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乗馬と茶道 身体に集中すると心が開く

私は昨今のペットブームについていけず、動物があまり得意ではない。別に嫌いなわけではない。動物的本能で、私の心がお見通しなのではないかと不安になり、どんな態度で接したらよいのかわからなくなってしまうからだ。「かわいい!」と抱きついて動物好きのフリをしても見透かされ、黙っていても「自分に好意を抱いていない人間」と思われ、どちらにしても動物に心を開いてもらえない気がして自分の心の置き所がなくなってしまう。

だからか、人と馬が一体になる乗馬には憧れがあった。

べたべたしたり、赤ちゃん言葉で話しかけたりするわけではなく、お互いの身体にサインと体温と体重を感じながら、ある目的を一緒にこなす。そんなふうに、大切な人との距離感を保てたら、どんなに心地よいだろうと思っていた。そんな時、機会を得て、乗馬のレッスンを受けることが出来た。

以前にも体験したことはあって、それほど気負いはなかったはずだが、自分が乗るカフェオレという名の馬と対面すると急にドキドキした。ミルク多めのカフェオレ色の女の子の馬。がんばり屋さんだと言う。私は不安を与えていないか、間違っていないか、馬のしぐさや動きに一つ一つ意味や理由を探って心が揺れてしまう。

馬に乗り、言葉の代わりに使う「サイン」を教わった通りに使ってみる。伝わっているのかどうか、いまひとつ確信が持てず無駄に不要な声を出してしまう。身体には力が入る。

「あなたは私が怖がることをするかもしれないから信用ならない」と思っている自分がいる。カフェオレをそんな風に思いたくない、という一心で指導された通りに身体を動かした。私が少しずつ上手になっていくのをカフェオレは気づいていたのだろうか。レッスンの最後で、馬の足取りに合わせて身体を上下させていると、「リズムが合った」と思う瞬間がほんの一瞬だけあった。それは、「心が通じた」と感じる時とほとんど同じ体感だった。

実は私は動物だけでなく、もともと私は人間も得意ではない。人間として人間社会の中で生きてきて、いまは少し振る舞い方を覚えた。相手を傷つけないように、自分が攻撃されないように振る舞うけれど、誰かと「心が通じた」と思える時はそう多くない。

ふと、人間との関係にも、身体や呼吸のリズムを合わせることに大きなヒントがあるのではないかと感じた。身体のリズムに集中すると自然と無心になり、いつの間にか気づくと心を開いているような感覚だ。音楽や踊りとともに祈願するのも、そういうことなのだろう。私は茶道の所作にも、同じようなリラックスを感じる。決められた所作やサインやルールに意識を集中させることで、いつのまにか、相手の腹を探る気持ちは消えてなくなってしまう効果があるのではないだろうか。

カフェオレが教えてくれた。


私たちは、純粋意識(魂・ミッション・ダルマ)を生きると決めて、生まれる場所や時代を選んで生まれてきています。地球上の人々が、内なる魂と繋がり、健やかに成長しながら人生の航海を楽しめるよう願いながら、書いています。 応援や共感していただけたら、嬉しいです。