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人生のピースを拾い集める

「老人ホームも、ちょっと元気なうちから入って、段々慣れていったほうがいいのかな~?」

「もし、口からご飯が食べれなかったとき、私は胃ろうとか希望しない。何にもしなくていい。」

最近母とこんなことを話す。私は24歳、母は54歳。その時のことを考えるにはちと早すぎないかい、とは思う。でも、『その時』は必ずやってくることを、母は知っている。

私が20歳になるころには、母方父方の祖父母、近くの親戚の年寄り2人亡くなっていた。不謹慎な言い方であるが、親戚の年寄りたちが全滅してしまった。思春期真っ盛りな私と妹を育てながら、母は介護を一手に引き受けてきた。父もいたが仕事に忙しく、母と父にはそれぞれ弟がいたが二人とも独身でフラフラしていたため、とてもじゃないけど人の面倒をみれる状態でなかった。

母は心身ともに強くないので外で働くのにはあまり向いていない。家庭にいる母が、必然的に親戚一同の老後をみることになった。

すごいことだと、今になって深く思う。

***

私は現在、特別養護老人ホームで働いている。新卒で入った営業の仕事を1年ぽっきりで辞めてしまい、福祉の道へとシフトチェンジした。まあでも、中学生の時の将来の夢はケアマネになることだったので、戻ってきただけかもしれない。ケアマネになりたかったのも、今介護の仕事をしているのも、周りの年寄りたちと母の影響がすごく大きい。

先日、仕事先の入居者のターミナル面談が行われていた。体重も落ちてきて、寝ている時間も増えてきた。医師がそろそろ話しておいた方がいいだろう、とのことだった。

食べれなくなったら経管栄養は?救急搬送は?心臓マッサージは?希望しますか?どうしますか?

本人に意思確認は難しいので、キーパーソンになっている人が代わりに回答する。

私は立ち会ったわけではないので、その記録をパソコンで読んでいた。

「そんなこと突然決めろ、って言われたってわかんないですよ・・・。」

キーパーソンの回答はそんな感じだった。そりゃ、そうだ、と思う。そんな「いつか」のことなんて、来るとは薄々知ってはいたけど、いざ目の前にやってくると、立ちすくんでしまう。

大切な人の最期を私が決めるなんて・・・・。

私の叔母のはなし

私の叔母(通称:おばちゃん)は生涯独身で、今から10年前の8月の最終日自宅でうつぶせになって一人死んでいた。

倒れた際に口を切ったらしい。みどりのカーペットについた赤い血がリアルだった。「なかなか落ちねーな」と親戚がこすっていた。

おばちゃんが死んでいるのを発見したのは、おばちゃんが信仰している宗教の信者仲間だった。

おばちゃんのゴミ出し手伝おうかなと思って朝来てくれたらしい。そこでなにかおかしいぞ、と気づいた。その人は電話を持っていなかったので、近所の政治家の家によぼよぼの足でできるだけ早く歩き、知らせにいったそうだ。そして通報され死んでいるのがわかった。夏の暑い日だったから発見が早くて本当によかった。

通報してくださった方は、90近く、目もほとんど見えなくて、独居で、家には冷房も無いらしい。面倒見がいい叔母は、よく家に招いて涼ませたりお茶をだしたりしていた。

自分もたくさんお世話になったから。そしてまた、お世話になる時があるから。

おばちゃんはそんな人だった。

自分が独居で高齢で、いつか面倒をかけてしまう時があるかもしれないからと、近所の人に頭を下げ、物を送ったり、鍵を預けたりしていた。訪問介護や訪問看護といった福祉サービスも自ら繋がりにいき利用していた。

まだ元気なうちにと、残してほしいものは段ボール一箱にまとめ、それ以外はコツコツ捨てていた。

おばちゃんの家に遊びに行く度に物が少しずつ減っていたのが少し寂しかった。

遺影も自分で決めていた。あまりに若すぎる写真だったので、これでいいのか?と親戚で議論になった。でもおばちゃんが決めたことだからこれでいこう、となった。知っているおばちゃんじゃないみたいで、お葬式の時少し笑ってしまった。

それはまだ、「終活」という言葉が流行る前だったと思う。

自分でやがて訪れる『その時』を考えて動いていたのだ。

「おばちゃんはなんでも自分で決めていたから、それを手伝うだけ、って感じだったかな。入院とかも自分で決めてたし。」と母は言っていた。独身だったからの覚悟もあったんだと思う、とも。

福祉界隈でよくきくワード、「住み慣れた地域で最後まで自分らしく暮らす」、を体現したような人だった。

おばちゃんは最後まで認知面がしっかりしていたので、自分で決めることができた。もし認知面が衰えてしまっていたら?そこまで考えていたのかはわからない。

おばちゃんは毎年同じ手帳を買い、毎日日記をつけていた。何十年にわたって。おばちゃんの認知面が下がってしまって、私たちがおばちゃんの今後を考えないといけなくなったとしても、きっとその手帳にヒントを残してくれてたと思う。

おばちゃんは、そういう人だった。

おばあちゃんの話

「おばあちゃんとは人生会議をしたいと思ってたけど、何度も『その時はその時よ』って流されてしまった。」とお母さんは言っていた。

『その時』はたしかに来た。でも『その時』を『その時よ』とするにはあまりに重たかった。そもそもおばあちゃんが思ってた『その時よ』ってどんなイメージだったんだろう。

おばあちゃんは今から7年前の1月末に、埼玉の有料老人ホームで亡くなった。

その時私たち家族はお父さんの転勤で広島県に住んでいた。年始にお母さんとおばあちゃんに会いにいこうと思っていた。その日、運悪く新幹線の沿線で火災が起こってしまい、新幹線は来ず。4時間近く待ったけど動かずその日は諦めることにした。

