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色彩の闇22

外は土砂降りだった。
文字通りバケツをひっくり返したような雨粒が一斉に道路を叩きつけていた。
普段なら我先にと追いかけてくる客引き目的のホステスや、慣れない繁華街を地図を頼りに上を向いて歩く観光客を、ボッタクリの店へツナぐ男たちは、皆、軒下に避難していた。
路肩に芸術的とも言える間隔て複数列で駐車していた空車のタクシーは次々と客を乗せてあっという間に消え去り、街は目的地へ急ぐ傘を持った少数の人間だけが視界のぼやけたネオンに影を落としていた。

その中で、この街では有名店の、有名人なほうであろうクラブ歌手の美沙が、中心部から外れる方向へ脇目も振らずにずぶ濡れで急いでいた。
軒下に避難していたポン引きたちが美沙に声をかけても聞こえていないようだった。
もっとも、優しさや労うための声かけではなく、この土砂降りに傘もささずに道を急ぐ美沙を冷やかすためであったが、敢え無く雨の音にかき消されていた。

そう、美沙にはなにも聞こえていなかった。
それは、直也との電話があまりにショックだったからであり、その真意を確かめなくてはいけなかった。早急に。
そうでもしないと自分の足下が砂場のように崩れ去りそうな感覚に陥ったからだった。
動悸が早くなり、呼吸が荒くなった。
なぜ…?なぜ…?なぜ…?!

「あの…今夜、もし良かったら少しお話したいんですが…。」
「んー、なに?譜面のこと?」
「いえ…。私たちのことです。」
「私たち?…とくに話すことないなぁ…。」
「直也さんには無くても、私にはたくさんあるんです…!」
「うーん…。話したって無駄じゃない?」
「…それって…どういう意味ですか…。」
「そのままの意味だよ。」
「とにかく…!これから会ってください!」
「今日はそんな気分じゃない。…じゃあね。」

電話は一方的に切れた。
いつもの美沙ならまた日を改めて、直也の都合がいいタイミングを見計らっていた。
しかしせっかく決心した意思が崩れてしまいそうだった。
ここで何らかの進展が欲しかった。
直也に、恋人がいてもいいから自分と向き合ってほしいというつもりだった。
その意思をどうしても今日中に伝えたかった。
そしてなんとなく直也の機嫌を損ねてしまったことも悔やんでいた。
このままおざなりにしたのでは、もう会ってはもらえないかもしれない。
そう思うと居ても立ってもいられなかった。
そうして路面に出てはじめて土砂降りに気付いたが、傘をとりに店まで引き返す気は無かった。
この時間なら直也はあの店にいるはずだ、あの店ならここから走れば3分くらいで着く、そうして目の前の交差点の信号が青になるのを軒下で待って、いっきに走り始めた。

たった3分、雨の中を走っただけで予想以上に息は切れ、そして全身ずぶ濡れになった。
歩くたびに靴端から雨水が溢れ、否応無しにビルの床に足跡を刻んだ。
髪の毛はボタボタと滴を着衣に落とし、この街で有名なはずのクラブ歌手は、どこから見ても訳ありの女に成り下がっていた。
しかし美沙はその姿をものともせず、直也の行きつけの店のドアを開いた。

前に訪れたときは中央のカウンターのほぼ真ん中に一人で座っていた。
しかし直也は居なかった。
店のマスターが美沙の姿に驚いて、タオルを持って入口に走ってきた。
しかし今日は直也は来て居ないことを告げると、美沙はがっくりと肩を落とした。
他に行きそうな店を知っているかと訪ねたが、マスターは知らない、電話してみたらどうだと提案してきた。
しかし何度電話しても電話口に出ることはなかった。
美沙はマスターに深く頭を下げ、店の扉を閉めた。
直也のいきつけの店など、ここしか知らなかった。
いや、直也のことなど殆ど知らない。
知っているのは大型キャバレーの専属ギタリストだということ、写譜屋としては定評があること、細く長い指をしていること、そしてその指で美沙の身体を思うままにできること…そして、普通とは違う嗜好を持っている…こと…。

知っているのはこのくらいしかない、いま何歳なのかも知らない。
誕生日がいつなのかも知らない。
そんな、恋人同士なら知っていて当たり前のことすら、なにも知らない、なにも教えてもらってないのだ。
ワインが好きで、小野リサが好きで、朝方に急にパスタを作り出すことや、いつも気分で人を振り回すことしか…。

思い返せば思い返すほど、涙が溢れた。
どうしても今日、直也に会いたい!
会って、せめて自分の想いだけでも伝えたい!
そう改めて意思を固めた美沙は踵を返し、直也の自宅へと向かった。
未だ雨は止まず、1台の空車の赤灯すら流れない道を、歩いて進んだ。

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