私は「好き」という資格がない

私の言う「好き」と、みんなの言う「好き」がなんとな~く違うなってことは薄々感じてた。ただ、そこにどういう違いがあるのか、分かってなかった。やっと分かって来たぞ。

私は「好き」なものがいっぱいあんのよ。小説、映画、アイドル、お笑い、エンタメと呼ばれるものは大体好き。でも、「小説好き」の人とか「映画好き」の人と喋っててもなんか話が噛み合わん。私が馬鹿だからかな~と思ってたけど、なんかそういうこと以前に、もっと根本的なところに違いがあったみたい。

私が好きなのは、「私が私じゃなくなる瞬間」であって、「コンテンツ」ではねえな、さては。

一番最初に「なんか違うな」って思ったのは、「映画好き」の人と喋ってる時。私も映画大好きだったから、喋ろうと思ったのよ。そしたら開口一番、「最近観た映画で何が好き? 今までで一番好きな映画は?」って聞かれて、私は頭がハテナだらけになったわけ。
一番……? 好きな……? 映画……?
とりあえず腑に落ちないまま、その頃全ての台詞を暗記するほど観てた「トイストーリー」の名前を出したんやけどもさ。台詞を暗記しているからと言って、それが一番好きな映画かと聞かれたら、確実にそうではないわな。でも、じゃあ何が一番好きなんやと聞かれると分からない。で、そこでやっと気付く。なるほど、映画好きな人は「一番好きな映画」ってのを持ってんのかと。

よくよく思い返してみれば、自己紹介で「小説好きです」って言うたら同じようなことを聞かれたのを思い出す。「おすすめの小説は?」も聞かれたことがある。でも、その度に頭がハテナまみれになった。
一番とか、無い。ていうか、正直、これまで読んだ小説のあらすじとかろくに覚えてない。

で、こないだ風呂に入ってるときにようやく気付いたんよね。多分私、「映画好き」でも「小説好き」でもない。確かに映画も小説も好きやけど、それは「映画」とか「小説」が好きなわけじゃなくて、「映画を観ている時間」とか「小説を読んでいる時間」が好きだったんだなと。だからナンバーワンを決めることも、あらすじを説明することも出来んかったんだわ。で、それってどういうことなのかって考えた時に最終行きついた答えは、「自分が自分じゃなくなる、あるいは自分が自分であることを忘れられる時間」が好きだったんだと思う。

そう考えると腑に落ちる。
小説を読んでいる時間は、私は「私」じゃなくて、主人公に感情移入していたり、文章を理解することだけに集中してる。映画、ドラマもそう。
音楽を聴いている時間も、歌詞やその音の流れに乗ってるから、私が「私」であることを忘れられる。
お笑いだって、腹抱えて笑ってる間は自分が自分であることなんかどうでもいい。
アイドルのライブに行ってる時なんか、ほとんど自我なんてないようなもん。

それは逆を返せば、「自分以外の場所に注意を集中できる時間なら何でもいい」ってことになる。だから別に、特段小説というコンテンツ自体を重要視しているわけでも、映画というコンテンツの全てを知りたいと思っているわけでも、音楽の歴史を紐解きたいと思っているわけでもない。だから、そういうことには一切興味が無い。だから、「一番好き」とか「つまらない」とか、そういう感情が無い。ただ、私という人物のことを忘れられたらそれでいいだけ。

だから、こんなこと言うと本当に全部全部偽りになってしまうけど、私、映画とか小説とか観て、本当は感想なんかこれっぽっちも無いんやと思う。
映画を観たら小難しい感想を言わなければならない、小説を読んだら歴史として全部記憶しておかなければならない、と思うようになったから、メモを取ったり写真を撮ったり、noteに感想文を書いたりしてたけど。でも多分、それ全部偽りだわ。確かに沸き起こる感情を文字起こししたら今書いているような「感想文」にはなる。でもそれは「感想文」の域を出ることは一生無いんやと思う。評論とか、分析とか、そういう文章になることはこの先無いんだなってようやく気付いた。だって、根本の私はそういうのに一切興味のない人間なんやもんな。自分にしか興味が無い。自分という人間から逃げることにしか興味が無い。だから、こんなに好きだと思ってた映画や小説やお笑いやアイドルや何やらも、本当は全部好きじゃないのかもしれん。

最近めっきり映画を観なくなったのは、苦痛に感じるようになってしまったから。ここから何かを学ばなきゃいけない、過去の作品に結び付く種を見つけないといけない、全て記憶しておかないといけないと思ったら、どんどん映画を観ることから遠ざかった。メモを取るのも面倒臭いと思うようになった。音楽を聴くのも何となく面倒なのは、小説を借りてきたら「読まなきゃいけないのかあ」と思うようになってしまったのは、多分私が心の底からそれらのことを愛していないからだと思う。

これに気付いたら、ラクになると同時に、苦しくなっている。そうか、もしかしたら私はただ自分が現実逃避するための手段としてしか全てのものを見ていなかったのかもしれない。だとしたら薄情なもんよな。創作者としてどうなのかと思う。コンテンツ自体への愛が無いと悟ってしまったとき、コンテンツを生み出す資格はあんのかな。私は多分もう、「小説好き」を自称する資格が無い。

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