【小説】夏のスリーアウト(5)

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 一塁ベースに立っている。緊張でひざが震えている、と天馬は思った。セカンドベースを見る。真夏のグランドから立ち上る水蒸気のせいで、ベースが揺らめいて見えた。近いような気もするし、遙か遠くにも思える。陸上部の顧問が言ったことを思い出してみる。
「お前は、真っ直ぐ走ればインターハイ上位だ。だから短距離走をやれ」
 そうだ、真っ直ぐ走るのだ。
 牽制球がいやなので、あまりリードは取らなかった。主審が試合再開を告げた。
 投手はセットポジション。牽制球は来ない。賭けた。スタートを切る。夢中で走った。セカンドベース。近付いてくる。視界の端に、キャッチャーを捉えた。セカンド送球を諦めたようだ。盗塁成功。天馬はすべり込むことなく、二塁上に立った。走っている間に迷いはなくなった。あとで叱られてもいいと思った。もっと走ろう。
 二球目。スタートを切る。投球は右打者の内角へ。ありがたい、キャッチャーが送球動作に入りにくいコースだ。それでも、今度はきわどいタイミングで、サードへボールが来た。苦手なスライディングをすることになった。おしりから落ちるようなスライディングだったが、かかとはベースに届いた。審判が手を広げる。よし、セーフだ。
 三球目。行くしかないと思った。走り出したとき、一瞬、自軍のベンチが見えた。みんな度肝を抜かれた顔をしている。投手が、とっさに投球をはずしたのがわかった。もう、後戻りはできない。打者の宮本先輩が、慌てて走路を開けようとしてくれている。
「真っ直ぐ走ればインターハイなんじゃ」
 叫んでいた。ひた走る。捕球したキャッチャーが飛びかかってきた。頭から突っ込む。ホームベースはすぐそこだ。届いたか。
 気が付くと、背中の上に誰かが乗っていた。キャッチャーだった。なぜか横で宮本先輩まで倒れていた。主審が腕を広げているのが見える。セーフだ。無茶をしやがって、と言われるかな。立ち上がりながら、天馬はそう思った。

 ノーヒットで先制点を上げ、観音堂学園のベンチは盛り上がった。泥だらけになった天馬がベンチに戻ってきたので、全員が拍手で迎えた。不機嫌だった木田も、ベンチ前の肩慣らしを中断し、笑顔で握手を求めた。その時だった。
 坂本愛が、立ち上がった。次の次のバッター、四番の佐々木が、バットを持ってベンチ前に出ようとしていた。彼女は佐々木の背中に声をかけた。
「佐々木君、かっこいいよ。頼もしいよ」
 坂本愛を見た佐々木は、白い歯を見せて、刀のようにバットを振って見せた。木田がそのやりとりを見ていた、みるみるうちに不機嫌になっていく。
 浩二は、判断に迷った。坂本愛に注意するべきだろうか。ベンチ内を振り返る。滝本が浩二を見ていた。笑って首を振っている。浩二はグランドに視線を戻した。
 天馬の連続盗塁で騒然としている中、二番の宮本がサードへの内野安打で出塁した。観音堂にとっては初ヒットだった。南海第二高校のナインが動揺していた。予想だにしなかった形で、先制点を許したのだ。しかも相手は運だけのチームである。選手たちが、浮き足立つ中での、内野安打だった。
 相手チームの監督がベンチ前に出ていた。県内だけでなく、全国的にも有名な人である。堂々たる体格で、細身の浩二の二倍の体積がありそうである。体温が異常に高そうだ。六十歳近いはずだが、エネルギーに満ちあふれている。その監督が野太い声で自分のチームを叱咤した。
「お前たちは何をやっとるのか。負けるわけないんだ。こんな相手に」
 監督はそこで言葉を切った。さすがに「まずい」と思ったようだった。賑やかな球場でも、外野まで聞こえる大声で続ける。「落ち着いて、冷静にやれ」
 南海第二ナインの気持ちが引き締まったようだった。次のバッターはショートゴロに打ち取られた。それを見ながら、浩二は相手監督が言ったことを考えていた。
「負けるわけないんだ。こんな相手に」
「こんな相手」とは、どんな相手なんだろう。あの監督は何と言おうとしたのだろう。こんな弱い相手に、だろうか。こんな情けない相手に、だろうか。
 自分は言われても仕方がない。やる気があるとは言えない監督だった。選手たちはどう思っただろう。確かに、変なチームではある。女子マネージャーに振り回される連中に、時代劇の主人公気取りのやつ。それでも「こんな相手」と呼ばれるのは、気分がいいものではない。ベンチの天井のひび割れを見た。
「勝ちたいなぁ」
 思わず声が出ていた。自分でも驚いた。自分は甲子園にこだわっていたわけではない。第一、家族旅行はどうなる。旅行代金を無駄にするのはいやだ。暑い夏の練習もいやだ。
 近くにいた坂本愛が自分を見ていた。照れくささを隠して、浩二は主審の方に歩いた。
 代走に出た天馬の代わりに、二年生を守備につかせた。交代を告げながら、浩二は相手チームのベンチをにらんだ。あの監督の姿は見えなかった。
 
 木田は六回のマウンドに向かった。天馬の走りは痛快だったが、彼女のことを考えると、気持ちが乱れる。好きだと言ったとき、気持ちをはぐらかされたけれど、嫌いだと言われたわけではない。それなのに、今日は、まったく視線も合わせてくれないし、会話もない。しかも、田村にくっついたり、佐々木を持ち上げたり。いったい、彼女はどういうつもりなんだろう。

 勝てば甲子園、という試合のマウンドで、観音堂学園の投手木田は、好きな女子のことを考えながら投球を続けている。その気持ちを表すように、コントロールは定まらないが、なぜか魂のこもったボールが、優勝候補を苦しめ続けていた。この回も、ワンアウトからヒットを打たれただけで、後続の打者を打ち取ろうとしていた。

                        (6)につづく


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