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色彩の闇20

「運転手さん、悪いんだけどやっぱり繁華街に戻ってくださる?」
「あ、はい。かしこまりました。」

呼吸も整わないまま、リエはケータイを閉じ、タクシーの窓の外に視界を移した。電話の相手は一緒に住んでいる恋人のガクだった。
今夜は早く帰って子供達の面倒を見ると約束していたが、その子供達が寝静まるとすぐに外出し、オカマの志乃ママの店で飲んでいるという…だからこれから来ないかという誘いの電話だった。
誘ってくれるなんて珍しい…。
確かに約束は守ってくれたかもしれないけど、家で待っててくれると思ったから、このお土産用に客に支払わせた大量のお寿司、どうすればいいのよ…。
こんなの持って他のお店になんかいけないわ…。

「ねぇ、運転手さん、良かったらこれ召し上がって?」
「えっ?!…いや、ちょっと…。」
「あら、誰も手をつけていないのよ?ご家族にお土産になさったら?ここのお寿司屋さん、とっても高級で美味しいの。だからきっと喜ぶと思うわ。」
「すみません。お客様からなにか頂くのは禁止されているので…。」
「そう、…じゃあお手数ですけど、そこのコンビニでちょっと停めてくださる?」
「あ、はい…。」

運転手は半ば強引に車を停め、ハザードランプを灯した。
そうして客席の自動ドアを開けた。
ところがリエは降りる気配などない。
運転手が不思議に思い、後ろを振り向くと、眼前にその寿司屋の紙袋があった。
その陰でリエが眉尻のつり上がった顔でこちらを見ていた。

「私が行ったら目立つでしょう?運転手さん捨ててきてよ。」
「えっ…?コンビニに捨てるんですか?」
「そうよ、このまま持ってはいけないところへ行くの。だから捨ててきて。」
「いや…。お客様どうぞ、ごじ…」
「はやく!!」

リエの威力に怖気付いた運転手はシートベルトを外し、売上げの入った小さなクラッチバッグを持ちながら、リエから渡された紙袋を持ってコンビニの外に設置されたゴミ容器へ向かった。
しかし深夜バイトの店員がこちらを警戒して見ているので、タイミングが掴めなかった。
紙袋は意外と大きく、コンビニのゴミ容器の口に収まるサイズでは無かった。
運転手は諦め、車に持ち帰ってきた。

「なにしてるのよ!!」
「店員がこちらを見ていて、しかも紙袋が大きくて容器の口からは入りそうもなかったので…。」
「は?袋の中から取り出してひとつずつ捨てればよかったじゃない。」
「いや、だから店員がこちらを…」
「あぁ、もういいわ!時間が勿体無い!それ、運転手さん後で責任持って処分してくださいね。頼みましたよ?!」
「…かしこまりました。」

運転手は面倒を押し付けられ、ため息をもらした。
厄介な女を載せてしまったものだ、今日はついてない。
早く帰って一杯やって寝てしまおう。そう考えていた。
しかしリエの小言はまだ続いていた。
タクシーはサービス業なのに気が利かない、こちらは好意で申し出たのにそれを断るなんて甚だしい、会社に抗議しておくとか、言い分が通らなければうちの店の前で空車待機させられないとか、話がだんだん大きくなっていった。
面倒になった運転手はもうなんの相槌も打たなかった。
ただ、車のスピードが先ほどとは比べものにならないくらいに早くなっていたことは、リエには気づかなかった。


「あらーリエさんいらっしゃーい!待ってたわよー。ほら!」

そう言って志乃ママは、リエの恋人ガクが座るカウンターの隣の席へ誘導した。
リエは納得がいかないという表情を引きずったまま、不機嫌に席についた。
男はそれを見届けると前に向き直し、空いた自分のグラスを持ち上げ、ママに合図した。

「この人ったらね、ボトル開けちゃって。
リエさんが来るのを待ってたのよ。
私は新しいのを入れたってリエさんは怒らないわよって言ったんだけどね。
なかなか律儀ないい男じゃなーい。
…飽きたらちょうだいね!…なんてうそー!ふふふっ!」

上機嫌に大きな声で盛り上げるママに、リエも愛想笑いをしたが、内心はそんな気分では無かった。
先ほどのタクシーの無礼な態度といい、この男はボトルが空いたから私を誘ったんだと気づいて頭にきたのと、今日の美沙の態度も思い出してしまい、何から何まで怒り心頭だった。
金が出せないならせめて私の怒りの的にしてやると思い、リエは恋人に宥めてもらえることを期待して勢いよく喋り出した。

