちゃいけないからだ。

 外の気温は朝なのに30度を超えている。ドアを開けるとむせかえるような熱気が広がる。日差しは思ったより強い。なるべく、クーラーボックスを揺らさないように慎重に歩く。雪国の人が氷の上を歩くときのように、足に神経を集中させながら歩こう。家のすぐそばにある時差式信号機を渡り、家から一番近くにある駅に向かう。駅までは国道を真っ直ぐに進み、徒歩で8分ほどの距離だ。焦る気持ちを抑えながら、一歩一歩踏み締めて歩く。あともう少しで駅だ、踏切が見えてきた。突然、目の前が急に暗くなる。おかしい、まだ朝のはずだ。私の予想を超えてアナフィラキシーショックが起きたのか。駅の横にある踏切が遮断機を下ろし始めるのが見えた。カンカンカンカンと音が鳴っている。踏ん張れない。頭が落ちていく。ゆっくり、ゆっくりと体が前に沈もうとする。足の力が抜け膝から落ちる感じがする。心の中に暗い絶望が広がっていく。カンカンカンカンという音が、いつのまにかドクンドクンドクンという心臓の音に変わる。目を開けているのに視界には何も映らない。真っ暗な世界だ。そして、ドクンドクンドクンと言う音は、ドンドンドンという音に変わっていた。

 ドンドンドンドン。息子が居間に置いてある神棚に向かってジャンプをしていた。自宅の居間のソファに私は座っていた。急いで記憶を蘇らせる。私は医者に対する怒りと絶望から、家に帰ってからすぐにカバンから運転免許証を取り出して、裏書に署名をした。
 運転免許証の裏書は臓器提供を希望するかどうか確認する欄が3つ記載されている。
「1 私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植のために臓器を提供します。」
 この1番に緑色のサインペンでマルがつけられ、私の名前と今日の日付がが署名欄に書き添えられていた。怒りのあまり、被害妄想の世界に陥っていたようだ。両腕をさすり、どこにも傷はないことを確認する。時間はサインをしてから数分も経っていない。
 ドンドンドンドン。必死の形相で神棚に向かってジャンプを続ける息子に、何をしているのか聞いた。
 「だって、神様が怒っているから。」ジャンプをやめて、伏し目がちに息子は言った。
 「神様に何か悪いことをしたのかな」臓器提供の署名にサインをしたばかりの私は、家族に対して仄かに罪悪感を覚えていた。
 「だって、お水あげていないでしょ。神様は喉が渇いたんだって。」
 ここ最近、神棚の水を交換していないことを思い出した。息子は、私のそんな姿を見ていたのだろうか。しかし、それ以上に私は、神様が息子を通じて何かメッセージを送ってきたかのように思えた。息子においでと言って、立ちすくむ息子を両腕で抱き締める。なぜ、自分が抱きしめられているのかよくわからないといった風にあどけない顔でキョトンとする息子がいた。
 「神棚にお水を欠かさないようにするよ」息子を抱きしめながら私は言った。
 「そうだね、きっと神様も喜ぶよ。」息子は目を細めてにっこりと微笑んだ。
 そして、私の心の中にあった自殺をしようとする気持ちは消えていた。
(つづく)

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