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牧師夫人の徒然なるままに(七六七) 「信仰の真髄・たとえそうでなくても」(ダニ3・18)

 半世紀の昔、イエスさまと出会って喜びにあふれていた私は、帰省した折に小中学校時代の友人にイエスさまから頂いている恵みの数々をとうとうと語り続けました。まだ、信仰の幼児だった私は、イエスさまと共に歩む人生はバラ色でしかないと思えていました。「そんな良いことばかりの宗教なんて信頼できないわ」と友人は冷たく突き放しました。
 なるほど、友人の言葉通りだったと、今は分かりますが、救われた当初、有頂天の私は現世の祝福を想定することだけで精いっぱいでした。
 その後、お隣の韓国でリバイバルが起こりました。世界最大の教会の牧師が「三拍子の祝福」(Ⅲヨハネ2)を提唱して、キリスト教も現世での祝福を拒んではいないことを広めました。一時期、この三拍子の祝福の流れが日本の教会でも大流行しました。この教えは決して間違ってはいないのでしょうが、聖書六六巻の示す全体メッセージのほんの一部でしかないと思います。
 この幾世紀、どれほど多くの人々が約束の御国を望み見て殉教したでしょうか。しっかりと天を仰ぎ見つつ、この世の苦難を喜び耐えたことでしょうか。バビロンに連れ去られたシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのように「たとえそうでなくても」が信仰の真髄です。信仰の成熟は、そこへと導いてくれます。

安食道子


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