見出し画像

短編小説:青春症

 とある短編公募で一次すら通らず玉砕した短編小説。読み返したら色々ツッコミどころ満載で、リライトしようかとも思ったけど戒めのために応募したそのままの形で置いておくことにした。


 六月六日。晴れ。
「ねえ、寝れない」
「じゃあなんでここに来たんだ」
 呆れたようにそう言われて、私は仕方なくベッドに潜り込んだ。授業に戻る気は全くなかった。チーム球技はやりたくない。
「俺は向こうにいるから」
 先生はそう言うと、ベッドの周りを囲んでいるカーテンをしゃっと閉めた。
 この学校の養護教諭は男性だった。中学まで保健室の先生イコール女の人、と思い込んでいた私からすると、結構なカルチャーショックではあった。まあ三年も学校にいれば次第に慣れる。しかも、ここ最近は随分お世話になっている。単位はギリ取れるように計算してあるから大丈夫だ。
 さっきトイレで吐いた時の名残で、きりきりと喉が痛い。私は目を瞑って、大人しく夢を見ることにした。

「三井さ、何様なんだろうね」
 歩実が机にだらりと体を預けている。呼び捨てにしてはいるが、三井というのは一応数学の教師だ。先程歩実は、授業中に彼氏にメッセージを送っていたのがバレてスマホを取り上げられた。
「てめえの授業がクソだから悪いんだろって感じ」
 そう同調したのは奏絵。奏絵も昨日、三井先生に注意されていた。廊下でサイトに投稿する動画を撮っていたのが原因らしい。奏絵は特に目を付けられていて、化粧を落とせだの髪色を戻せだの、顔を合わす度に注意されている。
「私さ、明日の三井の授業出るの無理」
 歩実はそう言って舌打ちをした。
「ねえ、朱華も明日一緒にコンビニ行こうよ。どうせ単位は余裕なんでしょ」
「え、私が一緒に行く。どうせ誘ったって朱華行かねえじゃん」
「奏絵は授業出た方がいいよ、前のテスト、数学赤だったから卒業出来ねえかもよ」
 私は、二人が勝手に進めていく話を聞きながらスマホをいじっていた。最近、この二人と一緒にいるのが楽しくない。中学生の頃からずっと一緒にいる。だけど、別に一緒にいなきゃいけない決まりなんかないはずだ。だけど何故か休憩時間になると、二人は私の机の周りに集まる。子供っぽくてそういうのは本当に嫌い。
「朱華さあ、さっきから何やってんの? 彼氏でも出来た?」
 奏絵がスマホを覗き込んでくる。咄嗟に電源を切り、スマホをポケットに突っ込んだ。
「えっ、何で隠すの。さてはマジで彼氏?」
「違うし」
 私は適当にそう言い返す。
「勝手に覗き込んでこないでよ。プライバシーの侵害でしょ」
「いや、もううちらプライバシーもクソもないじゃん。全部筒抜け。一緒に風呂入った仲じゃん?」
 歩実が品なく笑う。ああめんどくさい。一緒に風呂に入ったのなんか、バスケ部の合宿の時の話だ。それを裸の付き合いみたいに言わないでほしい。仕方なくだ。私はさっと席を立つ。
「どこ行くの」
「トイレ」
 どこに行くにも一緒じゃないといけない。休憩時間は一緒にいなきゃいけない。誕生日にはサプライズ、彼氏が出来たら祝ってあげて、別れたら傷心旅行へ連れていく。写真を撮ったら、名前をタグ付けしてSNSにあげなきゃいけない。友情関係は、基本義務で成り立ってる。二人が、私も一緒にトイレに行く、と言い出さないうちに、私はさっさと避難する。

 胃が痛くて目が覚めた。うう、と唸り声を上げながら、ベッドの上で丸くなった。保健室独特の、消毒のようなつんとした匂い。しんとした部屋の中、足音が聞こえて、カーテンの境目が揺れる。
「大丈夫でーす」
 カーテンが開く前に、向こう側にいるであろう先生に向かってそう言う。めんどくさそうに、靴の音が遠ざかる。きい、と椅子が軋む音がする。私は、体育座りを横に倒したような姿勢で胃を宥める。ちょっとだけじわりと目頭が熱いのは、十中八九胃痛のせいだ。

【朱華が彼女だったらよかったのになー】
 スマホの画面に表示されたその台詞にはさすがに反吐が出た。何故ならこの会話相手には、ちゃんと彼女がいるからだ。それも、かなり美人な、年上の彼女。噂になってるから知ってる。なんなら、多分学年全員、こいつが彼女持ちなのを知っている。
【あんまそういうこと言わない方がいいよ】
 迷ったが、結局そうキーボードを叩いた。
