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大学生の私がガソリンを吸った話

私の母校は、歴史の古さだけが自慢だったりするどこにでもありそうな国立大学である。その中でも私が通っていた経済学部は、1学年に400人くらいいる上に夜間コースまであるマンモス学部で、実際、中にはいろんな人がいた。経済学を学びたい純粋な志を持った人ももちろんいると思うが、まあ学力がこのくらいだからってだけで選んだ人も多かったと思う。

私もそれであった。本当は経済なんか全く興味なかったのであり、モラトリアムな気持ちはかなり強かったと思う。学んだことを活かして将来どうこうなんて気持ちはさらさらなかったと言っていいな。とりあえず経済学部はつぶしがきくし家から通えるから、という理由で選んだというしょうもない男であった。

大学に入ると、学部ごとの特権というのがある。工学部とか水産学部なら研究室に自分のパソコンがあるとか高い機材使えたりとか、教育学部ならピアノを好きに使えたりとかいろいろあるだろう。では経済学部はどんな特権が?……うん。ないよ。実技系の授業もないし授業でテキスト以外を使ったこともない。ただ唯一ほかの学部より勝っていたのは「授業がサボりやすいこと」だったと思う。

まあ、だいたいグループの中に一人は真面目に授業にでる人がおり、その他大勢がその人に出席頼んだりノートをコピーさせてもらうのである。そういう人々は試験前になると神と呼ばれ崇拝される。私の友人のY君がまさにそういう神様であった。

期末試験の前日はいつも、私は悪友のK君と一緒にY君の家に泊まり込んで試験の勉強をしていた。

私とK君の大学生活は全てY君に助けられたといっても過言ではない。彼は貢物(お酒)と引き換えにいつも快くノートを共有し、何もわかっていない我々に根気強く試験のポイントを解説してくれていた。自分一人で勉強したいだろうに申し訳ないと謝っても彼は「教えることで自分の身につくから」と言う。人としての格が違いすぎる。後光が差して見えてくる。

そうやっていつも試験前日にY君の家で3人で勉強し、どこかで誰かが痺れを切らしてそのまま飲み会となり、朝になるとドロドロと試験へ向かうというのがお決まりの流れであった。

経済法の期末試験の日だったと思う。その日も朝から3人で原付バイクに乗り、経済学部のキャンパスに向かっていた。Y君の家からキャンパスまでは15分程の距離なのだが、ひとつ小さな山を越えていかなければならない。

ところが我々が山道に入ったくらいの地点で、Y君の様子がおかしいことに気がついた。信号が青になっても発進しないのだ。「青だよー!」と叫んでも動かない。さすがに様子がおかしいので2人でY君のところへ引き返すと、彼は天を仰いで「ダメだ……」と言った。一瞬彼が二日酔いで力尽きてしまったのかと思ったが、ガス欠だったのは原付バイクの方だった。近くにガソリンスタンドなんてない山の中、冬の良く晴れた気持ちのいい寒空だった。

ここから原付バイクを押してガソリンスタンドまで行くにしては遠すぎる。かといって引き返しても試験に間に合わない。八方塞がりだ。しかしどんな困難な状況にだって解決策があるものである。そう、完璧な絶望が存在しないようにね(誰だおまえは)。かくして私は名案を閃いた。私の原付バイクのガソリンを少し彼に分け与えることができれば、この山を越えることができるのではないか、と。いつもY君からは知識を分け与えてもらっているのだ。私のガソリンくらいいくらでも使ってほしい。

しかし肝心のガソリンをどうやって移動させるのかが問題である。原付バイクを持ち上げて傾ける?いや無理無理無理。こちらは文科系という日陰で育ったもやしみたいな男達である。そんな男達が山道の端でぷるぷるとバイクを担ぎ上げていたら怖い。自主開催の博多どんたくか。オイサッオイサッ。今年の山笠は原付バイクばい!じゃねえ。というかすぐに私達がつぶれておしまいである。

そこで我々は近くの民家に訪問して、灯油をストーブに入れる時に使う灯油ポンプを借りようと考えた。もし今わが家に知らない大学生が「灯油ポンプを持っていませんか」と急に訪問して来たらと想像すると口裂け女の新しいパターンか?と思ってしまうかもしれない。その怖さは計り知れないが、そうも言ってられない。こちらは授業に出ていないので出席点が足らず、試験を受けなければ確実に単位を落としてしまうのである。

K君が「ここは俺が行くよ」と言って近くの民家に灯油ポンプを借りに行った。彼は私と同じくらいだらしない男であったが、こういう非常時には頼りになる男であった。しばらくインターホン越しに長い話をしていたかと思うと、やがて彼は民家の奥へ消え、何かを持って帰ってきた。よかった、うまくいったか。

しかしK君が借りてきた物をよく見ると、それはビニールホースだった。「灯油ポンプはなかったんだけどさ、これなら代わりになりそうだったから借りてきたよ」とニコニコと言う。これでガソリンを吸えばよくね?と。忘れていたが、彼は頼りになるがちょっと無謀なところがある。しかしこれをやらねば確実に間に合わない。もうやるしかない。

吹奏楽部は肺活量があるだろうという理由により、なぜか私がホースを口に咥えることになった。自分の原付バイクの給油口にストローのようにホースを刺し、ガソリンを吸う。はたから見ると完全にガソリンを飲む男である。アラレちゃんみたいだ。ホースを吸うとガソリンの匂いが徐々に迫ってきて、ヤバい汗がぶわっとでる。私はなぜこんな山の中でガソリンを吸っているのだろうか。冬の空がきれいだなあ。

ガソリンがいよいよ口元まで迫ってきたところで、ぐっと息を止めてガソリンをホース内に留める。その間にホースの先をY君の原付バイクの給油口に移し、ふーっとガソリンを吐き出す。そんな人口ポンプをなんとか3回ほど繰り返すと、Y君の原付バイクのエンジンがかかった。そのわずかなガソリンでなんとか山を越え、我々は試験開始にギリギリ間に合うことができたのだった。

肝心の試験結果はどうだったかというと、私は経済法の単位を落としていた。試験の間、口の中にガソリンの匂いが充満し気分が悪くなってまともに問題が解けなかったからというのはまあ言い訳で、実際ちゃんと受けてもどうだったのかは怪しい。

期末試験が終わった日にはK君がスーパー銭湯に行きたいというので3人で一緒に行った。「なんかやりてえな」「そうだな」などと具体的なことがひとつもない話をして、まだまだ何者にもなる覚悟など決まっておらず、つやつやと夜空は満天で、経済学部もどうにもこうにもなあ、などと思っていた。彼等は彼等で湯につかりながらうにゃうにゃとなんだか話していたが、私は聞こえたフリをしてうんうんと頷いているだけなのだった。

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