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有隣堂古書部について調査をしてみる 2

今回のお題

さて、前回の「有隣堂古書部について調査をしてみる」からしばらく経ってしまった。今回は有隣堂の社史を読み比べていこうと思う。本題から少しそれるような形になるのはご容赦願いたい。

有隣堂の社史確保状況

日本の古本屋にて『有隣堂七十年史』と『有隣堂百年史』を確保することができ、手元には『有隣堂七十年史』(以降『七十年史』)、『有隣堂八十年史』(以降『八十年史』)、『有隣堂100年史』(以降『百年史』)の3冊が揃った。
『有隣堂小史 創業者を偲びて』(以降『小史』)については手元に確保することができなかった(本稿執筆時点(2022/09/23)では日本の古本屋にもない)。しかし、『小史』については国会図書館に収蔵されているため、閲覧をしてきたが、古書部についての言及はなかった。また、『七十年史』も同様に古書部について記述がなかった。そのため、本稿では『小史』については取り扱わず、もっぱら、『八十年史』、『百年史』の記述を取り扱うこととする。有隣堂に関しての社史のうち、主要な3冊を確保できたので、多少は調査を進めることができるだろう、と思う。
ちなみに上記4冊は、横浜市立図書館には収蔵されているため、横浜市に在住、通学、勤務している方なら比較的容易に閲覧は可能、なはず。

社史の読み比べ

さて、ここからは『八十年史』、『百年史』の2冊を読み比べていこうと思う。今回は有隣堂古書部の開設と閉鎖の部分とする。

古書部開設

まずは古書部開設について。『八十年史』、『百年史』の年表には両方とも以下の記述がある。

1935(昭和10)年 松信大助、このころ有隣食堂を廃止し、2階に古書部を開設

『有隣堂八十年史』

1935(昭和10)年12月26日 松信大助、このころ有隣食堂を廃止し、2階に古書部を開設

『有隣堂100年史』

古書部開設について、本文は以下のような記述である。

(前略)
大助は、なぜか突然食堂を廃止し、2階に古書部を設けることにする。昭和10年12月26日、有隣堂古書部が有隣堂2階に誕生したことが、横浜貿易新報に広告されている。錦絵その他と一般書籍を扱う「古書の市」を常設し、有隣食堂の営業を廃止したのである。大助は有隣堂古書部の運営を天保道と一味堂の協力を得て、昭和16年頃まで続けていた。

『有隣堂八十年史』

(前略)
大助は、有隣食堂をなぜか突然休業し、2階に古書部を設けることにする。ただし、その時期については諸説あってはっきりしない。横浜貿易新報
の昭和10年12月26日号に、有隣堂古書部が有隣堂2階に誕生したことが広告されている。
(中略)
『神奈川古書組合三十五年史』には、有隣堂の2階で不定期に「京浜聯合古書即売展覧会」の名前で何年かにわたって開催してきた古書展覧会が好評を博していたため、「半長期に亙り有隣堂古書部として陳列展覧即売を開始致し」という、年未詳ながらも9月24日付けの天保堂(篠田亮一)の挨拶状が紹介されている。

『有隣堂100年史』

松信大助が突如として有隣食堂をやめ、古書部に変えた部分は記述に相違ないが、開設時期については『百年史』では「諸説あってはっきりしない」としている。しかしながら年表において「1935(昭和10)年12月26日」と具体的な時期を置いている。この「1935(昭和10)年12月26日」は横浜貿易新報にて有隣堂古書部の広告が掲載された日であり、この日を便宜的に有隣堂古書部開設日としたのだろう。「諸説あってはっきりしない」と書きながら年表には具体的な日付を入れておくのは……うーん……というのが正直な感想である。
ちなみに古書部開設前の古本市については、『八十年史』、『百年史』ともに1932(昭和7)年12月に2階で「和漢用古書即売展覧会」が行われたことを確認できる。
なお、『神奈川古書組合三十五年史』内の記述は『八十年史』を引用している箇所がある。

古書部閉店

次に古書部の閉店について。『八十年史』の年表には記述がないが、『百年史』の年表に以下の記述がある。

1942(昭和17)年8月 2階の古書部を廃止

『有隣堂100年史』

とてもシンプルな記述である。
では、本文ではどのような記載がされているか、見ていくことにする。

(前略)
大助は有隣堂古書部の運営を天保堂と一味堂の協力を得て、昭和16年頃まで続けられていた。
(中略)
なお、「古本の市」を廃止したのちは、工学書、登山・運動用具、模型航空機、画材などの売り場にあてられた。