【なんで?】
 返ってきた返事に、私は頭を抱える。
 ブロックする気が起きなかったのは、情けないことに私も彼に片想いをしていたからだ。松本夕陽、サッカー部キャプテン。気さくで、話が上手く、ナチュラルに優しい。おまけに顔もいいんだから、惚れない方がおかしいくらい。勿論私も、こいつの罠に嵌った。返ってくる返事に、喜んでいる自分がいた。認めたくはないけど。
【彼女いるんだから彼女を褒めな】
 わざとぶっきらぼうに、絵文字もスタンプも無しでそう返す。向こうからフェードアウトしてほしいと思っていた。わざと愛想悪くすることで、嫌ってほしかった。でも、嫌われるのも悲しかったし、もっと言えば彼女との惚気とか一番聞きたくなかった。
【彼女は可愛いよ】
 間髪入れずに、そう吹き出しが表示される。
【写真見る?】
 マジでいらない。とはさすがに言えないし、どう返そうかと返事を迷っている間に、次々に吹き出しが増える。惚気はいいから、と送信しようとした矢先、抵抗空しくツーショットが送られてきた。無意識の青春って本当に残酷だ。ため息が止まらない。目を瞑って何度もため息をつく。呪詛の言葉を、体の外に追い出すために。
【マジで可愛いじゃん】
 そう返信するのが精一杯だった。そして、返事が来る前に電源を切った。風呂に入ったふりをして未読無視することに決める。もう既にシャンプーの匂いがする髪の毛を、ぐしゃぐしゃと掻いた。
「くたばれ」
 思わず吐き出した言葉は、ため息では追い出しきれなかった呪詛だった。

「ちゃんと水分取れよ」
 急にカーテンの向こうから声が聞こえた。
「はーい」
 元気のいい返事はしつつ、私は水筒を開けただけで飲まなかった。水筒の水は、家を出た時から少しも減っていない。
「ねえ、先生。寝れない。なんか面白い話してよ。暇」
「暇なら授業に出たらどうだ」
「えー、それはめんどい」
 ベッドの上に胡坐をかいて先生を呼ぶと、しゃっとカーテンが開いた。黒い前髪をワックスでぴっちり固め、クソダサいベージュのズボンを履いている。白衣でギリ人権を保てている感じ。きっと彼女なんかいないし、多分友達もいなさそう。勝手にそんな想像をする。
「じゃあ君が面白い話をしてくれ、俺に」
 カーテンの隙間に立って、先生はそう言った。
「いや、私面白い話とか出来ないから」
「俺は毎日毎日ここでずっと同じ仕事しかしてない。面白い話なんかあると思うか? 君の方が面白い話を持ってるに決まってる」
 私は肩をすくめた。この先生はとにかく変わり者で有名だ。養護教諭のくせにスカートの丈にはうるさいし、話しかけても眉間に皺を寄せて嫌そうな顔をする。変人だし珍しい男性教諭だし、根も葉もない噂も馬鹿みたいに広められてる。だからみんな、緊急な時以外は極力保健室自体に近寄らない。静かに一人でいたい私にとっちゃ、それが好都合だったんだけど。
「分かった。じゃあ面白い話してあげる。超絶面白いから期待した方がいいよ」
「分かった。期待せずに聞いてやろう」
 先生はキャスター付きの椅子を引っ張ってきて、カーテンの向こう側に座った。横向きで座った先生の、鼻と睫毛と、組んだ足だけがカーテンの隙間から覗いている。
「じゃあ教えてあげる。青春症の話」
「セイシュンショウ?」
「そう、青春症。アオハルの症状で青春症ね」
 ふうん、と先生はつまらなさそうに爪の間を見ながら相槌を打った。適当に聞いてくれる方が、こっちも適当に話せて有難い。
「この学校の生徒はね、全員青春症にかかってんの。気持ちの悪い病気で、しかも人に伝染すんの。だから私は、それに感染しないようにいつもここに来てる。感染したらね、私もキモくなんの」
 そこまで言うと、先生はよそ見をしながらまた眉を顰めた。
「君の話には抽象的な言葉が多すぎるな。何をもって『キモい』と判断するんだ?」
 堅苦しくて聞きなれない言語に、私は思わず噴き出した。
「先生は思わないわけ? こいつらマジキモいなって」
「キモいと思ったことはない。一応これでも教員なんでな」
 クソ真面目。そりゃ面白い話も出来なさそうだ。ちょっと話す気が失せて、水筒の蓋を開けたり閉めたりしていると、先生がくるりとカーテンの隙間からこちらを見た。
