文字は私に嘘を付かない。

こんにちは、魔裁さとです。
今回は私の日課についてお話します。
私の日課は「自分とは何か」について考え続ける事です。日課とは言っても、これは意図して考えようとしている訳ではありません。
勝手に考えてしまう 毎日毎日、自分ってなんなんだろう…それを理解すれば思いどおりに行動出来るのだろうか、と。
今回こうして記事にしている理由は、こうして文字に起こすと、今まで脳内にふわふわと揺蕩っていただけの意味不明の感情を 文字という形にして正体を知れたり出来たりするからです。
私は言語化が苦手で、記憶力も乏しく、基本的には自分の感情を説明する事が下手です。
しかし文字ならば、若干は詳細に語れる気がする これは、私に向けた私の説明書でもあります。
私の記憶や脳みそや思考は時に私に嘘を付きますが、私の書いた文字は、そこから動く事はなく、私に嘘を付く事は無い。

私の中には主観で物を考える私と、客観的に物を考える私がいます。

本来の私は主観的な人間です。論理的ではないし感情的で、人の目はどうでもよく、人を選ぶ表現をしても自重しない 過度な運命論者で、病的な前向き思考で、正しくなくとも自分の好きな事をしたい 良くも悪くも純粋で 根は真面目で、情に厚い 悩む必要などない そして幼い。

しかし高校2年生を迎えた辺りから私は客観的に物を見る事を知りました。
人の目を気にする様になり、過度な表現は大々的にはやりたくない 自重する事を重んじている 拙いがちゃんと自分の哲学を語るようになり、冷静でリアリスト 卑屈で、恐らく前者より大人っぽく、常に悩ましく、達観している。よく世間で言う「大人になったな」とはこういう事なんでしょうか

しかしこれは客観的な視点が増えたというだけで、私が大人になれた訳じゃない。
子供の私、大人の私 各々が私の脳に一緒にいるだけの状態な気がするんです。
ですから、私は中途半端なままでいます。

よくこんな事があります。
私は話し出すと止まらなくなり、うっかりデリカシーのない発言を良くする。それを後々反省して落ち込んでいる。
昔の私なら、反省する事すら出来なかった筈です。自分の視点でしか見ないので、一般的に見てそれがどんな風に見えたのか想像も付かないのです。謝ったり反省したりする素振りを見せていても、内心では全く納得していません。
しかし今は 後々から客観的に考え 自分で後悔をする。
私が最初から客観的に物を見れていたら、そもそも後悔するような無神経な発言なんてしなかったでしょう。したとしても、瞬時に謝る事が出来た筈です。
私は基本的には主観的な人間なんだと思います。
そこに、成長に伴い生まれたぽっと出の客観性、申し訳程度の社交性がついているのです。
主観的な私は子供、客観的な私は親のようだと考えています。
しかし私のこの客観性という物は、まるでダメ親のようだ。
子供が問題を起こすのを、ただ見ていただけの癖に 問題が起きた後に叱ってくるのだから
この客観性を良き親にする事も、私の人生次第でしょう。
しかし、私はこの客観性に自分を支配されるのが恐ろしい 何故かはまだ分からないけれどそう思っているのです。

今回はこれで終わりです
スッキリしました また次回!

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