きゅんきゅん魅瑠愚天『戦場の生活』について

2017.7.10最終編集:facebookから転載

2013年の8月1日から31日まで毎朝、出町柳の三角州にて、「朝日の昇る頃〜ラジオ体操の時間」まで、具体的には朝4:30〜6:00まで行われていたインスタレーションパフォーマンス。
宗岡ルリという名前で活動していた人が、宗岡ルリを封じて、本名・宗岡茉侑として自身のユニット「きゅんきゅん魅瑠愚天(みるくてん)」と名乗り行った企画。

毎朝4:30から太陽の昇る方角(東)に礼拝するところからパフォーマンスは始まる。メトロノームのような一定の電子音に合わせて、万歳〜礼〜平伏を繰り返す。「おはようございます」と声が発せられて、一日が始まる。
宗岡は「天使さま」という人物に恋をしている。とても大変そうな恋だ。そのために、共演する吉田樹生、高山涼にラブレターを代筆させる。様々な宗岡の所有する本(恐らく愛読書)から引用しつつ、代筆のラブレターを一ヶ月間紡ぐ。代筆されたラブレターを読み上げ、決められた台詞を宗岡が読みながら三角州を徘徊したりする時間があり、その後、その日その日のワーク(自由研究)をする。台詞の掛け合い、写真撮影、スイカ割り、ドラッグについての講習会、ゴミ拾い、などなど。
ワークのあとは再び台詞を言う時間、そしてそのあとはラジオ体操をする。ラジオ体操が終わったら唐突に台詞のやり取りがある。

「昨日の夜、帰ってきました」
「手紙、さっき読みましたよ」
「帰ってきたばかりで、暫くはバタバタするんですけれど、よかったら明後日少しだけ会えませんか」
「わかりました」
「大好きです」
「僕も、大好きです」
「よかった。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ よろしくお願いします」
(嶽本野ばら著『エミリー』併載『コルセット』からの一節)

このように、未完成の雰囲気のままの手紙のやり取りが毎日繰り返される。

これを数回繰り返して6:00になり終了する。
ただこれだけである。

この企画は演劇の公演ではなくて、「インスタレーションパフォーマンス」「夏の自由研究」と銘打たれている。まず、一般的に公演というと、客席-舞台上という関係が生まれ、いくら能動的に観客が在ろうとしても与えられる-与えるという構造からはなかなか抜け出せないところがある。客席-舞台上という構図もあるし、日常-非日常という構造もそこにはある。しかしこの企画は、その構造からの脱却、あるいはそもそもそのステージに上がらないようにする仕組みのもと、行われる。つまり、 パフォーマンスを行う演者(宗岡)自身も「観る者」として、三角州に訪れた観客(と自称する人々)と同じ地平でパフォーマンスを試みようとしていたのだ。三角州の上で繰り広げられる光景を橋の上から眺めて見てほしい。そこには奇怪な行動をとる者(出演者)を観る同じく奇怪な集団(観客)が、等しく併置されているのだ。

まずこの文章では、一般的に演劇を、観る者-観られる者の関係性で捉えると仮定する。
舞台上で起こることを客席から読み取り、脳内でその「与えられた情報」をツールに組み立てていく。言い方を変えれば、観客とは、「情報を与えてくれるべきだ」と考えており、それは「身勝手な暴力性」とも捉えられることが可能なのではないか。さらにそれは、自分は身体的な拘束をされた弱者(客席から動けない)であることを盾に、具体的な暴力ではなく意識/認知の上で行われる暴力である。ここではこれを観客が舞台上を従属させる暴力の構図【観客→舞台上暴力】とよぶ。
これについてはまず、作品の中で、宗岡自身が観客の地平にいることを自称することで舞台上から降りる(いやむしろ、舞台上にいないぞ、と明言する)宣言をし、「観客であることを自称」する。


一方で、その「観客であることを自称する宗岡」に、共演者の高山、吉田は演じることを強要される。(手紙の代筆、半ば強要されるように与えられるその日その日のパフォーマンス等)
それは先に述べた「情報の提供を、観られる者(舞台上)に、観る者(観客)から強要する」構図が適用される。

演劇とは基本的に観られる者(役者)が観る者(観客)に「観るもの」を「提供する」ものであるとする。舞台上にいる者は客席にいる者に、(能動性を要求する場合はあるにせよ)観るものを与えるし、観客は「与えられるために金銭を支払う」。
与える者と与えられるもの従属の構図【舞台上→観客従属】がここにある。

宗岡はこの【観客→舞台上暴力】【舞台上→観客従属】のふたつの構図/関係性を突き崩し、「観客による創造と、舞台上へ観客が与える暴力性」を自らその暴力性を体現することで可視化しようと試みた。

因みにこの場合、共演者の高山涼と吉田樹生は、来場者を含めたこの空間の中で唯一の「情報を受け取る者」となり、つまりそれはここまでの仮定を踏まえると、この公演において唯一「観客」と名付けることができる。

ここで観客と俳優の立場が逆転する。つまり、この公演において、与えられる立場(高山・吉田)と与える立場(観客と宗岡)が逆転していたのだ。


つづく、としたまま書ききれなかった。途中のまま掲載します。2020.3.12

動画一覧

↑2013年8月1日

↑2013年8月4日

↑2013年8月16日

↑2013年8月20日

↑2013年8月21日

↑2013年8月26日※これなど顕著で、主宰であるにもかかわらず”観客”である宗岡本人は会場に現れなかった が、観られる立場であり被行為者の高山さんがいれば、実際のところ場は成立したのだ

※本文の最終編集は2017.7.10

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?