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メッセージ要約 2024.4.7「クレネ人シモンのように」

マルコ15章16-22「クレネ人シモンのように」

スペインバルセロナのサグラダファミリア大聖堂は、アントニオ・ガウディーによって設計され、1882年に建設が始まりました。ガウディーは、当初の設計者が辞任した後、31歳でプロジェクトを引き継ぎ、全ての設計を一新しました。しかし、1926年にガウディーが亡くなると、彼の設計図が残されておらず、スペイン内戦中の火災で資料が失われたため、建設は困難を極めました。コンピューター技術と3Dプリンターの進歩により、かつて300年かかると言われた建設が大幅に加速し、2026年の完成が予定されています。この大聖堂の物語は、救い主の来臨を長い間待ち望んだ旧約時代の人々の姿と重なります。

神の御子イエスキリストが人となって地上を歩まれた。 人々はその預言の成就を目の当たりにしたのです。 救い主を直接その目で見て、奇跡を目の当たりにし、その息遣い、語られる真理をその耳で聞いたのです。彼らは選ばれた世代の人たちでした。 しかしある人はイエスを信じましたが、ある人たちは拒否してしまった。 そして拒否した人々はその王を十字架につけるため働きかけるのです。 しかしその背後で神の全人類を救う計画が進んでいたわけです。

今日はその中である特別な役割を担った人が出てくる場面です 今日はイエス様の十字架を代わりに背負った人 クレネ人シモンという人です。 今日はクレネ人シモンに焦点を当てて見ていきたいと思います。 少し背景を振り返ります。前回ピラトの元で行われたイエス様のローマの裁判の場面を見てきました。 ピラトはイエス様の無実を確信し、釈放しようと試みますが、ユダヤの祭司長たちの反対にあい、 暴動を恐れたためイエスを彼らに引き渡してしまいます。 そしてイエス様はゴルゴダの死刑場に向かうのです。 今日はこの箇所から「クレネ人シモンのように」という題で3つのポイントで」見ていきましょう。

1.贖い主イエスキリスト (ローマ兵の姿から)16−20

イエス・キリストはローマ兵によって侮辱され、茨の冠を被せられました。彼らは「ユダヤ人の王様」と嘲笑しながら、イエスに暴力を振るいました。この行為は、人間の罪の本質を象徴しており、イエスは人類の罪と呪いを身に受けた贖い主として描かれています。最終的に、彼らはイエスを十字架につけるために連れ出しました。これは、私たち自身の罪に対する贖いであることを思い出させます。

2.私たちの過去を贖ってくださる方(クレネ人シモン 21−22)


イエスがゴルゴダへの道を歩む中、力尽きた彼に代わって十字架を担いだのはクレネ人シモンでした。この出来事はシモンにとって人生の転機となり、彼と彼の家族はキリスト教徒となり、後にローマ教会で重要な役割を果たすことになります。

マルコはこの箇所でシモンのことをなんと書き残しているか?

21節の続きです。シモンは「アレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。」とあります。シモンはアレクサンドロとルフォスの父だったとあります。

マルコはこれを書いたのは十字架の出来事から30年後くらいです。マルコがこの2人の名を残したということは、この福音書を読んだ当時のクリスチャンたちにとってこのアレクサンドロとルフォスという人が広く知られていたことを意味します。つまりこのシモンの2人の息子は教会の中で中心的な働きをする人物になっていたということです。

そしてシモン家族はその後ローマに移住しローマの教会で中心的な働きをしていたことがわかっています。ローマ16章 パウロがローマの教会に宛てた手紙 最後にこう書き記しているのです

ローマ16章13節「主にあって選ばれた人、ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく」 

息子の一人のルフォスはローマ教会の信徒になっていたということです。またパウロはルフォスの母のことを私の母と言っている。つまりそれくらい慕っていたということです。このルフォスの母はシモンの奥さんのことです。

この物語は、イエス様が私たちの過去の苦しみを贖い、悲しみを喜びに変える力を持っていることを示しています。外科医ポール・ブランド博士の治療を受けたサガンの話も、苦しみが結果的に彼の人生にとっての祝福となったことを物語っています。彼はハンセン病に感謝し、その病が彼にイエス・キリストを知る機会を与えたと語っています。私たちの人生における痛みも、イエスと共に歩むことで、癒やしと変革の源となるのです。


3.私たちが背負う十字架

イエス様の十字架を背負うことは、弟子たちにとって犠牲を伴う道であることを意味します。マルコによる福音書8章34節では、イエス様が群衆に対して、自分を捨て、自分の十字架を負って従うようにと語りました。これは、イエス様が弟子たちに求めた犠牲の象徴であり、彼らが救われるための条件ではなく、信仰によって与えられる救いに応える行動です。

私たちは、イエス様が私たちのために払った大きな犠牲を知り、それに応えるために自らも犠牲を払い、十字架を背負って従いたいと思います。十字架を追うことは、イエス様の贖いのプロセスに参加し、神様の願いを地上で実行する使命を担うことです。私たちは、イエスキリストを知らない人々に福音を伝え、彼らの救いの手助けをすることで、イエス様と共に十字架を背負って歩むのです。また、私たちの仕事を通じても、神の手足となり、この世界を贖う役割を果たし、神の形本来の輝きを解き放つことが求められています。私たちは、シモンのように、イエス様と共に十字架を負って歩む者でありたいと願っています。

(T.N)


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