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年金と老いと死

ちょっと偏ってるかもしれないし、内容的には重いし長い。

ニュースアプリで老後経済や終活のニュースやコラムを見ていると、同じようなコラムが山のように出てくるようになってしまった。

トップを開けるとずらっと並んでいるので見るだけでお腹一杯。国際とか経済とか国内とかの分類から見たいニュースを探すことになる。あの機能はいらないなぁと思う。

そういったコラムは税理士やFPの方が書いていることが多く、実際に相続で揉めた話などを中心に書いている人もあれば、老後資金の貯め方を書いていたり、必要な資金がいくらくらいかを試算する方法を具体的に書いているものもあり、それぞれが「なるほど」と思えるようなモノではある。

でも結局、皆さん同じことを書いている。「老後の生活がちゃんとできるようにお金を貯めましょう。貯まったお金の死後分配については遺言書などで意思表示しておきましょう」それだけだ。

老後資金を貯めるために、若いうちから貯金を始めましょう。と勧めているわけだが、老後を考えながら貯金をして、今の生活を縮小するっていうのは、当事者にとってどうなんだろうと首を傾げてしまう。

若いうちは遊ばなくちゃ!などということ自体がすでに前時代的でおかしいのかもしれないけれど。

もしもうちの子どもがそんなことを言い出したら、親としては「いや、遊んだり仕事したり、とにかく今を一生懸命楽しんで生きる方がいいんじゃないの?何十年も先のことを気にしててもしょうがないよ」と言いたい。

残念ながらうちの子はそんなことを言わないけれど。

30年前には「30年後には年金は破綻してもらえなくなる」と言われていた。それで個人年金や不動産などにお金が流れていって、国民年金を納める人が減ったわけだが、30年経っても年金はまだ受け取れる。

確かに金額も減ったし、受け取りそのものも65歳まで受け取れないとかの制限がついたりしたけれど、なくなったわけではない。

最初から夫婦で正社員として働いていたら、当時の20代(今の50代)なら年金だけで世帯年収は500万くらいになるんじゃないだろうか。残念ながらうちは専業主婦してたからそんなにもらえないけど。それでも生活はやっていけると思う。

子どもにお金がかからなくなるし、年寄り2人で食べる分など、たかがしれている。悠々自適とはいかなくても、餓死するほどではないだろう。たぶん。

NISAだiDeCoだと投資をさせたいのかな?とも思えるし、保険会社界隈の集金作業?とも思えたりもする。

個人的には、「お金がない時間がない。老後資金も必要だから貯金もしなくちゃいけないのに、教育費のかかる子どもは生みたくても生めない」とか言ってる世帯に、人生もっと楽しもうよと言いたいし、そう言える社会になってほしい。

そのためにも、年寄りは子や孫の世代にお金と知識と経験をしっかり渡して、しかるべき時にちゃんと死なねばならないと思う。

ちゃんと死ぬというのは難しいけれど、少なくとも認知症や寝たきりになって、様々な退行をして、自分が自分でなくなってまで生きていく意味がその本人にあるのだろうか。

今の年寄りでそう思ってる人は多いし、78歳になるうちの母も「ぴんぴんコロリ」が理想という。次の年寄り世代の私だってそう思う。おそらく若い人だってそう思っているだろう。

そのぶんの社会保障を困っている人に回せば、お金がないから子どもが生めないなどという人も、多少は減るかもしれない。子どもは親だけで育てるのではなく社会で育てるものだ。その中には社会保障という経済的な部分だって含まれていると思う。

誤解のないように。目的も楽しみもある高齢者に「いい歳なんだし、社会のためにそろそろ死んだら?」などと言っているのではない。
ましてや障害や疾患で、やりたいことがたくさんあるのにやむなく行動制限を受けている人に対してなにか思うところもない。
私の息子は障害者だが、社会のために死んだ方がいいなどと欠片も考えたことはない。

人として自分の死期は自分で決めたいというだけだ。

Twitterで「介護施設でセクハラが問題になりすぎた男性の介護を、男性介護士にすべて変えたところ、認知症が進行して寝たきりになったケース」について「介護士は愚痴も暴力も性欲もすべて笑顔で受け止める存在ではありません」と女性介護士が言い、それがすべてだと呟いておられた。

まったくそのとおりだ。

正直に言えば人としての制御が効かなくなった人は怖い。看護師やってても、殴られることもあればセクハラなどは日常茶飯事だ。

「ぐーで殴られたり、突き飛ばされたり、蹴られたり、セクハラされたりしても患者さんだから怖くない、平気だ」なんて人が医療介護分野だから特別多いとも思えないし、それがお給料の一部だなんて納得できない。

みんな同じだ。怖いものは怖いし、嫌なものは嫌だ。それが嫌でやめていく人だって多い。
愚痴くらいは聞こう。それは仕事の一部だ。

どんなに高尚なひとでも、「絶対にそんな(暴力や愚痴やセクハラする)人にはなりたくない」と思っていても、そうなる可能性はある。認知症になって人格が変わったり、病気になって抑制が効かなくなることもある。歳をとるとはそういうことだ。

