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エッセイストになるまで【3】ボツになった原稿「ルック・アット・ミー」

「人は誰でも誰かに見ていてほしいと願っているのよ。私もだから絵を描き、人形を作るの。私の作品は私の代わりに叫んでいるの。ねぇ、私を見て!って」
 祖母はいつもそう言っていました。

 訃報をこのような場で伝えるのは、何も知らない人たちに悲しい気持ちを押し付けることになる。
 とんでもない傲慢だとわかってはいますが、祖母は私の自慢の祖母で、祖母の作品展「ルックアットミー」展をプロデュースしたほどです。今すこし、祖母の願いつづけたルックアットミーを叶えてあげたい。少しの間、祖母の自慢をさせてください。

 私の祖母・清彰子は「私のこと、おばあちゃんなんて呼ばないでね、だって、おばあちゃんじゃないから」と言うので、嫁からも孫からも姪っ子からも「ママ」と呼ばれていました。

 ママは私にとって魔法使いでした。夏休み、ママの家に行くと、操り人形の舞台や、子供用の包丁とまな板、ソフトクリームを作る機械なんかが用意されていて、私は夢中で遊びました。ママのドレッサーにはカーラーや口紅や、チョコレートの箱に詰められたイヤリングや指輪が何重にも詰まっていて、しかもそれを全部自由に使わせてくれました。夜は、私が主人公のお話を作って聞かせてくれました。私のちゃちゃによって、お話はくるくると代わり、いつしか私は自分の描いた物語をママにお手紙するようになりました。
 ママはいつも何か歌を口ずさんでいて、「ほら、踊ってごらん!」といいます。私はママの作ったワンピースを着て、ママのネックレスをつけて、得意になって踊りました。そのときの写真が残っていますが、私は日焼けして眼鏡をかけたガリガリの猿みたいな女の子で、全然可愛くないのです。だけどママの魔法にかけられている間、私は自分が外国映画の中の主人公のような気がしていました。

 ママは人形作家で洋裁家で、童話作家で画家でした。彼女のすべてが、今の私を作ってくれました。私の美的感覚、ファッション、人生観、なんでも歌にするくせ、どれももとをたどれば、ママがいました。私はママのファンで、ママの弟子でした。
 ネイルサロンに初めて連れて行ってくれたのはママ。恋の相談に「あなた、もう少し寂しそうにしなさい」と言ったのはママ。

 これからもうママとデートできないと思うと、とても寂しいです。もうママの魔法を味わうことはできない。できれば未来の私の子どもにも、その魔法をかけて欲しかった。大げさでなく、時代がひとつ終わった気がします。優しくて美しいひとが、優しくて美しいまま生きられる時代が、終わってしまった。私はママのようにはなれない。生まれ備えた優美さは、ママの時代の人々で最後だと思います。

 ある秋の日、ママと上野公園へ行きました。黄色と緑と赤と、千も万も葉の色がさざめいて、息を呑む美しさでした。そのとき、ママが言った言葉を忘れません。

「ほらね、世界って美しいのよ。私、死ななくってほんと、よかったわ」

 戦争や愛する夫との死別を乗り越えたあの人の、この世界に対する最終結論を、私は忘れません。

 ママ、私もずっとこれからも、世界は美しいと信じていくよ。そう信じる魔法をたくさん、ありがとう。本当にありがとう。

私の師である祖母・彰子が永眠いたしました。会うたびに「あなたのいま一番夢中になってることはなに?」と聞いたママ。それにいつでもなにかしら、答えられる自分でいようと思います。
 長い、長い、祖母自慢にお付き合いいただき、ありがとうございました。

            

これは2015年のブログから、エッセイ集に入れるのにぴったりだと書き直したもの。第二稿までは入っていたのですが、第三稿でボツになりました。

なぜなら、もう一篇、べつに祖母について書いたエッセイを追加したから。「ルック・アット・ミー」の祖母は、父方のおばあちゃんなのですが、もう一篇のほうは母方のおばあちゃん。
ひとつのエッセイに祖母ネタは二つもいらん!ということで、あえなくボツになったのでした。

つまり、母方のおばあちゃんを書いたエッセイのほうが、もっといい出来、ということです!
ご期待くださいませ。


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