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終戦の日を前に

今年も8月15日がやって来ます。毎年、沖縄慰霊の日6月23日、広島原爆投下の日8月6日、長崎原爆投下の日8月9日と並んで過去ををしっかり振り返る日であると自分で決めています。
わたしの父方の叔父(父の兄)と母方の祖父は同じ町内で檀家が異なるためお寺は違うものの、立派な墓石の下に眠っています。墓石が立派なのは戦争によって亡くなった方がほとんどで、石塔の横部分には「いつ」「どこで」「どのようにして」亡くなったかが刻まれているのです。


わたしの父は2人の兄と1人の弟、1人の姉を持ち4番目の子供として生まれました。一番上の兄は幼少期に病気でなくなったため、父はほぼ次男として扱われてきたのです。そしてすぐ上の兄は、家族の中でも最も体が大きく、180cmほどの身長があり、武道に秀でていたと祖母が語っていました。近所に住むチンピラのような男性が絡んできた時、得意の柔道で投げ飛ばし、その後その男性は2度と絡んでこなかったというのが祖母の自慢だったようです。ただ叔父は学業の面では兄弟の中では一番出来が悪く、それでも動物が好きだったことから獣医を目指し、東京の大学を受験するため、ただ一人で上京しました。しかし東京駅で置き引きに遭い、肝心の受験票を盗まれてしまったため、そのまま実家に戻りしばらくは家にいたようです。しかし戦時下で大の男が何もしないでいるわけにもいかず、昭和19年、志願して陸軍に入隊しました。石塔に刻まれた文字を読むと、陸軍の二等兵(つまり最も下の階級)として配属されています。そして昭和20年3月、祖母は群馬県草津にある陸軍病院へ呼ばれ、病気で入院中の叔父(息子)と対面しました。その時にはあの立派な体格は見る影もなく、祖母の手を握る力さえなかったとのこと。その話は祖母自身から聞かされたことはなく、祖母がわたしの両親に語ったのをまた聞きして知りました。その話になると祖母は必ず涙を流し、「ほんとうにかわいそうなことをした」と言っていたそうです。叔父は終戦間際の昭和20年7月にその病院で亡くなりました。
享年21歳でした。


わたしの母方の祖父(母の父)は、農家の長男で、母を含め娘2人と息子1人の父親で、当時は町役場で働いていました。その祖父の元に召集令状が届いたのが、昭和20年1月で、年齢は37歳でした。
祖父の家には自分の母親と知的障がいのある姉も一緒に暮らしており、今考えてもなぜ召集されたのか解せないのですが、それでも出征していきました。そして3月に広島の呉から海軍の兵士として軍艦に乗って戦地に向かうことになり、祖母は子供3人を連れて面会に行ったそうです。その時の話は母から幾度も聞かされましたが、時期が時期なだけに戻ってくる可能性はほとんどなく、髪の毛を託されて家路に着いたそうです。祖父の乗った軍艦は石塔の文字によると、東シナ海沖で敵機の爆撃を受け沈没し、祖父は亡くなりました。同じ3月のことでした。


2年ほど前に母が亡くなり遺品を整理していたところ、祖父が役場勤めだった頃の家族写真が出てきて、どの子供も当時としてはお洒落な身なりをしており、特に末っ子の息子(叔父)は見るからに育ちのよさそうな穏やかな表情を浮かべていたのが印象的でした。その写真を母は亡くなるまで大事に箪笥にしまっていたのです。


戦後76年が経過し、戦争体験者が次々にこの世を去り、戦争についての辛い記憶を語り継ぐ人々が減っていく中、たとえ伝え聞いたことであっても、それを後世に知らせていくことが大事ではないかとこの頃特に思います。
立派な墓石と立派な戒名と遺族年金をもらったことが、彼らへの報いになっているとは到底思えず、志半ばどころか、これから多くの可能性があった未来を失わざるを得なかった人々に思いをはせることは永遠に続けていかなければならないと思うのです。そして二度と同じことを繰り返してはいけないと強く思います。

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