「但し、学生時代は別だ。キモいとは思ったことはない。ただ、忌々しいと思ってはいた」
 黒縁眼鏡の奥の目が少し細くなる。私は、水筒をいじるのを中断して、先生と同じように目を細めた。
「忌々しい、ね。まあ似たようなもんなんじゃない? 先生の学生時代とおんなじ感じ」
 先生はまた私から目を逸らし、膝の上で書類作業を始めた。私と話すより大事な仕事はあるらしい。
「ねえ、病気だと思わない? みんな揃って同じことしかしないし」
「それが君の言う『アオハル』と何の関連性があるんだ」
「やることなすこと、全部青春のせいにするじゃん。友達と一緒にいるのも、彼氏作るのも、イベントの度にテンションぶっ壊れるのも、先生に逆らうのも、一度きりしかない青春を言い訳にするからマジでキモい。結局やりたいからやってるだけのくせに、その現象に名前があるみたいにみんな青春青春って言いまくるの、マジで意味分かんない」
 そこまで言って、私はまた吐き気に襲われる。急に黙った私の方を見て、先生が眉間に皺を寄せる。
「ゴミ箱はその下だ」
「あー、大丈夫。どうせ胃の中空で何も出ないから。昼飯抜いたし」
「飯は食え。なんで抜いた」
 ふうん。少しは養護教諭っぽく心配したりするんだなあと、ちょっと感心する。生徒のことなんかこれっぽっちも興味無さそうな顔して。
「んー、まあ、ダイエット?」
「断食は余計に太る」
「分かってるよ」
「水も飲んでないな、さっきから」
 え、と思わず言葉を止めた。
「蓋を開けたり閉めたりしてるだけだ。飲んでない」
 私は黙ったまま水筒に目を落とす。
「一応養護教諭なんでな。知識はある。君の右手には『吐きだこ』がある」
 咄嗟に隠そうとして、やめた。もうバレてるんだから、今更隠してもしょうがない。
「吐いてるな、食った後、意図的に」
 私はもう笑うしかなかった。
「先生凄いね、名探偵みたい。探偵事務所開けるよ、喫茶店の上とかで」
「分かりやすいんだよ、その手は」
 言われて、その通りだなあと思った。右手の甲、中指の関節部分が赤くなっている。もうしばらくこの手と付き合っている。しばらくは絆創膏で隠したりしていたけど、場所が場所だったからやめた。どっかで喧嘩でもしてると思われたら面倒だし。見た目がチャラいとは飽きるほど言われていたし、そんな噂が立つのもあり得ることだった。
「正直さあ、水もあんま飲めないんだよね、体重増える気がして。そりゃ誰かと食べるときはさ、食べなきゃノリ悪いじゃん? だから食べるけど、すぐトイレ行って吐くの。そしたらオールゼロになるし。結局見た目が第一じゃん。太ってたらもうそれだけで人権無いの、JKは」
 自虐の意味も込めて、語尾を強調した。先生は、何も答えない。
「面白いよね。恋愛とかマジでどうでもいいの、今は。けどさ、なんか傷ついたんだろうね。どうでもいいつもりなんだけどさ、なんかずっと取れないの。引っかかってるっていうか」
「失恋でもしたわけだ」
「失恋ってか、まだ始まってもなかったけどね。美人な人が彼女ですって見せられたらさあ、ああいう風にならないといけないんだって思うじゃん」
 赤くなった中指の関節を撫でる。言うなればこの赤は、私の勲章だ。私は戦ってきた。色んなものと。結局、負け続けているわけだけど。だけど一回くらいは勝ちたい。だから私は敵に反抗するためにここにいる。
「だからさ、余計にムカつくんだよね。何の悩みも無さそうな顔して、あったとしても青春のせいにしてへらへらしてるあいつら。一時の楽しみのためだけに生きてる感じ。とにかくあいつらは、青春っていう枠の中にいなきゃいけないと思ってる。だから、そのために必死で友達にいい顔したり、認めてもらうためにやべえことに手出したり、修学旅行の前に彼氏作ったりすんの。そんで、学生の間は何やってもいいって本気で信じてる。だから今のうちにやりたいこと全部やんなきゃって思ってる。高校生だろうが大人になろうが、やっちゃいけないことは一緒なのにさ。多分、一種の寄生虫か何かなんじゃない? 寄生されてるんだよ、何か得体のしれないものに」
 また胃から何かがせりあがってくる感じがして、私は口を閉ざす。天井を見上げて唾を飲み込んだ。細長い蛍光灯が眩しい。
「君の話はなかなか面白かった」
 先生が、ボールペンをノックしながら言う。
