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【追想シリーズ】 初めてドイツでの国際コンクールを受けて🎹 (2020)

※当時のメモを元に書き直しており、現在感じていることとは違うことも一部記してあります。(写真はベルリンにて準備した際のもの)



2020年8月末、コロナの流行が一瞬落ち着いたころ、初めてドイツでコンクールを受けていた。会場は偶然にも普段勉強していた大学であり、アクセスや練習室など、慣れた環境だった。

それまで国際色豊かなコンクールを受けたことのなかった私にとって、日本人はただひとり、世界各国から来たピアニストたちと場を共にするのは初めての経験。
結論を言うと、準備の不十分さに加えて、精神的にも負けてしまった。どうにか我が道を行き(というよりただ必死で)準備したつもりが、いざプログラム冊子を目にしただけで、選ばれた他の参加者たちの貫禄に既にビビり、しっかりと硬くなった。
(ちなみにコロナ禍でレッスンが無く準備も完全自己流。無謀。)

尚思い返してみたら、当時はまだドイツに行って日も浅く、大学内においても弾き合いもクラスメイトとの対面も無かった時期。自身はバリバリの日本育ちの感覚で、その上に欧州の他のピアニスト達の様子と彼らとのコミュニケーションの仕方もよくわからなかったことが、萎縮の意味でも“貫禄“と感じた点のひとつだったのかもしれないと思う。
(初めてのライブストリーミングも怖かったけれど。)


演奏面で学んだことは細かくあるが、それとは別に演奏後に考えたのは「日本で生まれ育った」ということ。各国からの同年代の演奏家たちの演奏を(ネット配信で)聴いて、小さい頃「外国の昔の人」なんて思っていた作曲家たちの直接の歴史というのか、その麓で感性を磨き育ってきた人たちの存在を目の前で感じた。いや、私は地元の偉人はおろか、今生きる人や自分のことでさえわかっていない。でも、昔悩んでいた「なぜわたしが西洋音楽をするのか、惹かれるという理由は認められるのか。」という問いに、ついに直面したような気がした。時代は変われど言語や文化は少なからず受け継がれるもの。多く参加していたポーランド人のリズム感によるショパンやシマノフスキなんて、とても惹かれたものだ。

注: 当時私の驚きをさらった方々は、そもそもものすごく訓練されていて、他の作品を演奏されてもものすごく素晴らしいことが、後からわかりました。笑

同時に、素晴らしい演奏をする人たちの国籍は関係なく、それぞれの色を生かしてまた新たな魅力をつくっていたのも事実だ。演奏家は通訳者と言うけれども、その通訳者って何だろうか。



このような苦い思い出だけれども、それもまた良い経験であったし、それからロビーで演奏後にソワソワしていた私に声をかけてくれたピアニストとの会話は忘れません。「満足のいく演奏はできた?」と聞いてくれて。それまではコンクールというのは雰囲気の怖いところだとどこか思っていたのに、ああコンテスタント同士こういう会話をするのだなあと、もの凄く感激。お互いの音楽や勉強についても話して、非常に勇気づけられたことを覚えています。(後から彼の緻密で繊細で温かな素晴らしい演奏を聴いて、少し納得したことも。)

そして、このときに審査員に言われた「貴方は誰だっけ?印象に残っていない。逆にとても悪かった訳じゃないということなのだけれども、思い出せない。」「あなたの音楽はどこ?」という指摘が、その後ずっと頭の中にありました。わかりたいのに、あまり意味がわからなくて。
しかしその2年後あたりから「やりたいことがわかるようになった。」「すごい印象を残してくれた。」と言っていただけることが少しずつ出来てきて、喜びと同時に少しずつ意味がわかりそうになっています。わかりたい!


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