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読書感想文(ハピネス)

要点:ハピネスを読んで思ったこと(まだ途中までだけれど)、吸血鬼に憧れを持つ理由、フィクションとの関係性

僕らは皆、吸血鬼に憧れている。ただし、僕らが憧れるのは、怪物となった吸血鬼ではなくて、人間に戻りたいと願う吸血鬼だ。

人と同じように生活したくても、血を飲まなければ生きていけない。人を襲いたくないという祈りと、極限の飢えとの狭間で、救いを渇望している姿は、僕らの憧れそのものだ。自分は怪物でないと泣き叫びながら、飢えに負けて人の血を啜りたいのだ。生暖かい背徳が喉を潤していく感覚の中で、空白に堕ちていきたいのだ。

わかり合える人を見つけたとしても、吸血鬼は年を取らず、同じ時を生きていけない。自分だけが世界から取り残されて、それでも尚、いつか失ってしまう繋がりを求め続ける姿は、僕らの憧れそのものだ。絆を深めた仲間、あるいは恋人が、老いて朽ちていく姿を、悟ったような顔をして、見届けていたいのだ。そして別離の度にこの先は孤独なままでいようと決心するのに、気がつくと人間と絆をもってしまっていて、そのうちやってくる別れの苦しみを予感しながら、儚い酩酊感に溺れたいのだ。

そういった内面的な苦悩への憧れだけでなくて、純粋な夜行性への憧れもあった。ゴッホの星月夜みたいな、青白くぼんやりしていて、仄かに黄色い月光が混じった、インディゴの夜の中を、薄着で裸足のまま徘徊できたら、きっと僕らは嬉しくて踊り始めてしまうだろう。いつか幼い頃に波打ち際を裸足で駆け回った、あの頃みたいな無邪気さで。

羨望と現実のギャップでため息がでるとわかっているのに、ついこういった物語を求めてしまう。現実だってフィクションの一部なのだけれど、ただただ出来の悪い退屈なフィクションだ。

でも僕らは心の底では結局そういった平凡なフィクションを望んでいるのだろう。全てを見通す願望器の前で、僕らが理想をいくら語ったとしても、願望器が叶えるのは、いわゆるディストピアで苦悩するフィクションではなくて、僕らの本質が望んでいる平凡でリアルなフィクションだ。

畢竟、僕らはそれを望んでいる。自身の本質は意志虚弱で何も望んでいないこと、それに対して、自らの貧弱さや愚鈍さに絶望する構造こそが、僕らが望む正しい苦悩の状態だといえる。

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