「そう? ありがと」
「だが、腑に落ちない点も沢山ある」
 顔は天井を仰いだまま、私は目だけで先生を見た。
「君の言い分はよく分かった。俺も学生時代同じように思ったことがある。だが、君は客観的に物事を見ることが出来ていない。学生時代の俺と、また同じようにな」
「もっと簡単に言ってよ。馬鹿だから分かんない」
 先生は書類を持って立ち上がり、それを丁寧にファイルに戻した。
「君は、彼らが青春症にかかっていると言ったな。つまり、彼らは全員右へ倣えで同じ行動を繰り返す上に、その行動自体は理にかなっていると言えない。その理にかなっていないことも、全て青春の名のせいにして、許された気になっている。しかも全員が、まるで何かに寄生されているかの如く『その輪の中にいなきゃいけない』と思っている」
「そうだよ」
「俺にはそれが矛盾しているように感じてならない」
「どういうこと?」
 ベッドに座り直して、私は聞く。先生もキャスター付きの椅子に座り直し、私たちは狭い部屋の中でようやく向かい合った。
「単刀直入に言おう。青春を謳歌している人間は、『青春という輪の中に入らなければならない』なんて考えない。何故なら、もう既にその中にいるからだ」
 私は何度か瞬きをした。やっぱりこの先生は難しい言葉ばかり使う。
「君は、この学校にいる多数の人間が、青春という言葉に囚われて生きていると思っている。でも実際はそうじゃない。彼らは囚われてなんかいない。青春というのは、彼らが作り出している物だからな」
 淡々と先生は話を続ける。
「つまり、俺が言いたいことは一つだけだ。青春症に感染しているのは、『青春』という言葉に囚われているのは、君の方だ」
 やけに、消毒の匂いが鼻孔になだれ込む。しんとした保健室の向こう側、微かに体育の授業の喧騒が聞こえる。靴音、サッカーボールの跳ねる音、砂が舞う音。
「……いや、難しいよ」
 私は長い沈黙の後、ようやくそう口に出した。話を真っ向から否定されたことへの、抗議も込めていた。でも、先生は全く表情も変えず、歴史の授業でもするように、もう決定事項を説明するように淡々と話を進めた。
「君の言う青春症というものがもし本当に存在するとすれば、それは多分、感染したことに自分では気付けない。他の人間も、気付くことは難しいだろう。なぜならそれは人間の内面で起こる変化のことであって、しかも青年期の間のみ発症するからだ。だが君の場合は、それが目に見える症状となって表れている。それがその右手だ」
 私は、今度は咄嗟に右手を膝の下に入れた。どうしてかと聞かれたら分からない。でも、この手から私の中身全部を引きずり出される気がした。なんとなく。
「君がダイエットと称してその行為に走ったのはなぜだ? 自分より優れた人を見て、そうならなければならないと思ったからだ。じゃあなぜそうならないといけないと思った? それは、その人への羨望からだろう。何故その人を羨ましいと思ったのか? それは、君の言う多数の人間と同じように、『青春』という輪の中に入るために必要なものを持っていたから。自分が『青春』というグループの中に入れていないことを自覚していたから。つまり君は、自分で見下している『青春』という輪に、心の奥のどこかで入りたいと思っていた。そうだろ?」
 私は先生の問いから目を逸らす。正直、反論ができない。
「青春に囚われて、理にかなっていない行動をしているのは、君も同じだ。いや、君の方が重症化しているのは、もう誰の目から見ても明らかだろう」
 喉と胃がきりきり痛む。右手の関節が疼く。変わってしまった友人に、ついていけないのは事実だ。本当は自分だけが子供のままなんじゃないかと思っていたのも事実だ。松本とのツーショットに写るのは、自分であって欲しかったのも事実だ。ほんの少しでも見た目が変われば、上手くいっていないこと全部が変わると信じていたのも、全部全部事実だ。
「君は入れなかった。君の言う、『青春』の輪に」
「何度も言わないでってば。地味に抉るのマジやめて」
 苦笑しながら言う。言われた通りだった。私は、はみ出してしまった。一度はみ出したら、はみ出したことを自覚したら、もう二度と戻れない。青春なんか、そんないいものじゃない。冷酷で、何よりも残酷だ。何故なら、青春はみんなに必ず来るはずのものだから。大多数の人間は、誕生日を迎えるのと同じくらい自然に、『青春』という時を迎えるから。だからこそ、その波に乗れなかった人間は変人のレッテルを貼られる。
