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終戦の日に思うこと


台風の影響で外は激しい風雨になっている。
そして今年も忘れてはいけない終戦の日が訪れた。自分の記憶を風化させないために、祖母や両親から聞いた戦争の話を文字として残しておこうと思う。

わたしには母方の祖父がいない。それは母が小学校5年生だった昭和20年1月に37歳で招集され、3月には東シナ海沖で乗っていた戦艦が撃沈され戦死したからだ。
母を筆頭に娘と息子に恵まれ、役場の仕事に就いていた祖父が、それも農家の跡取り息子であったにもかかわらず、敗戦間際のその時期になぜ召集されなければならなかったのか。
召集後、ろくな訓練も受けないまま、広島の呉から戦地に出陣する前に、祖母と母を含め3人の子供は面会を許されたという。その時に手渡されたのが祖父の髪の毛で、結局それが遺品になってしまった。母の実家に遊びに行くたびに、海軍の立派な軍服姿で写真に収まっている祖父の姿を見ては、とても複雑な思いになったものだ。
顔も知らないわたしですらそうなのだから、祖母や母たちはどんな思いであの写真を眺めていたのだろうか。

一方、父方の伯父、つまり父の実兄も21才の若さで戦病死している。彼は、身長180cm以上の大柄な体で、武道に長け、近所でチンピラが因縁をつけてきた時には、得意の柔道で投げ飛ばし、それ以降、チンピラから一目置かれる存在になっていたという。
その伯父は、獣医を目指し、東京に試験を受けに行ったものの、東京駅で置き引きに遭い、受験票などすべて盗まれてしまい、そのまま帰郷した。当時、定職もなくふらふらしている若者などおらず、志願して陸軍に入隊した。それが昭和19年のことで、昭和20年の晩春に、祖母の元に伯父が病気で入院中であると連絡が入った。祖母が陸軍病院があった群馬県の
草津まで出かけた時に、見る影もなくなった息子の姿に息をのんだという。あの立派な体躯は跡形もなく消え去り、母親の手を握ることすらできないほど衰弱していたそうだ。祖母は息子のその姿を見てどう思っただろう。わたしが物心ついてからも、その話をするたびに涙をポロポロこぼしていたのを覚えている。あの涙は悲しさと悔しさと息子への強い愛情そのものだったと思う。

どちらの墓石も墓地に行くと一段と目立つ立派なものだし、遺族年金も支給され続けたが、彼らが生きていることの方が遥かに重要だったことは間違いない。
戦争はごく普通の人々の日常を変え、そしてその周りの人々の日常も変えてしまう。

どうかお願いですから戦争だけは世界からなくなってほしい。

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