『有隣堂八十年史』

大助は有隣堂古書部の運営を天保堂と一味堂書店の協力を得て、昭和17年(1942)8月頃まで続けていた。

『有隣堂100年史』

『八十年史』と『百年史』の間の20年で新たな資料が見つかったからなのか、『百年史』では続けていた時期についてより具体的になった。『八十年史』と『百年史』で古書部営業期間の根拠となる資料が明示されていないため、これ以上は閉店についてわからない。『八十年史』と『百年史』ともにこの記述の根拠となった資料が何なのか、詳細を調べてみたいところである。社内報『有鄰』をすべて読めばいいのか、それとも他の資料なのか、よくわからない。
と思いつつ、有隣堂のサイトにて『有鄰』のweb版がいくらか読める(正直『有鄰』全号読むべきなんだろうけど取り急ぎということでご容赦を。ありがたいことに合本が横浜市立図書館の収蔵されているのでそのうち目を通しておきたい。)ので、古書部に言及している記事を読んでみると、以下のような記述があった。

松信 昭和16年8月に、古書部を廃止して工学書売場をつくり、さらに、「慰問品種々取揃」とありますから、やっぱり機を見るに敏だったんじゃないでしょうかね。

開戦前日の12月7日には、「航空模型機部」をつくったという広告を出しているんです。その翌日の8日に真珠湾攻撃ですからね。このタイミングは私には信じられないですよ。

[座談会]有隣堂の100年 —地域とともに
『有鄰』500号(2009年7月21日発行)

『百年史』発刊5ヶ月前の記事であるが、ここでは古書部廃止について『昭和16年8月』と当時の有隣堂社長(現在は取締役会長)松信裕氏は言っている。果たしてどれが古書部閉店について正しいのか、まったくわからなくなってしまった……
有隣堂さん、そこんとこどうなんですかね……?

おまけ 山手学院と有隣堂

横浜市にある私立の学校、山手学院。もしかすると神奈川・東京に在住(もしくは在住だった)方の中で志望した学校に入っている方がいるかもしれない。
『七十年史』を読んでいたら、このような記述を見つけた。

故人は有隣堂の経営のほかに(中略)学校法人山手英学院理事長も兼ねていた

『有隣堂七十年史』

ここの「故人」とは松信大助のことである。
さて、この「山手英学院」というものを調べてみると、山手学院の同窓会サイトに以下のような記述を発見した。

昭和23年には 「 山手英学院 」 と改称、各種学校として認可を受ける。 24年には日ノ出町に土地を買収、初めて専用校舎を所有した。昭和25年には 「 学校法人山手英学院 」 を設立。初代理事長には姉弟の父、松信大助有隣堂社長が就任した。

山手学院25年の歩み

さてこの山手英学校、創設者の名前が「江守節子」とある。また、「松信幹雄」という人物も名前が出てきている。
江守節子と松信幹雄について、『百年史』を見ると以下の記述を見つけた。

江守節子 社員 昭和31年8月 監査役 昭和32年2月
     非常勤取締役 昭和38年3月~昭和59年11月

松信幹雄 社員 昭和31年8月 監査役 昭和32年2月
     非常勤取締役 昭和40年3月~昭和59年11月

『有隣堂100年史』

有隣堂の役員をやっていたことがわかる。山手学院同窓会のページには、松信大助の系譜が載っており、そこを参照すると、江守節子は松信大助の長女、松信幹雄は七男であることがわかる。
山手学院の創設に有隣堂創業一族が関わっているということに驚いた。
ちなみに現在の山手学院理事長である篠﨑孝子氏(松信大助次女)について『百年史』では以下の記載がある。

篠﨑孝子(松信) 社員 昭和31年8月 監査役 昭和32年2月
常務取締役 昭和37年3月 専務取締役 昭和62年11月 
取締役副社長 平成3年11月
代表取締役社長 平成7年11月
代表取締役会長 平成11年11月~平成15年11月

『有隣堂100年史』

今回参考に閲覧した山手学院同窓会のサイトは以下。


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