色彩の闇29
人の気配を感じない、人を避けるようにさえ感じられるマンションの住人のひとりが、シビレを切らして管理会社へ連絡してきたのは、まもなく冬になろうとしていた頃だった。
2階の角部屋の前に運ばれた新聞の量が尋常ではなく、隣に住むその女性の家の前まで圧し迫って来ているのと、どうにも初夏の頃から人の出入りを感じないが、新聞だけが止まる気配なく運ばれてくるので気味が悪いと言うのだ。
このマンションは分譲賃貸なので、各部屋ごとに大家が違うらしく、2階の角部屋のオーナーは外国人で連絡を取り付けることも手間取った。
やっとの思いで説明をすると、この部屋の借主からは向こう2年分の家賃を先払いされているから、部屋で異常が起きるわけがない、勝手に解錠するなどプライバシーの侵害だと憤慨していた。
しかも人の出入りを感じない割に電気のメーターがずっと稼働しており、在室のような数値を出していること、全てのライフラインもアクティブだったことから、この話は棄却された。しかしいよいよその電気メーターが未払いで止まったのを機に、なんとかオーナーの承諾を得て解錠することになった。
解錠する当日、実に寒い冬の朝だった。
管理会社の担当者2名と近くの交番に勤務する警察官2名が立ち会った。
解錠して間も無く、ひとりの警察官がすぐに外へ飛び出し、どこかへ要請をしていた。
そしてすぐさま真っ青な顔で鼻腔を塞いだ担当者が飛び出してきた。
その数十分後、マンション自体に警察のテープが張り巡らされ、肝心の部屋はブルーシートで覆われた。
遺体は2体ー
長い月日を冷房で冷やしていたために、乾燥損傷が激しく、司法解剖へ出すためにまもなく運ばれた。
亡くなったのは、この部屋の借主である土屋直也41歳と、当初身元不明とされたが、部屋に残された遺品から西山邑41歳と判明した。
2つの死体の死亡推定時刻があまりに違うこと、そして死因も違うことから、事件性を疑われた。
美沙がこの事件を知ったのは、刑事が訪ねてきたことでだった。
直也の携帯電話を調べると、無数の着信履歴はあったものの、それらの殆どは不在着信で、最後の通話記録が美沙だったことで、取り調べを受けることになった。
聞かれたくないことを、何度もなんども話させられた。
刑事はニコニコと話をしつこく聞いてくるが、目の奥では美沙を疑っているようだった。
しかし直也の死因がハッキリしたことと、死亡推定時刻に美沙にアリバイがあったことで、事件性なしと判断され、容疑は解消された。
死因や死亡推定時刻などは、親近者にしか教えてもらえない。
美沙は直也が所属していたバンドのバンドマスター。通称バンマスに頼み込み、実家を教えてもらった。
息子の壮絶な死に、ご両親は憔悴しているだろうから遠慮するよう言われた。
しかし美沙はそれには全く耳を貸さず、その日のうちに電車に乗っていた。
直也がなぜ死んだのか、どうしてもわからなかった。
あの日、素晴らしい時間を過ごした。
ちっとも絶望的な雰囲気などなかった。
なのになぜ!!