でも会いに行くことを諦めきれず、次の日私とお父さんで新幹線の自由席を買って行くことにした。混んでて座れないことが予想されたので、お母さんは身体に自信がないということで諦めた。

そしてその後おばあちゃんは死んだ。

お母さんは相当辛かったと思う。会えなかったこともそうだけど、おばあちゃんが心臓悪くしたのを皮切りに、死までの時間は中々に壮絶だった。お母さんはおばあちゃんの死に対してまだうまく着地できていない。

きっかけは心臓カテーテルの手術だった。手術前に、「一定の確率で悪い結果が生じることになりますけどいいですか?」といった同意書にサインした。そして、その悪い結果が生じることになってしまった。

ICUで生きるか死ぬかの峠を越え、奇跡的に退院した。ICUを出るときは、拍手で送られたようだ。でもおばあちゃんの人生はここからまた、壮絶な道がスタートする。「ここで死ねてた方が楽だったかもしれない」ともお母さんは言っていた。

そこからおばあちゃんはリウマチ、圧迫骨折、舌がん、胃がん、とたくさんの病と闘っていくことになる。

状態がよくなると「家で見れないんですか?」とケアマネに問い立てられ、広島の家で一緒に住んでいた時期もあった。父方の父と、母方の母と、小学生の妹と中学生の私と、父、母。ちょっと不思議な同居家族だった。

おばあちゃんは東京の下町育ちでずっと東京で暮らし、お母さんの弟と暮らしていた。お母さんの弟も仕事で忙しく(ずっと定職についていなかったが、おばあちゃんが病気する前後でやっと定職についた)、中々おばあちゃんをみれる状況でなかった。

私たちも東京に住んでいた時はおばあちゃんの家が歩いて5分くらいだったのでちょくちょく様子を見に行けたけど、お父さんの転勤で広島に行ってしまったため難しくなった。でも東京だと誰も見る人がいないので、広島に来てもらうことになった。

お母さんが必然的に介護を担うことになった。慣れない土地で義理の父と実の母を見ながら思春期の子どもたちも育てる。お母さんも限界だった。結局おばあちゃんは1年くらいで東京へと帰ることになった。

そこから病院や有料老人ホームを行き来した。

環境が劣悪な病院で過ごしたこともあった。汗だくの衣服は取り換えてもらえず、お尻はぞうきんで拭かれ、口の中はいつも汚かった。食事も食べさせてもらえず、お母さんの弟が夜遅くお見舞いに行くと食事が出しっぱなしだった。

その時おばあちゃんはこう言ったそうだ。

「私はもう粗大ごみみたいなものだから、早く捨ててほしい」

死にたくても死ねない。ただ続く限り呼吸を繰り返して過ごす日々はどんな思いだったんだろう。

家族が知らない間に経鼻栄養になっていた。

いつも苦しそうにしてた、とお母さんは言っていた。

最後有料老人ホームで亡くなった時もその時の状況はよくわかっていない。職員が訪室したら心肺停止していたそうだ。

私はこの話どう終わらせればいいのかわからない。お母さんは今もおばあちゃんの死を引き摺っている。あの時東京に帰さなければ。もっと私がみれていたら。おばあちゃんは、どうしたかったんだろう。おばあちゃんは、死ぬとき何を思ったんだろう。

そう、わからない。

今私が思うこと

おばちゃんとおばあちゃんの話は対照的だけど、条件状況が大きく異なる。おばちゃんは独身で一人で死ぬ覚悟があり、おばあちゃんは家族がいてどこかでみてくれるだろうとのんきにかまえていたところがあったと思う。

やっぱり自分の大切な人は、大切にされる環境で、自分の人生を大切に思ってほしい。そして本人の思うように生きてほしい、と願ってしまう。

大切な人がどう生きたいと思ったのか。それを知れていれば、亡くなった時、残された人もちゃんと着地できると思う。「おばちゃん、最後まで自分で守ってきた家で過ごせてよかったね。」てな風に。

でも、知らないと永遠にわからないのだ。残された人は本当によかったのだろうか、とうまく着地できずにいる。本当の答えなんてきっと無いんだろうけど、おばあちゃんの人生の埋められなかった空白に目が向いて今の人生をうまく歩けない。

特養で働いて、初めて人を看取った時思ったことがる。

ああ、この人は生き切ったんだな、って。

入居者たちはたしかに死に近いけど、死にゆく人ではなく、生き切る人たちだと思う。残りの人生をどう生きるか。その人らしい暮らしを整えていくことが今の私の仕事だ。

人生会議も、『どう死ぬか』、ではなく、『どう生きたいか』、ということなんだと思う。

***

今年のお正月、covid19の流行で家族や親戚と会えなかったのでzoomで新年会をした。

そこで思い切って聞いてみた。「こうして食べれなくなったとき、胃ろうとかそういうものは希望する?」

お母さんの弟は今後の話をするとほぼ10発10中で話を逸らす。今回も「おばあちゃん鼻からやってて苦しそうだったしな~。あ、そういえば今年も七福神制覇してた、毎年買ってる手帳にスタンプ押したんだよ~!毎年同じ手帳を買っててさ、日記書いているんだよね~」と話は手帳の話へ。

でも、この話から経管栄養にポジティブなイメージは持っていないこと、手帳に人生のヒントが隠されていることがわかった。

上手く人生会議はできなかったけど、懲りずに続けていきたいと思う。

今はよくわからないピースを拾い集めておいて、いつか『その時』がきたら、当てはめられるように。

#わたしたちの人生会議


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