「そのタクシーはともかく、美沙にはもっと気を使ってやれよ…。」
「はっ?!なに言ってんの?気を使って欲しいのはこっちよ!」
「美沙はホステスじゃないだろ。なに便利に使ってるんだよ、噂になってるぞ…。」
「どこで噂になってるっていうのよ?」
「バンドマンの間とか…若いホステスたちの間とか…。」
「ちょっと!バンドマンはともかく、なんでアンタがうちの若いホステスと接触してんのよ!」
「話しかけられることよくあるんだよ。仕事終わって飲んでる店でとか…。」
「へぇ…金もないのによく飲みにいけるわね。
たまにはご馳走して欲しいわ。
あ、今日ここの飲み代、ご馳走してくださる?ありがとうございます!」
「おい…!やめてくれよ…。」

リエの明らかな八つ当たりに、ガクはうんざりしていた。
事実、リエが美沙を便利に使っていることが噂になっているのは本当だった。
100人以上からなるホステスたちはよく観察している。
しかし飲み屋で声を掛けられたというのは嘘で、本当は浮気相手からの情報だった。
リエのいる店、グランドハイツには裏口は非常階段しかなく、ビルの6Fにある店のエレベーターは3基あり、バンドマンの移動にも自由に使って良いと言われていた。
しかし楽屋からエレベーターへの道は、ホステスたちの細長い待機席を通過するため、そこで通りすがりにこっそりホステスからメモを渡されて、あとで外で落ち合うという秘密のデートはよくあることだった。
特に若いバンドマンはホステスたちにはよくモテた。
リエも最初はこのやり方でこの男を落としたのだから、本当は警戒すべきことだったのだ。
しかしこの男は、その後数回にわたってこの秘密デートを楽しんでいた。
しかも相手のホステスはガクがリエのヒモであることを承知で誘ってくるのだ。
男にとっては後腐れがなく好都合でしかない。
金づるのリエと別れるつもりは今のところはないが、子連れの年増女と結婚するつもりは毛頭ない。
今の車転がしの仕事がうまくいって、軌道に乗ったら別れを切り出そう、
そこまで計画していた。
しかし今は、この女の八つ当たりが仕事だと自分に言い聞かせ、真剣に聞いているふりをしていた。
適当に相槌をうって、そのうち酔っ払ったと言って眠ってしまえばいい。
肝心なのはタイミングだ、それさえ見誤らなければこの関係は続く。
ガクは段取りよく仕事を進めていた。

「でも事務所でトラブルって、こんな時間にそんなことあるの?」
「美沙がそう言ったなら、そうなんじゃない?」
「なんかおかしいのよねー。その割には電話の着信を見た途端、パァッと花が咲いたみたいに顔が綻んで。
あれきっと、逃げる口実で、本当はどっかの男のところへ行ったんじゃないかしら…。
あっ…!もしかして!今日の内藤さんだったらどうしましょう…困るわ…!
大切なお客様なのよ。」

ガクはリエの観察眼に戦慄を覚えた。
美沙が事務所のトラブルでキャンセルしたというのは、同業ならすぐに嘘だとわかる。
だいいちこんな時間に事務所に誰かいるわけがない。
しかしリエがそんなことを知る由も無い。
なのに美沙の一瞬の表情でそこまで見抜くとは…!
自分のこれまでの行動も実はリエに全部知られているのではないかと、背中に嫌な汗を感じ始めた。
が、それを今、顔に出すわけにはいかない。
しかしリエはゆっくりとした所作でガクの耳に顔を近づけてこう言った。

「ねぇ…。美沙ちゃんの男って、誰なの?」
「さ、さぁ、知らないな、いないんじゃないの?」

内心ホッと胸を撫で下ろした。
まさか自分のことを全部知ってるというのではないかと思ったからだ。
リエの関心がいま、美沙に行っているのは好都合だ。
ここで点数を稼いでおこう。

「美沙に聞いてみようか?」
「あなたに言うわけないじゃなーい。
美沙ちゃんだってバカじゃないわよ。
あなたが知らないってことは、バンドマンじゃないわね…。
でも確かに男の気配は感じるのよね。
今日だって私が待ち合わせのために電話したときに、誰かと間違えて出たみたいで、すごく弾んだ声だったわ…。
いやだわ、私のお客様だったら本当に困るわ。
一晩のお付き合いなら大歓迎だけど、それ以上は…ね。」
「なんで大歓迎なんだよ。」
「あら、バカね。お客様はホステスの枕営業なんてもう乗ってくれないのよ、そのあと高くつくことを知っているもの。
それに比べて美沙ちゃんみたいな歌手はそういう見返りがないじゃない。
だからいいのよ!」
「結局、おまえの売上が増えるだけってことか…。」
「あらやだ、そんなこと思ってないわよ。ふふふっ。」

だんだん機嫌が良くなってきたリエを見て、男は今夜の仕事が終わりに近づいてきたことを悟った。
美沙には悪いが、しばらくネタとして使わせてもらおう。
あいつに適当な男との噂をでっち上げてやれば、リエはそれを面白がり上機嫌でいるだろう。
さて…誰と怪しいと噂してやろうかじっくり観察しないとだな。
と男はリエがその後も絶え間なく喋り続けるのを真剣に聞いてるフリをしながら、脳内でこの街中のバンドマンの顔をリストアップしていた。

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