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大角牧師の今日も"舌"好調 第5回「わたしだ。おそれることはない!」


 先ごろ亡くなられた脚本家の橋田寿賀子さんは、ご自分の書く脚本の一字一句に心を込めておられたので、役者が「てにをは」を間違えただけでも注意されたそうです。
 私たちの読んでいる聖書はヘブル語やギリシャ語の原典を日本語に訳したものですから、当然原語のニュアンスを表現することには限界があります。ですから原語で読むと、日本語には訳出されていない部分が垣間見えて楽しくなります。
イエス様が山に登って一人父なる神様と交わっておられた間、湖に漕ぎ出した弟子たちの前に強風が立ちはだかりました。ガリラヤ湖はすり鉢状の地形の底に位置しているため、時折そんな突風が吹き下ろしてくるのです。

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 「荒れ始めた」(ヨハネ6:18)と訳されたことばの「荒れる」には、天候が荒れるという意味の他に、「起こす」とか「目を覚まさせる」という意味があります。誰しも嵐はいやですが、神様は時折、私たちの心の目を覚まさせるために、人生に嵐を起こさせるのです。
 あたりは暗くなり、強風のため小舟はまったく前に進みません。しかもいつもはともにいてくださるイエス様も不在です。主がいて下さったら彼らも平気だったでしょう。安心していられたと思います。みなさんにも、漆黒の闇と逆風の中で「主はどこに行かれたのか?」「いてくだされば怖くはないのに…」と感じたことがあったのではないでしょうか。
 その時主は、山の上から湖上で苦しむ弟子たちの様子を見おろしておられました。「高みの見物」です。そんなイエス様の姿に気づいていたら、弟子たちはきっと「なんて薄情なんだろう。一番いてほしい時にいてくれなきゃ、意味ないじゃん」と思ったことでしょう。
 湖の真ん中で立ち往生して不安に怯えていた弟子たちは、さらに恐怖を味わうことになります。真っ暗な湖の上を白い衣を着た誰かが近づいてきたのです。恐ろしさのあまり思わず叫び声を上げる彼らに、荒れ狂う波間から耳慣れた声が聞こえてきます
 「わたしだ。恐れることはない」。愛する主のお声です。「わたしだ」の原語は「エゴ―・エイミー」で、ヨハネの福音書で何度も用いられています。
 英語に直すと「I am」。日本語なら「私はある」です。イエス様はあえてこのことばを使うことで、燃える柴の中からモーセに現れ、「『わたしはある』という者である」とおっしゃったお方とご自分が同一の存在であることを明らかにされました。
 「わたしだ」とおっしゃる度に、イエス様は「わたしは、モーセに現れた神である。わたしこそ永遠から永遠までずっと存在し続けるまことの神である」と宣言されていたのです。
 権威に満ちた主のおことばに触れて、俄然勇気が湧いてきた「彼らは、イエスを喜んで舟に迎え」(6:21)ます。
 この訳だと、イエス様を舟の中に招き入れた感じですが、原語では「迎え入れようとした」としか書かれていません。はっきり「迎えた」とは書かれていないのです。しかも「迎えた」と次の文の間にある接続詞(順接と逆接の両方の意味を持つ)を逆接にとると、「迎え入れようとしたが、まだ乗り込まないうちに、すぐに向こう岸に着いた」と訳すこともできるのです。

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 イエス様は舟にお乗りになったのか、ならなかったのか?私は乗らなかったと思います。弟子たちには主のことばだけで十分でした。主のお声が彼らの恐れを吹き飛ばしていたからです。
 主が乗り込まれなくても、彼らにとっては乗ってくださったも同然でした。そんな安心感からか、あっという間に向こう岸に着いた気がしたのではないでしょうか。
 残念ながら、私たちは目に見える形でイエス様と人生を同舟することはできません。それでも主のことばがあれば、それを握っていれば、長い嵐の時間も一瞬の如しです。2000年前の主のことばは今も生きているので、私たちは勇気と希望を持つことができるのです。

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