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【小学生時代、葛藤の始まり。②】〜母と私と家族の物語〜

高学年の時

高学年になると、
女の子の心の中というのは、
かなり複雑になってきます。


大体4、5年生あたりから、
学校で友達とのトラブルが出てくる事も
多いかなと思います。

私の学校生活も、少しづつ、
変な事が起こり始めました。


男子と他愛もない事で喋ったら、
その直後にシカトされたとか。


その位、日常茶飯事。
(今、思い出すと、オイオイだ。)


その日、その日でターゲット変わる。


なんか、毎日憂鬱でした。


さて、家ではというと、、、。


少しづつ、私の前でも
両親の喧嘩が始まりました。


私は学校も苦痛だったし、
家でも落ち着ける所が
少なくなりました。


父と母の喧嘩の原因は
母の義母(父の母親)からの
電話が原因でした。


嫌な事を言われたのでしょう。
祖母に直で言い返せないので、


その分、父を責めていました。
それはもう、ひどい言い方で。

母は言葉巧みに、人に罪悪感を
抱かせるのです。

母はいかに自分が可哀想で
非力かを訴えてきます。


妄想が既に始まっていたのか、
元々の性格もあってか、
父の弁解は聞きませんでした。


父は多分、祖母が何を言ったとしても、
母の味方だったと思います。


なぜなら、父も祖母(父の母)の事を
100%好きという訳ではなかったから。


母はこの頃から父や私の気持ちは、
もう冷静に考えられなかったと
思います。


私はその頃から、
母の愚痴を聞かされていました。


父の事、祖母の事、母の両親の事。
嫌な事ばかりでした。


そして、私が母の意向に沿わない事を
言えば、『敵』となりました。


そして、
私に父の家の血が流れているから、
敵なんだろうとも言われました。


私はその頃から、
自分の存在を否定されるような
言葉の虐待を受けていました。


言葉の虐待は、
もちろん目に見えませんが、
心の奥底をえぐられる位、
辛くて苦しいのです。

私はその頃から母に対して、
キレるようになりました。

私は自分の存在意義を
母親に示す為に必死だったのです。



しかし、母は変わらず、
私に愚痴を言い続け、
そして、私と母の喧嘩はエスカレート
していきました。

私は6年生頃には、
荷物をまとめ、通帳まで持って、
家を何度も飛び出しました。

でも、どこにも行く宛はなく、
近くで自分の気持ちを鎮めて、
帰宅しました。

それでも、大きな喧嘩の後は
私の心が弱りました。

不思議だったのが、
母は喧嘩の後、謝りもしないし、
ケロッと機嫌も良く、笑ってさえいました。

それがまた、私は許せない所でした。

その頃から、私や父は頻繁に
母から言葉尻をしつこく詮索され、
責められるようになりました。

母の言い分はいつも一方的。
私達の気持ちを聞いてきても、
母自身が絶対正しい、
という言い分でした。


父は頻繁にある事、ない事を
責められ、


私は父や祖母の愚痴を聞かされ、
大人の回答をいつも求められました。


私は既に子供ではいられなくなりました。


母のために、大人の気持ちを
少しでも分かれば、責められないと
真剣に思って、大人に近付こうとしました。

父と私は、
母から同じ様に責められていたので
いつの間にか同じ悩みを持つ
『同志』となりました。


大人になって気付いたのですが、
父は私を守ってくれなかったのです。

お互いをかばうと
母が余計に逆上したので、
私も父も、お互いの喧嘩には、
なるべく入りませんでした。

私はまだ小学生。
親の事を誰にも言えないまま、
学校では普通に振る舞いました。

今、思い出しても、
相当辛かった時期だったと思います。

早く大人になりたかった。
でも、どうしていいかも分からない。

そんな日々が続きました。


※今日はここまでです。
かなりディープになってきました。

読んでくださる、あなた。
少し内容がハードかもと、思います。
何かのお伽話の感じでお読み下さい。

また、更新していきます。

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