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巻き戻せない時間 2

迎えに来た夫の両親とともにA子さんはうどん屋さんに入ってお昼ご飯を食べた。実はA子さんの家では家族そろって月に何度か食事に出かけていたので、こういう時は外食するものだし、もちろん今が昼食だから夜も何か出前を取るものと考えていたのだ。
うどん屋さんに入ると夫の両親はメニューの中で最も安い「日替わりランチ」を注文するとすぐに決めた。A子さんはいつも「好きなものを注文していいよ」と親に言われていたので、あれこれ悩んだが、夫も同じ「日替わりランチ」に決めてしまう。もちろん「どうする?」と彼女に聞くこともない。彼女は「日替わりランチ」がかき揚げ天ぷらうどんセットだったのが嫌だったけれど、(彼女はかき揚げが好きではなかった)同じものを注文することに決めた。

「ここのうどんは安くて美味しいね」

「本当に安いね」

などと話しているのを聞きながら

「安くなくても美味しいものが食べたかったな」

と心の中で思ったらしい。案の定かき揚げを食べられず

「もったいない」

と夫に言われ、彼女は

「ごめんね」

と答えたと言う。幸い夫はたくさん食べる人だったので、彼女の分も食べてくれた。そして食べ終わるとさっさと車に向かうのだ。それも両親と夫は並んで歩き、彼女だけ取り残された状態で移動する。彼女はこの時も空港での出来事を思い出していた。
この人はわたしを本当に大事にしてくれるだろうか、と。

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夫の家は三世代同居で、夫の祖母もおり、さらにまだ未婚の妹も一緒に暮らしていた。その上、家の周りはほとんどが親戚である。A子さんの家は都会から疎開してきてそのまま暮らし始めたので親戚はほとんどいなかったのと大違いである。これもにぎやかで楽しいんだろうななどと世間知らずのA子さんは考えていた。さて旅行から帰ってきたその晩御飯からA子さんは驚いてしまった。

「今日はごちそうだね。天ぷらだもん」

と義妹がとてもうれしそうに言う。もちろんA子さんも天ぷらが好きだったが、まさか家の庭先の畑からとってきた野菜を調理するとは思わなかったのだ。(お昼にかき揚げを食べたことで天ぷらはもう食べたくなかったのも本音である)おまけに天ぷらと言っても野菜だけである。大人6人が食べるために大きな天ぷら鍋でひたすら野菜を揚げ続ける義妹を手伝いながら、「この人たちどれだけ食べるんだろう」と思ってしまった。時差ボケで疲れていたので早々に休みたかったが、食事が終わると家族は全員居間に移動してしまい、A子さんは一人で散らかし放題のテーブルの上の食器や山のように積みあがった流し台の中の御茶碗などを水で洗い始めた。時折テレビ番組が面白いのかみんなで大笑いしている。なぜその中にわたしは入れてもらえないんだろう。さらに

「写真撮ろう」

という夫の声が聞こえてきた。

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その写真の被写体の中にどうやらA子さんは含まれていないようだった。シャッターを切っては大笑いする声を聞きながら、彼女は今まで洗ったことのないほどの数の食器をひたすら洗い、それを布巾で拭いて片付け続けた。あとから夫に

「どうして写真を撮る時に私を呼んでくれなかったの?」

と尋ねると

「入りたかったら来ればよかったのに。」

との答えだった。それきり彼女は尋ねることはなかった。
翌朝から彼女は「嫁」として朝6時に起き、家族の朝食とお弁当の準備をする必要があった。義理の両親と夫と義妹のお弁当である。義妹はご飯だけ詰めればよかったのだが、量が分からず多めに入れたら

「多すぎる」

と量を減らしていく。それなら最初から自分で詰めればいいのに、と心の中に不満が残った。また生活費の面でも光熱費や水道代などは両親が支払っていたが、食費は全てA子さんの夫の収入から支払うことになってしまった。そこは結婚前にしっかりルールを決めておいてね、と確認したはずなのに、案の定何も言ってなかったようだ。それについても不満が残った。
またお嫁入り道具として電化製品を持って行こうと考えた時、夫に

「何が欲しい?」

と尋ねたら

「洗濯機と冷蔵庫」

と答えられ、両方は難しかったので最新型の洗濯機を買って嫁ぎ先に持って行ったが、義母は頑なに使うことを拒み

「今あるものが壊れてから使う」

と配達してきた電気屋さんが設置することすらできなかった。A子さんの家は決して裕福ではなかったが、新しもの好きの父の影響で、既にお風呂にシャワーがあったし、エアコン1機、当時流行りの朝シャンのできる洗面台も備わっていた。もちろんお湯は電気温水器だったし、下水道設備のない地域だったけれど個別の浄化増を入れて水洗トイレになっていたのだ。しかし嫁ぎ先には、そのどれもなかった。
今でも彼女が一番驚いたこととして語るのは

「旅行から帰った翌日に、なんて言われたと思う?「薪を割れ」って言うのよ。薪でお風呂のお湯を沸かすの」

だそうだ。持ったこともない斧を渡され、薪を割る時は、「これって冗談の世界じゃないのか」と思ったそうだ。もちろん割れるはずもない。
生活様式の違いの大きさは価値観の違いにも現れ、とにかく少しでも得をすることを選ぶ家族だった。当時ビデオデッキが廉価になりつつあったが、VHSより安いベータのデッキを義妹は購入してきた。そして結婚式のビデオを見ようとしたら、それはVHSだったので再生できなかったと文句を言うのだ。いや、夫は「ビデオなんか親戚の人が撮ってくれるからいらないよ」と言ったのでA子さんの実家用にお願いしたものだったはず。何もかもが自分のせいにされたようで彼女は少しずつ心が疲れていくのを感じていた。
そんなおり、A子さんの妊娠が判明した。両家にとっての初孫なので、さぞかしみんな喜ぶと思っていたが、大喜びしてくれたのはA子さんの両親と夫だけだった。義理の両親はなぜかほぼ反応がなく、少しずつ大きくなるお腹を見ても、何かを手伝うとか、栄養のつくものを食べさせてあげようとかいう行為は一切見せてくれなかった。彼女の楽しみは時々実家に寄っては、両親から頂き物のお菓子をもらい、きれいに煮付けた白身魚、揚げたてのコロッケなどをほおばることだったと言う。お風呂も嫁ぎ先では最後に入ることになっていたので(男の人が先だそうだ)実家でこっそりシャワーを浴びてさっぱりして帰宅した。

夫は最初のうちは手が出ることはなかった。しかしある夏の晩、寝静まった頃、「プーン」という蚊の羽音が聞こえてきた。その時だった。夫はパッと飛び起き、部屋の電気をつけると

「蚊が飛んでいるじゃないか」

と怒鳴った。A子さんは部屋の隅に置いてあった蚊取りマットを急いで取りに行き、コンセントにそれを差した。

「今、すぐに行かなかったら、多分殴られてたよ」

と夫は彼女に言った。意味が分からなかった。完全に非暴力の家で育ったA子さんにとって「殴る」という行為は1ミリも頭の中に存在していなかったからだ。この時彼女は初めて夫の本当の性格を垣間見た気がしたと言う。それはこれからの生活の不安にも繋がっていくのだった。


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