否定から入る癖と、研究者思考?
最近になって自覚したが,自分には何かと否定から入る癖がある。
「ここ行こう」と誘われた時,「暑そうだから嫌だ」と否定した後にせっかく夏だしやっぱ行くべきかも,と思い直す。
「これ便利だよ」と勧められた時,「デザインが気に入らない」と否定した後,よくよく調べてみると機能がとても魅力的だったことに気づく。
初めは「思ってた味と違うね」とか言いながら,食べ進めるとハマっていることが多い。
研究者だから?
新しいものに出会ったとき,無意識のうちにまずネガティブなところを探している(むりやり良く言えば,改善点を探そうとしている)。
これはもちろん個人的な人格にも依るだろうが,研究者としての思考も影響しているかもしれない。
大学4年生の時,本格的に研究を始めるにあたって,「本当にそうなのか?と常に疑う癖を付けなさい」と当時の教授から徹底して指導された。
完璧な研究など存在しないという前提に立ち,過去の偉人が書いた論文の中にも矛盾点や疑問点を探して読むように教育された。
自分の研究の中でも,たとえば実験では予期せぬ結果が出ることは普通だし,数値計算も入力するパラメータを少し変えるだけで結果が大きく変わる。
これは誤差なのか,それとも新しい知見なのか,得られた結果に対して疑ってかかることがある意味習慣化されている。
褒める文化
尤もらしい理由を付けてみたところで,人間関係の中で常に否定から入られることは気持ちの良いものではない。
より良くするためのアドバイスとしての否定は悪いものではないと思うので,ならば順番の問題だろうか。
国際会議の場などでよく感じるが,特に海外の人は良いところを先に挙げる文化があるように思う。
「素晴らしい発表をありがとうございました。ところで,,」とか「○○については良く理解できました。そこで,△△について教えていただきたいのですが,,」とか,必ずと言って良いほど先に褒める。
学生から何かを提案されたとき,たとえそれが稚拙であったとしても頭ごなしに否定するのではなく「これは良いアイデアだね」と先に良いポイントを指摘できれば良い。
一方で,飴と鞭的な発想もできる。
「全然ダメ」と凹ませておいて,「でもここは上手くできているから,やればできるよ」と言った方が気持ちよく打ち合わせん終わらせられる気もする。
気分を乗せるのが,先か後か。教育論的にはどちらが効果的だろうか?
教育論に飛躍したが,やはり日常会話においてはあまり意味のない否定には本当に気を付けたい。
良いところを探すポジティブな思考を心掛けたいものだ。
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