メッセージ要約 2024.7.21 「次世代に残すもの」
○Ⅰサムエル記8章1節~22節「次世代に残すもの」(安食滋良牧師)
今月から、ダビデの生涯を共に見ていきたいと思います。ダビデとは、紀元前1000年頃のイスラエル2代目の王様です。今日は、ダビデが登場する前、イスラエルの民がどのように王を求めるようになっていったのか。その場面を見ていきたいと思います。イソップ物語で有名な「欲張りな犬」という話があります。川面に映る肉をくわえた犬の姿を、他の犬と勘違いし、相手の肉を取ろうとして、自分の肉まで失ってしまう。この話の教訓は、「隣の芝生は青く見える。」です。そのことは、時に親からの信仰継承の時、子供の中で、世の価値観に対する憧れという形で出てくることがあります。今日もそのような信仰的な世代間の葛藤が出てくる場面です。
背景を見ると、舞台は紀元前1000年のイスラエルです。当時イスラエルは、モーセによってエジプトを脱出し、約束の地カナンに住んでいました。そこでは、神様が士師という霊的リーダーを立て、民を導くという方法が取られていました(女性預言者デボラや、怪力のサムソンなど)。士師記には、あるパターンがあり、民が神に背いて堕落して、敵に攻め込まれて破れる。そこで神が士師を立てて民を悔い改めに導き、民が勝利を収める。これがずっと続き、その度に新しい士師が立てられる。この当時は、神様が民を導く神聖政治という形が取られていたわけです。そして最後の士師として立てられたのが、預言者サムエルという人物でした。サムエルの時代、イスラエルは神に背き偶像礼拝を行い、宿敵ペリシテ人に大敗します。サムエルが民に悔い改めを呼びかけ、神に立ち返らせ、勝利を収めるという物語が書かれています。今日の箇所の1つ前の7章に、ミツパという所でリバイバルが起こり、人々が神に立ち返る話が書かれています。今日の箇所8章は、ミツパのリバイバルを経験した子供たちの世代の話であり、ここでその子供たちの世代の中で信仰への葛藤が生まれてくる。
今日は、ここから次世代に残すものというテーマで2つのポイントで共に見ていきたいと思います。
1.王を求めた民(世の価値観への憧れ)
1節から3節を見ると、サムエルの息子たちは「彼らは、賄賂を受け取り、さばきを曲げていた。(3節)」と書かれており、堕落していることがわかります。そこで長老たちが集まり、「ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。そうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」と願います。ここで引っかかる言葉があります。それが「ほかのすべての国民のように」という言葉です。それまでのイスラエルは、神が民を導く神聖政治という形が取られていました。神に与えられた律法を守り、神が立てたリーダーを通して、神がイスラエルを治めている。その神聖政治は、人々が神様に従っていれば、完璧に機能していました。しかし、長老たちは、ミツパでリバイバルを経験した人たちの子供たちの世代であり、親から十分な情報と信仰が継承されておらず、「我々には霊的リーダーではなく、軍事的なリーダーが必要です。王を立ててください。」と言ったのです。サムエルは、彼らの言葉に怒りを覚えますが、仕方なく神様にその民の申し出を持っていくと、神様は、「王を求める民の声を聞き入れよ。」と言います。しかし、ここで神様ががっかりしているようなニュアンス(「私に頼らないのは、今始まったことじゃない。エジプトを出てからずっと、民は私に逆らい続けてきた。もう好きにしたらいいじゃないか。」)を私たち読み取ることできます。そして神様は。同時に王を立てた時のリスクについて、11節~18節で民に話します。「王を立てるとこういう問題が起こってくる。まず息子たちが徴兵されたり、王のために働かされるようになる。またあなた方の娘たちが応急で使えさせられるようになる。またあなたたちは税金で苦しむようになる。」などなど。この神からの警告に対し、「いや。どうしても、私たちの上には王が必要です。そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」こうしてイスラエルは、神に守られた特権を持つ神聖政治から、世俗的な王政へと移行してしまうのです。
私たちクリスチャンも、恋愛至上主義や物質主義が浸透している世間一般的な価値観に魅力を感じることがありますし、聖書の価値観と世の中の価値観は、時に対立することがあります。それは、私たちが、この時代のイスラエルのように、自分たちがどれほど大きな特権が与えられているのかその事実に気づいていないからです。
2.親が残したものの偉大さに気づく(個人的にイエス様と出会う)
今日の箇所で、王政を求めた子供世代の人たちは、後に自分がしてしまった誤ちに気づいていきます。そして、自分たちがどれほど大きな恵みの中にいたかということを悟っていくのです。同じようにクリスチャンの2世代目以降の子供たちは、ある時クリスチャンホームに生まれたということが、どれほど大きな恵みの中にあったか、そして自分がクリスチャンホームに生まれたことが神様の計画の中にあって、その中でどれほど自分が守られていたのか、そのことに気づいていくわけです。そしてそこで、イエス様の愛に出会っていくわけです。時に大きく逸れる中で、神様の恵みに出会って戻ってくることもあるわけです。
今日の神様が、王政という間違った決断を許されたように、人々の自由意思を尊重されたように、子供たちは多く逸れる道を通して、そこでイエス様の愛に気づき、戻ってくることもあるわけです。神様は、その逸れた時に、マイナスに思えたような痛み苦しみも用いて、ご自身の愛を理解させてくださる。マイナスをプラスに変えてくださるお方であるということです。
そして、私たち自身も、時に世の中の価値観に惹かれることがあるかもしれない。しかしそれらをいくら追い求めたとしても、私たちの人生に一時的な満足は与えてくれるかもしれません。しかし本当の満足は与えてくれない。私たちの人生の乾きを本当に満たすことのできるお方、私たちの人生に本当の満足を与えてくれる方は、たった1人イエス・キリストしかいない。そのことを、私たちは今日の箇所から覚えたいと思います。(T.H)