針仕事

わたしの苦手なものの一つに、針仕事がある。
裁縫。
針で縫うってやつ。
(しつこい)
学生時代、家庭科は、調理実習で点数を稼いだ。
針を使うものは、手仕事でもミシンでも、苦手だ。
ミシンに順番通り糸が通せる自信がない。

子どもが生まれたら、針仕事やミシンを使うこともあるかもしれない・・・と思って、ちょっとビクついていた。
できればやりたくない・・・と思っていた。
そのわりに、ミシンを新しく買ってしまうという、
なんでも形から癖は健在であった。
(買ったミシンは、7年間で一度、雑巾を縫うのに使ったのみ。)

しかしながら、子どもは保育園に入ったので、
手作り指定のものは一つもなく、
針仕事はほとんどせずに済んでいた。
小学校に入るときには、何か手作りしなければならないものがあると聞いていて、
ものすごく気が重くなった。
しかし、同じマンションのママ友に、
「わたし、ほんと、裁縫が苦手でー」と話してみたら、
「あ、わたし、得意です。やりますよ?」と
あまりにも気軽に引き受けてくれるっぽかった。
え?
そのとき、ちょっとびっくりした。
苦手だと言ったら、代わりにやってくれる人が現れるの?と思って。

苦手なことは克服しなくてはいけない、というのが染み付いていた。
自分でなんでもできるようにならないと、一人前じゃないというよくわからない設定が埋め込まれていて。
子育てし始めたら、とても一人ではできないことばかりじゃんと悲鳴をあげた。
そして、「自立するとは、依存先をたくさん持ってることだ」という話が
はじめて腹落ちした。
だから、頼れるところはなるべく頼って、、、とやっていたつもりだったが、まだまだだった!
そうか、まだまだ、「一人で頑張る病」にハマってた!と。

苦手なことは、得意な人にお願いしてみたらいいのだ。
そして、気づいたら、そういうのを得意としている人が、たくさんいて、
ネットで販売したりしていた。
わお!なんていい世の中!と思った。

「お金で解決するのは、愛情が足りない証拠」みたいな呪いもあった。
手間暇かけるのが愛情だという説。
これは、わたしの母から受け継いだものだ。
お金がない貧乏生活で、お金をかけられないから、手間をかけるということを正当化するために使っていた。
もちろん手間かけてもらったのだから、それなりの愛情があったのだと思う。
母が刺繍をした幼稚園の手提げ袋は、
「売り物みたい」と褒めそやされて、
持っていると気恥ずかしいけど、こそばゆく嬉しかった。
それを、わたしが再現できないことで、わたしは自分にダメ出ししていた。
できない自分に罪悪感を感じていた。
先輩母たちが、シーツや巾着袋や、給食のナプキンを
布を買ってきて、作ったという話を聞くと、
なぜだか胸が痛んだ。

でも、小学校に上がる子どものために、
必要な手提げ袋や巾着、上履き入れなどの袋類を、ネットで探してみると、素晴らしくかわいいものがたくさんあって、
子どもと一緒に選んで、好きなものを揃えることができた。
わたしが作るより、よっぽど綺麗で丁寧に作ってあることは間違いないし、
何より、子どもは大喜びだった。
わたしが苦手な裁縫しなくても、気に入ったものを使えるし、喜んでくれるのならいいじゃないか、と思う。

だから、わたしは針仕事は極力やらない方向でいる。
夫のワイシャツのボタンが外れていても、
見なかったことにする。
最近は、外れてたらクリーニング屋さんがつけて置いてくれたりするのだ。
ああ、ほら、大丈夫じゃないの、と思う。

しかし、年に二度、子どもの習い事の発表会のときに、
ちょっとした針仕事をする必要がある。
それは、業者に依頼するとか、誰かに頼むのがちょっと難しい。
もう少し大きくなったら子どもに自分でやれるようになってほしいが、
今はまだ針を持って作業するのは難しい。

ここはわたしがやるところだな、と思う。

必要だからやる、ということを、ただやるのは、
苦手意識でイヤイヤやるのと、全然違う。
針にうまく糸が通らないのも、なんだか面白く感じる。
うまく縫えるとか、突然、プロみたいな出来になるとかではないけれど、
自分なりにやれる。
苦手な針仕事も楽しく感じる、みたいな。

だからと言って、普段から、針仕事してみよう!とかいうことになるわけではないのだけど、
こういう違いがあることを知っておくのはいいなと思う。

苦手なことは一切やらない、と決めてしまうのもいいけれど、
苦手なことは得意な人にやってもらうのが良いな!と思っているけれど、
苦手なこともときにはやると決めてやってみる、というのもいい。

半年に一回の針仕事をした日に。


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