「諦めたことを、認めたくなかっただけ」
 水筒を握りしめる。中の液体が重く揺れる。何より『青春』の二文字に繋がれていたのは、紛れもなく私自身だ。考えてみればすぐ理解できるはずだった。でも多分、理解したくなかった。だから無意識のうちに、その結論から遠ざかろうとしていたんだろう。
「ねえ先生」
 降参と、ヘルプを求める意味も込めて、私は尋ねた。
「治し方知ってる?」
 先生はまた眉を顰める。もうきっとこの顔は先生の癖なのだろう。
「青春症を作り出したのは君だろう。作った人間なら、治療薬も分かるはずだ」
「分かんない、馬鹿だから。先生養護教諭だから、何かしら知ってるでしょ」
 青春症を作り出したのは君、という響きは悪くなかった。適当に吐き出した言葉が、きちんと伝わる意味を持ったのは不思議な感覚でもあり、心地よくもあった。
「生み出したものは最後まで面倒を見ろ」
 先生の黒目がこちらを向いたとき、何かを見透かされたような気がした。私は思わず口を閉ざした。無意識に右手の中指の付け根を撫でた。やっぱり変わり者だ、この先生は。
「ちなみになんだが」
 先生がふと思い出したように眉を上げた。
「『青春』という言葉の意味を知っているか」
 え、と思考が停止する。言葉自体の意味なんか、上手く言い表せない。言葉で表せるような単語じゃない、と思う。
「『春』を表す言葉だ、元々はな」
 しばらく答えなかった私を見て、先生はそう言葉を接いだ。
「春?」
「そうだ。元々の意味は、それだけだ」
 ふうん、と私は相槌を打つ。
「だが、それが転じて他の意味を持つようになった。春から連想して、若くて活力のある元気な時期、夢や野心に満ちた時代のことを指すようになった」
 先生は淡々と、今度は国語の授業のように説明した。
「つまり、別に友達や恋人、見た目は全く関係ない」
 先生の目と、私の目が合った。私は水筒を握りしめたままの姿勢で、目を逸らせなかった。次に続く言葉を聞きたかった。
「夢や野心があるなら、そいつが治療薬になるはずだ」
 さっき、見透かされたと感じた時と同じ黒目がこっちを見た。やっぱり、何かを見透かされている。違う、見透かされているというか、先生は治療法を知っているのだ。確実に。それを知っていて、私に言わせようとしている。
「あのね……小説、書いてる。スマホにだけど」
 他人に言ったのは初めてだった。中学生の時は親友だと思っていたあの二人にだって、言わなかった。
「そうか」
 先生は結局興味が無さそうにシンプルな相槌を打った。私は何となく、もう戻れない気がしていた。もう戻れないっていうのは、別に悪い意味じゃない。正しくは、誰かに言ってしまったことでもう諦めることが出来なくなった気がした。
「ねえ、先生。目指していいと思う?」
 ちょうど、チャイムが鳴る。しんとした廊下に響き渡る、授業終わりの合図。先生はまためんどくさそうに廊下の方に目を向けた。
「さあな。それは俺にも分からん」
 当たり前すぎる答えが返ってくる。そりゃそうだ。
 私は、ベッドの下からリュックを取り出して背負う。先生が少し驚いた顔でこちらを見た。
「何でびっくりするの」
「いや、自分から出ていこうとするのは珍しいからな」
 先生に促されなくても、私は自分の足で立つことが出来た。
「次現代文なんだよね。出た方がいいかなと思って」
 私が言うと、先生は呆れたように頭を掻いた。靴を履いて、保健室を出ようとしたら、先生に呼び止められた。
「何?」
「今度見せに来い。ちなみに俺は、面白い話には目がない方だ」
 黒縁眼鏡の奥の目が細くなった。私も思わず笑った。
 水筒が入っているはずなのに、リュックが軽い気がする。私の仮説に反して、学生を卒業してもこの病気は治らないみたいだ。でも、なんとなく上手く付き合っていける気がする。本当になんとなくだけど。私は多分今日から、一生私が味わえないと思っていた『青春』に没頭していくのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?