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メッセージ要約 2024.5.19 「私はイエスの弟子です」

○マルコの福音書15章40節~47節「私はイエスの弟子です」(安食滋良牧師)

 今から4500年前、エジプトの最盛期を担ったある偉大な王が埋葬されました。しかし、今日の箇所は、今から2000年前、それよりもさらに偉大な王、全人類の罪を贖った世界の王であるイエス・キリストが埋葬された場面を、共に見ていきたいと思います。前回イエス様が十字架上で、息を引き取られる場面を見てきました。イエス様は、過越の日の午前9時から、午後3時までの6時間、十字架に架けられました。中心的な弟子は、ヨハネ以外全員逃亡してしまいましたが、その中で3人の女性がその十字架を目撃していたという記述があります。その3人のとは、1人がマグダラのマリア、もう1人が小ヤコブとヨセの母マリア、そして最後がサロメです。サロメは、イエスの母マリアの姉妹で、息子にイエスの弟子ヤコブとヨハネがいる女性です。そしてこの3人の他にもたくさんの女性たちが、この時イエス様の十字架を見守っていたのです。しかし、男性の中にも「自分は、イエスの弟子である。」そう勇気を持って立ち上がった2人の人物が、今日の箇所に出てきます。それが、アリマタヤのヨセフとニコデモでした。今日は、この2人の姿から、3つのポイントで見ていきたいと思います。

1.2人の人物像

 先ず、2人の人物像について見たいと思います。この2人が登場するまでの背景を見ると、イエスが十字架に架かったのは、安息日の前日であった。安息日(土曜)は、ユダヤ教では、金曜の日没から安息日が始まるので、イエス様が十字架から降ろされた金曜日の午前3時から安息日まで残り3時間しかなかった。そのため、ユダヤの人々は、安息日に死体が十字架の上に残らないようにするため、その脚を折ってとりおろしてほしいとピラトに願い出たのです。イエスの死体は、そのままなら、エルサレムの南にあるヒンノムの谷(地獄の語源ゲヘナに通ずる言葉)に投げ捨てられるところが、そこに、アリマタヤのヨセフとニコデモという人物が立ち上がります。

アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出たのです。また一緒にいたニコデモという人も、夜イエスのところに来て、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを百リトラほど持ってきたと書かれています。まず1人目のアリマタヤのヨセフは、エルサレムの北西の町アリマタヤ出身の人物で、ユダヤ議会サンヘドリンの議員であったが、イエス様を殺そうとする他の議員たちの計画や行動に同意せず、神の国を待ち望んでいた人物で、善良で正しい人そして金持ちであった。もう1人のニコデモも、サンヘドリンの議員で、当時の律法の学校の校長先生もしていた人物で、2人とも、当時のユダヤ社会でエリートと呼ばれる人でした。ニコデモは、ヨハネの福音書でイエスと議論を交わし、イエスを逮捕しようとする他の議員に苦言を呈しています。この2人の共通点は、2人ともイエスの弟子であり、イエスをメシアとしては信じていたんだけれども、議員の大半が反イエスの中、イエスを支持することは、自らの地位や命を失う可能性があったので、なかなかその信仰を公にできなかったという点です。しかし、そんな彼らが、大胆にもイエス様の遺体の引き渡しをピラトに申し出ます。これは、自らの信仰を公にする行為であり、イエスは、アリマタヤのヨセフの墓に埋葬され、イザヤ書の「メシアの墓が、富む者と共に設けられる。」という預言が成就したのです。

2.なぜ彼らは変えられたのか?

 では、2人はなぜ自分の信仰を公にするよう変えられたのか。それはこの時、彼らがイエスこそメシアである。その強い確信を持っていたからです。イエスは、ニコデモとの対話の中で、出エジプト時にモーセが神の命令により、青銅の蛇を作って掲げ、それを仰ぎ見た者は癒され救われるという古事を引用しましたが、それはやがて来るメシアが、罪のない者であるために、十字架に付いて死ぬ。そして、その十字架を仰ぎ見た者は救われる。そのイエス様の十字架の予表となっている出来事だったのを思い出したからです。アリマタヤのヨセフもイエス様が自分を十字架に付けた者のために祈られる姿や、地震が起こり神殿の幕が裂けた。そのような不思議な出来事を通して、イエスこそメシアであったという確信に導かれ、2人は変えられ、この時立ち上がったのです。

3.神の時に立ち上がる

 この2人の信仰は、決して強い信仰ではありませんでした。彼らは、イエス様の十字架を見上げた時に、自分に向けられたイエス様の大きな愛で満たされたわけです。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。<Ⅰヨハネ4:18>」日本では、クリスチャンは少数派であり、様々な変な宗教のニュースが取り上げられる中で、クリスチャンであることを公言できない人もいるかもしれない。しかし、私たちはそのような時に、イエス様が、私たちに示してくださった十字架の愛に目を向けるものでありたいと思います。私たちが私たちに向けられたその十字架の愛に満たされるならば、恐れや不安は取り去られるからです。私たちも、この2人の姿から勇気をもらい、最後までこのイエス様への信仰を守り通す。そのような者でありたいと思います。(T・H)

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