私の父はもともと、ものすごく穏やかな人だったが、肝癌で亡くなる直前の数ヵ月は人が変わったように暴力的になった。母や妹に暴力を振るい、はっと我にかえって「死にたい」と呟いていた。

父は、さんざん苦しんで延命措置を拒否して逝った。

癌は膵臓にも転移していたし、腹水も溜まっていた。いつも一人掛けのソファに座り、首を深くたれ、浅い呼吸しかできず、痛みが襲ってきてもじっと我慢し続けた。夜も眠れずソファに座っていることが多かった。

眠れないので睡眠導入剤を処方されていたが、手のひらにおいたその薬をじっと見つめて「これ、何日分飲んだら死ねる?」と私に聞いた。
「残念ながらそれはまとめて飲んでも死ねない。余計にしんどくなると思う」
「そうか。死なれへんのか」涙を浮かべて寂しそうに笑った。

老いとか末期とかいうのは、とても哀しいと思う。そんな哀しい状態になるために、今までがんばって生きてきたわけじゃないのに。

人は、そんな状態でも「命は大切なものだ」とか綺麗事を言って、哀しいその人をもっと哀しい状態に追いやる。

「その命が大切なのは遺された人だけ」なのだということに気づかないと、せっかく生きた人生がもったいない。

自分の死期が選べないことは不幸だ。どんなに苦しくても、辛くても、痛くても、情けなくても、自分が自分でなくなってさえ「生きてさえいてくれればそれだけでいい」とかいう周囲の思惑で無理やり生かされてしまう。

知ってる人も多いと思うがこの「生きてさえいてくれれば」の中には、生きてさえいれば年金がもらえるという側面もある。

脳外科では「延命措置をしても、このまま意識は戻らないと思います」と医師に告げられても「この人が死ぬと私が年金をもらえなくなる」と言った人もいた。その人は意識も動きもなく人工呼吸器をつけたまま、高カロリー輸液で生かされていた。

非難を恐れずに言えば「馬鹿げている」

「自分が悲しみたくないからこの人に生きていてほしい」とか「どんな命でも大切」「年金が減る」などという考えはその人の命と関係ない。捨てていいと思う。

ほとんどの「生きてさえいてくれればそれでいい」という家族は、延命措置に手を出して、2年後3年後には見舞いにすら来なくなるという現実をわきまえてほしい。

遺された人の悲しい辛い苦しい現実は一時的に逃れても、いつか必ずやってくる。先延ばしして、苦しんでいる人の苦しみを引き伸ばすことに何の意味もない。

欧米では尊厳死が認められる国がある。中には認知症でも「精神的苦痛」として認められる国もある。そこでは人権の中に「人として死ぬ権利」を認めている。

昔読んだ哲学書にこんな話があった。

何かの神様のお祭りに2人の若い兄弟が、自分達の母親を荷車に乗せて連れていった。母親はその神様に「この親孝行な子ども達に人として最大の幸福を」と願った。
次の朝、野宿した大きな木の下で、その兄弟は冷たくなって死んでいた。
死ぬことこそ、人としての最大の幸福。

という話だった。うろ覚えだけれど。
いろんな考え方があるが、私は正解なんじゃないかなと思っている。

生きていればいろんなことがある。幸せを感じることもあるけど、不幸のどん底に打ち捨てられている気分になることだってある。それらすべてから解放される時こそ、人生で最も幸せなときなのかもしれない。

私は私の人生をがんばって生きた。良いことも悪いこともまるごと、私が私であるために大切なことだった。そう思って逝けるなら、それはなんて幸せなことだろう。

人生で最も幸せな時を正気で迎えることができるように、私が認知症になったら一酸化炭素中毒でおくってくださいと旦那さんに言ったことがある。
旦那さんは「オレも頼む」と笑っていた。
とりあえず、60歳になったら夫婦で日本尊厳死協会に入会しようと思っている。尊厳死協会は尊厳死を認めてくれるわけじゃないが、そのカードを持っていると不必要な延命処置からは逃れられるという。

私たちに墓はない。作る予定もない。葬儀も必要ない。火葬場ではお骨を全て引き取ってくれるらしい。

それまでに、ひとり遺されてしまう子どもを自立させることが私たち夫婦の役目だ。私たちの安穏とした老後はまだまだ遠い。もう少しがんばらないと!と思う。

私はちゃんと死ぬべき時に死ねるんだろうか。

最低でも自分の息子に「あんた、だれ?」と言ってしまう前にはこの世を去りたい。
自閉症で知的障害のある彼が「認知症」を理解するのはどう考えても無理だ。
長い年月かけて作ってきた信頼はその一言で裏切られる。混沌とした世界に戻ってひとりぼっちで不安におののきながら生きていかなくてはならない状況にだけはしたくない。

一刻も早く、(認知症でも)自分の意志での尊厳死が認められる国になりますようにと願っている。

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