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推しがいない

中学時代からオタクだった

・・・と思っている。

ある程度アニメのキャラには「萌えた」し、アニメにも興味があった。
実際に視聴するほどではなかったけど。

当時はまだ「アニメオタク=キモい趣味の奴」であり、
そもそも今みたいに手軽にアニメを見れるようなプラットフォームが整備されていなかった。
確か涼宮ハルヒの憂鬱とかが始まった辺りだと思う。
アキバが電化製品の街からアニメオタクの街に変わってきた辺りだ。


高校生になり、ある程度の自由を手にすると、「折角だから深夜アニメを見てみるか」という機運が高まる。
DVDプレイヤーも自由に使わせてもらえたので、幾つもの深夜アニメを録画し、そのクールで視聴するアニメを厳選するようになった。
あ、これは大学生の頃だったかな?
まぁいずれにせよこの時期だ。

ちょうど高校では軽音学部に入り、バンドを始めていた。
同時期に「けいおん!」も放送開始し、熱中した。

更には数年前に「初音ミク」がリリースされ、『メルト』のヒットによりボカロ文化が花開いた頃でもある。

バンドマンがアニメの世界に引き込まれていくことは明白だ。

ニコニコ動画を通し、様々なアニソン、ボカロ曲に触れ、同時にたくさんのアニメを視聴した。

同様の生活を大学生になっても続いた。

ただし、熱狂的なアニメファンのようにあらゆるアニメを視聴し、何度も見返して評論するような深いところまではいかなかった。
そのため「俺は中途半端なファッションオタクw」などと自虐のような揶揄をしていた。


それから時が経ち、社会人になるとアニメに触れる機会はめっきりと減った。

社会人とアニメの付き合い方には2種類があると思う。
・社会生活に疲れ、アニメを過剰摂取する ものと
・時間の確保が難しくなり、アニメに対しての関心が薄れていく ものだ。

自分は後者だった。
流行に着いて行くのは過酷だが、置いていかれるのは一瞬だ。
気づいた時には知らないアニメばかり放映されていた。

不幸中の幸いなことに、アニメ全盛期にたくさんのアニメを視聴していたことだ。
当時の作品のリバイバルや続編が今になっても放映されることがあり、見たことなくても名前くらいは知っているという作品が割とある。

まぁそんなことはどうでもよくて、
「中途半端なファッションオタクw」ですらなくなっていた。


僕が小中学生の頃ならそれが一般的な成長の姿だった。


あまりにもオタク文化が世間に浸透しすぎていた。

それまでは「オタク」というのはいい歳こいていつまでもアニメを見ている人間を卑下する用語だったのだが、
いつまでも自分の趣味を貫き通す“価値のある称号”に成り代わっていた。

僕が大学生になった辺りだろうか。
アニメや漫画、ゲームなどが「サブカルチャー」と呼ばれ始め、マニアックな世界から徐々に世間一般へと引き摺り込まれていた。

今思えば誰しもが「オタク」だったのだ。
それを恥ずかしがって誰も認めてこなかった。
しかし、大多数がそれを認め始めると、あれよという間に皆が自分を「オタク」だと認め始めた。皆、大衆でありたいのだ。

始めはアニメや鉄道などに限った話だったが、
それらに限らず、釣りやサッカー、車など、自分の没頭している趣味に対して「オタク」だと誇るようになった。
「オタク」が「知識人」というような意味合いに変わってきた。

元々、人より深い知識を持っている人に対して「オタク」などと呼ぶ習慣があったが、いよいよもってそれがメインの意味合いになったのだ。

それに呼応するかのように、至る所でアニメキャラクターとのコラボレーションが始まり、当たり前のように声優がナレーター業をするようになり、アニメが浸透した。
メディアを通した発信がより簡易的になり、様々なアイドルたちが自分たちのプロモーションを積極的に行なっていくようになった。

ここで新たな概念が生まれる

『推し』

概ね、「自分が積極的に応援している人物的な対象」といったところだろうか。一昔前で言うところの「追っかけ」に近しいものだ。
「推しのアイドル」「推しの声優」「推しのチーム」「推しのグループ」…
皆が自分の応援している存在を主張するようになった。

オタクであることがステータスとなり、その自分が“何に対してのオタクであるのか”のプロフィールとなった。
オタク文化が一歩先へと進んだのだ。

様々な人が自分だけの「推し〇〇」を作り、とても誇らしげに語る。

かつてオタクが卑下されていた時代とは全く異なる、自分が熱中していることを誇れる時代が来たのだ。
何かに熱中できるというのは素晴らしいことなのだろう。
ましてや、それを他人にアピールするというのは誇らしいことだ。

当たり前でありつつも少しこっ恥ずかしい、そんなことが市民権を得て来た。
とてもいいことではないか。


そして今の自分を重ねてみる。
当時(アニメを視聴していた時期)と比べてみる。
特段、何かに熱中していないことがわかる。
人に勧めたい何かがあるわけではないことに気づく。

推しがいない

あんだけアニメを見ていたにも関わらず、「オタクではない何か」に成り下がっていた。
「中途半端なファッションオタクw」ですらなくなっていたことを改めて認識した。
自己を表現できる何かを持っていないことに気づいた。

何かに熱中できているだろうか。
何かを必死に追いかけているだろうか。
もう少し早く推し文化が根付いていれば何かを推せていたのだろうか。
はたまたその逆か。

「推しを持つ」ということがアイデンティティを表現するものになった現代、推しがいないということは自己がないということに近い。

世間に対して逆張りをし、「オタク」のような道を歩み一般社会からの乖離を選んだものの末路が自己のアイデンティティを失い、中途半端な状態でオタクになりきれなかった存在
というのが笑える。


他人に誇れるほど推したくなる「何か」に出会える日は来るのだろうか。


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