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巻き戻せない時間 1

「あのとき違う選択をしていたら」という思いを抱いている人は数多くいると思う。「自分の人生の中で間違った選択は一つもなかった」と言い切れる人が世の中にどれだけ存在するのだろうか。
違う選択をした自分がいる世界がいくつも存在するというのは、SF映画の中だけの話で、実際には今ここにある自分の姿が、これまでの選択のただ一つの結果だと思っている。

わたしの友人にA子さんという人がいる。A子さんは幼少期は内気な女の子で体の大きな男子児童によくいじめられていたらしい。しかし次第に活発になり、中学生の時には生徒会の役員をするほどで、自分の意見をはっきり言うタイプの女性になっていた。高校、大学、OL生活を経て、結婚したのは彼女が24歳の時だった。

夕方 unnamed

A子さんの実家のある田舎町では、女の子が4年制大学に行くのが珍しいことで、だいたい高校から短大辺りに進学して、2,3年勤めてから結婚するのが常だった。年齢で言うと24,5歳でどこかの家に「お嫁入り」するということが当たり前のように語られ、25歳を過ぎると「まだしないのか」と言われ、30歳近くになると「選びすぎている」とまで言われたらしい。
A子さんは4年制大学に進んだため、地元の企業に就職したのは22歳で、会社内では30歳過ぎてもバリバリ働く女性がたくさんいたが、自分の頭の中では2年くらい勤めたら結婚退社しようと思っていたそうだ。そしてたまたま交際していた男性がいたため、そのルートから外れることなく順調に結婚話が進んでいった。

いや、彼女が言うには、交際当時からかなり違和感があったらしい。交際相手は、端から見ると優しそうだし、笑顔の絶えない好青年だったが、二人で会っている時に突然怒り出し、彼が運転している車から追い出されたり、また、些細なことで口論になると大きな声を出すことがあったそうだ。さらに約束を破られることもしばしばで、待ち合わせ場所にいつまでも現れないので、彼の家に電話すると、彼の母親が電話に出て「熱が出て休んでいる」と言われることもあったと言う。その時も彼自身は一切応対しないのだ。それでも決まったルートから外れたくなかったA子さんは結婚することを望んだ。

A子さんが一番幸せだった時期は、2年間勤務した会社をいわゆる寿退社して、結婚式を挙げるまでの2か月間の実家で母親と過ごした頃だったと彼女は言う。朝ゆっくり起きて、母親と世間話をしながら朝食を食べ、そして結婚の準備の買い物に出かけたり、午後は近所の公園でバドミントンをして汗を流すという、大して魅力的でもないことだったが、あの時間がずっと続けばいいと思ったそうだ。

結婚式は豪華に執り行われたが、A子さんはなぜか「家を出たくない」という気持ちがいっぱいで、ビールを飲んで赤ら顔になっている父親の姿を見ると涙が止まらくなってしまった。結婚が嬉しくてではなく、家を離れることが途方もなく悲しかったのだ。

そして式を終えて新婚旅行に向かうため二人は羽田空港へと向かった。そこでの出来事が一番始めの恐怖だったと言う。新婚旅行客ばかり集めたツアーのはずが、旅行会社の手配ミスで、数組夫婦が離れた席になってしまったと添乗員さんが謝罪をし始めた。そしてその離れた席になった夫婦の中にA子さんたちは含まれていなかったが、その対象の人たちの落胆ぶりは大きかった。これから向かう目的地まで10時間、全くの他人と隣り合わせとはさぞかし心細いし、よりによって新婚旅行である。A子さんはできるだけ喜びを表に出さないようにしていたが、夫となる男性は

「ラッキー!幸先がいいな!」

と大きな声ではしゃぎ始めたらしい。それはツアーの人々全員に聞こえる大きさで、A子さんはそのデリカシーのかけらもない言葉にちょっと恥ずかしく、そしてちょっと頭に来てしまった。

「隣合わせになれない人たちもいるんだから、そういうの言わないで」

小さな声で彼に囁いたが、その言葉が終るか終わらないかのうちに、彼女は後頭部に衝撃を受けた。何が起きたのか分からなかった。そして後頭部だったため、少し頭がフラついてしまった。
気を取り直して、彼の方を見ると、怒りに震えた顔でA子さんを見つめており、その右手にはA子さんが誕生日祝いに買ってあげたクラッチバッグが握られていた。

あのバッグでわたしの頭を叩いたのか。それも空港で多くの人が見ている前で。

彼女は痛いというより恥ずかしさと情けなさで涙が出たと言う。当然彼は謝らない。なぜ叩いたのかも説明しない。元々語彙の少ない人だったので、おそらくは言葉が出ず行動で表してしまったのだろう。
A子さんは「このまま帰ってしまいたい」とまで思ったそうだ。しかし脳裏には結婚式で親戚たちにお酌してもらい上機嫌だった父や、自分の希望通りに何度もお色直しさせることができ、満足気だった母の顔が浮かんで来る。この後「成田離婚」などと言う言葉が流行った時期があったが、それもまだ存在しなかった時代である。さらに彼は15分くらいすると何もなかったかのように再び上機嫌に戻っていたのでA子さんは飛行機に搭乗し、そして目的地へと向かった。

飛行機 unnamed


旅行中に喧嘩も数えきれないほどあったが、それでも手が出たのは空港での出来事だけで、あとは大きな声を出されるだけで済んだという。ただ他のツアー参加者に旅行を終えて解散する時に
「あまり喧嘩をしないようにね」
と言われてしまったらしく、彼女はそんなに喧嘩ばかりしていたのか、と自分の態度を反省してしまった。彼ではなく、自分に問題があったと思ったのだ。

旅行から帰ってくると駅まで迎えに来ていたのは彼の両親だった。今まで見たことのないような嬉しそうな彼らの姿と、さらに自分には見せたことがないような上機嫌な彼の顔を見ると、やはりこの結婚は間違っていなかったと彼女は実感したらしい。

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