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生きる意味とか理由とか

快適に過ごしたい

『なぁなぁ。○ちゃんは何のために生きてんの?』
『暑くもなく寒くもない部屋で美味しいもの食べてにんまりするために生きてるけど?』
『え?それだけ?』
『うん、ほぼそれだけ。』

私には二十歳前後の甥、姪が6人いる。○ちゃんは私だ。
父の葬儀の時に久しぶりに会った。

甥の一人とゆっくり話をする時間があった。
彼らにすれば祖父の死を受け止め、自分はどう生きるのかとか、いろんなことを考えてたんだろうなぁと思う。

人なんて所詮は動物なんだから、突き詰めれば種のひとつとして生きてる。
人間として生を受けたことに対する役割は種の保存くらいのもので、生殖ができなくなった時点で種としての役割は終えている。
あとは、快適に生きて死ぬだけだ。
いや、違う!という人もあるだろうけど、私はそう思っているし、そうしたい。

人間っていっても、猿や犬猫と同じ動物。
たまたま脳が大きくて知性があって、今生きてる他の動物より高次の文明を構築することができた社会性のある動物というだけだと思う。

何万年もあとで、より高次の生物が出てきた時に、大昔に存在した『人類』は社会的な行動をとっていた可能性がある。
とか言われる程度のものなんじゃないだろうか。
その頃に地球はないかもしれないけど。

宇宙という大きな営みの中で、ちっぽけな生物の一つである人間が生きる意味とか生まれてきた意味とか個人の存在理由とか考えるなどちゃんちゃらおかしいと思っているのだ。

かなり本気で。

でもね、せっかく生まれてきたのだから、生きてる間は快適に過ごしたい。逆境を好む人の気持ちはわからないし、わかろうとも思わない。
暑くもなく寒くもない部屋で美味しいものを食べてにんまりすることは、私にとっては「快適に過ごす」ということで、それはかなり難しいことでもある。

暑くも寒くもない部屋

段ボールで快適だと思える人は少ないだろう。私もそうだ。
住まいを得るためには、どうしてもやらなくてはならないことが発生する。

自分でなんとかしようと思うなら、家賃なり購入なりできるだけの収入を、何らかの形で得なくてはならない。
それができずに快適な住まいを得たいなら、親に頼るか配偶者に頼る、子に頼るしかないだろう。

住居を人に頼ると、その人に束縛される。正確にはその人の期待に束縛される。
住まいを提供するのだから、何かのお返しを期待されるのだ。
それは当たり前のことだと思える。無償で手当たり次第に住居を提供してくれる人など、いるわけがない。

福祉に頼ることも考えられる。だが福祉が提供してくれる住居は万人に快適なものなのだろうか。疑問である。

食事をととのえる

食を得るのにも金銭は必要になる。
食事を作るためには、食材、調理器具、場所という金銭的対価を支払うものの他にも、知識、技術や段取りという目に見えないものも必要になる。

めんどくさいから外食Onlyにしようというのも選択肢としてはありだ。お金がたくさんあればやってみるのもいい。

でも外食はいつか飽きる。
不味いものを好んで食べるとは言わない。
「普通のご飯」の存在意義は大きいということだ。
メリハリをつけることが、美味しいものを美味しいと感じるために必要なのだ。

食べ物を美味しいと思えなくなると、食べたいものがわからなくなる。自分の食べたいものなのに、何が食べたいのかわからない。

何でもいいと思って食べるものは、流動食と同じで「食べている」ことにはならないと思う。ただの栄養補給を私は「食事」と区別して考えたい。

にんまり

にんまりとは、満足したときなどに、声を出さないで笑いを浮かべる様子をいう。

にんまりするためには、心身ともにそれなりに健康で、なにかいいことがあったり、お気に入りのものを見つけたりしなくてはならない。

人はにんまりすることだけを探して生きているわけではないが、にんまりできるような事柄はそれなりにある。

今日の料理はめちゃめちゃ美味しいとか、隣のワンちゃんはなんてかわいいんだろうとか。そんなことで十分にんまりすることはできる。気持ちさえ健康ならば。

気持ちを健康に保つということが、一番大変なんじゃないかなと思う。人の持つ価値観や幸福感には、その人のそれまでの経験が大きく影響するから。

まっすぐ純粋なまま育ってきた人など皆無だろう。
伸びたい方向と別の方向に添え木を出され、時にはへし折られ、挿し木されたりすることもあるだろう。
まっすぐ育てるために、さまざまな因子を取り除かれる人もあるかもしれない。社会に準じるための剪定だ。

そんなさまざまな「思い通りにならないこと」をくぐり抜け、それでもにんまりできるには、それなりの代償だってある。
その代償を支払い、その上でにんまりできるというのが、私の目指すにんまりだ。それは快適に生きるとも言えると思う。

私は、「私が」暑くもなく寒くもない部屋で、美味しいご飯を食べながら、にんまりするために今を生きている。
それ以外に、生きる理由とか意味なんか必要なんだろうかと思ったりもしている。

自分が快適に過ごしたいから、今は快適でなくてもこの瞬間を大切にする。
それだけでいい。

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