すべてを早く知りたいと逸る気持ちとは裏腹に、身体は鉛の枷でも着けられているかのように重かった。
最初は両足に、そして両手に、そして首に。
すべての関節という関節に、枷が取り付けられた感覚だった。
直也の実家に到着したのは、もうすっかり日が落ちた頃だった。
近くまで来ると、行燈が灯され、線香の香りがする家はすぐに見つかった。
美沙は突然の非礼を詫びながらも、ご両親への面会をお願いした。
直也の父親が霊前で待っていてくれた。
そこには直也の写真があるだけで、遺体はなかった。
美沙が自分の立場を言える範囲で説明した。
関係があったとは言わず、精神的に支えになってもらっていたこと、仕事でとても世話になっていたことを話すと、父親は目を細くして話を聞いてくれた。
「倅が、ひと様の役に少しでも立っていたと聞いて…救われた想いです。わざわざ来てくださってありがとうございました。家内は…家内にもあとで聞かせてやります。」
「お母様は…?」
「はい、あれから伏せております…。母親というものは、父親よりも息子と深いつながりがあるのでしょうなぁ…。まるで…。」
それ以上、言葉が続く気配がなかった。
父親はがっくりと項垂れてしまった。
美沙は頃合いを見計らって直也の死因を聞くつもりだったが、そんな雰囲気ではなかった。
しかしこう切り出した。
「実は、私が直也さんと最後に話した相手のようで…。」
父親がハッと頭を上げた。
目を最小限まで細めて、視界に映るものを制限していたはずが、この美沙の一言で最大限に開かれたのだ。
美沙はすべてを話した。
警察にさえ言わなかったことも、話した。
息子がどうして死んでしまったのか、それを推測するものが少ないのだろう、父親は一言一句、聞き逃さないようにと必死に聞き入っていた。
内容は猥褻なものでも、父親にとっては、息子の最後の言葉、最後の感情なのだ…。
話しながら涙が溢れた。鼻水が流れた。それでも構わずに話し続けた。
父親は、うんうんと小さく頷きながら、やはり鼻水を啜ることも忘れ、泣いていた。
「直也は…愛を知って死んだのでしょうか…私にはわかりませんが…。」
父親が意を決して話し出した。
それは、覚悟のようなものにも感じられた。
直也の死因は、餓死だった。
死体発見時、先に亡くなった西山邑さんを背後から抱きしめた状態でベッドに横たわっていたそうだ。
西山邑さんの死因は脳出血で、それを見届けた直也はそのまま、刻一刻と変わっていく恋人を腐敗させないために、冷房を入れ続けたようだ。そして体制を変えることなく抱きしめ続け、自分の死を待っていたのではないかと推測できるそうだ。不幸にもライフラインは全て口座から引き落とされる形で、直也の貯蓄が底を突くまでそれは続いたのだ。
その間、約1年ー
担当者がドアを開けた時、それはただの黒い大きな塊に見えたそうだ。一気に外気にさらされたことで、乾燥しきった部位が空に舞い、それはまるで、羽を持ったカラスのようだったそうだ。
遺書はなにもなかったことから、事件性を疑われたが、様々な観点から後追い心中と断定された。
相手の西山邑さんがなぜ脳出血になったのかはわかっていない。
ただ、脳出血は突然に襲いかかり、死に至ることは珍しくないそうだ。
そしてその西山邑さんが性転換していたことも真相を明らかにするまで時間を要したそうだ。
「倅は…愛とは感謝と対峙だと言いましたか…。」
「はい…。」
「私に、愛してくれてありがとうと…言ってくれました。」
「そうですか…、倅は、最期まで邑さんと対峙したんでしょうかねぇ…。」
「…あっ!」
「心だけでなく…邑さんのすべてと対峙したんですかねぇ…。」
だから…腐敗させず乾燥させて、消えていく恋人を見届けた…?
その刻一刻と向き合うために…自分の命を賭した…?
《なりたい自分になるんじゃなく、やりたいことをやるんだ。》
それが…直也さんのやりたかった…こと。
全身が震えた。
ちかくで直也が《正解!》と喜んでいるかのようだった。
こんなにも強い意思で、すべてを犠牲にしても、やりたいことをやり遂げたんだ…!
「あのっ…!あのっ、お父さん!!たぶんなんですけど、直也さんはきっと…いやあの、周りの迷惑とか、大人としてのモラルであるとか、そういうのを今は外してですね、きっと…!」
* * *
その十数分後、
年老い、生きる希望を失ったかに見えた女性が力の限りをあげて、大声で叫び泣いている音が、夜の空に響いた。
それは、闇に溶け込んだ鳥たちの眠りを妨げるほどだった。
直也の母は、息子の一部を白い布に包み、それを抱えながら全身を震わせていた。
それはやっと、呼吸ができたかのようだった。
ひとは絶望を感じると、死ぬための体力さえ奪われるー
考える力を失い、判断する力を失い、ただただ消えることだけを望むのだそうだ…。
彼女が愛した息子は、生きた。
私が愛した男は、生きた。
形はどうあれ、誰の意見もどうあれ、
私たちがここから生きていくために、その結論が選ばれたのだ。
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